紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

荘山稲荷神社と保食神

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案内文(印刷物)
「 荘山稲荷社

鎮座地 佐久市大字平塚字荘山12番地

祭神 保食神(うけもちのかみ)外3柱神

由緒(いわれ)

本神社は平塚区荘山に在り、創立されたのは江戸時代中期に入った頃の寛保元年(1714年)と伝えられ、今から273年前のことである。 当時の平塚は農業と養蚕が盛んな村であったため、その守護神として祭られた神社である。本殿が西側を向いた神社はめずらしく、平塚区と神社の 位置関係からも、この神社が平塚の守り神様である事がよくわかる。
本殿には、五穀養蚕豊穣(ごこくようさんほうじょう)の棟札 (むなふだ) がおさめられている。

平成26年9月3日 記

*出典 日本書紀 現代訳 」

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案内文(印刷物)
保食神(うけもちのかみ)

天照大神が天上にあって、言いました。『葦原の中つ国に保食(うけもち)の神がいると聞いています。そなた、月夜見尊(つきよみのみこと)、行って見て来なさい。』と。月夜見尊は命令を受けて降りました。そして、保食神のところに行きました。

保食神は首を回して国土を見ると、口から飯を出しました。又、海を見ると、毛の荒い動物、毛の柔らかい動物を口から出しました。その各種の物を全部揃えて、沢山机に並べて饗応しました。

この時、月夜見尊は顔色を変えて怒って言いました。『けがらわしい。いやしい。どうして、口から吐き出したものを、あえて私に食べさせようとするのか。』と言って、即座に剣を抜いて、殺してしまいました。それから天上に戻って、詳しくその状況を話しました。

すると、天照大神は大変怒って、『お前は何と悪い神だ。もう会わない。』と言いました。そこで月夜見尊とは、一日一夜を隔てて離れて住むようになりました。
この後、天照大神はまた天の熊人(くまひと)を遣わして、どうなっているか見に行かせました。この時には、保食神はすでに死んでいました。すると、その神の頭頂からは牛と馬が生まれていました。額からは粟(あわ)がなっていました。眉の上には蚕(かいこ)が生まれていました。眼の中には稗(ひえ)が生まれていました。腹の中には稲が生まれていました。陰部からは麦と大豆や小豆が生まれていました。

天の熊人はこれを全部持ち帰って、献上しました。天照大神は喜んで、『これはこの世の青人草(人間ー青い目の人とも言う)が食べて生きるものです。』と言って、粟(あわ)稗(ひえ)麦豆を畑の種子としました。また、稲は水田の種子としました。また天の邑君(むらきみー農民の長)を定めました。
そこで、その稲種を初めて天の狭田(さなだ)長田に植えました。その秋に実った穂は大変長く垂れて、豊作でした。また口の中に蚕を含んで絹糸を引き出すことが出来るようになりました。これから初めて養蚕が始まりました。

*出典 日本書紀 現代訳 」