岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道3日目の2(上尾宿)

2度目の中山道3日目の2
3月2日(月)の2

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9:11 上尾市に入りました。
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9:12 不動堂(さいたま市上尾市の境にあるそうです)
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9:13 不動尊道標(馬喰新田バス停横)
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川越道の道標を兼ねた庚申塔。正面には青面金剛が彫られ横に「是より秋葉へ十二町 ひご方へ壱里八町 川越へ三里」と刻まれています。

9:25 ローソンで休憩。トイレ。大きなダブルシューと、缶ボスブラックを買い、外で食べました。

9:43 愛宕神社
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9:51 氷川鍬神社
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上尾市教育委員会ホームページより

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氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、かつては上尾駅東口に降り立つと境内の木立が望見できたが、現在ではビルの陰になってしまっている。それでも駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見えてくる。
 氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658~61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追ておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。
 御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。
 この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭ったところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」とも言う)。当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだいがくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、開講日には、昌平黌の都講(とこう)(塾頭)で文人として高名な市河寛斎(いちかわかんさい)も招かれている。寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。詩には「蕎花爛?野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集』第5巻)。
 多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことになる。それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元の人々が教育熱心であったからであろう。

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氷川鍬神社辺りからコンタクトレンズが痛くなり、洗いたいけれど、洗う場所がなく、暫く我慢して歩きました。

9:53 中山道浦和宿上尾宿案内板
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案内板
中山道上尾宿

江戸時代、京都ー江戸間は諸侯の往来をはじめ、産物の輸送もはげしくなり、中山道は重要な路線のひとつとされた。
慶長7年(1602年)幕府により、中山道の宿駅が定められ、上尾は日本橋から第五次の宿駅となった。
現在の仲町一丁目付近が宿駅の中心で、本陣や脇本陣問屋場が整備され賑わいをみせた。

ー上尾百年史よりー 」

9:55 JR上尾駅
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10:01 庚申塔
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10:03 十一屋酒店
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酒蔵文楽 創業明治27年 ホームページより

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2018年4月30日、直営小売店「十一屋」をオープンいたします。

平素より文楽のお酒をご愛顧いただきまして、誠にありがとうございます。

 この度、北西酒造株式会社は、敷地内にて直営小売店「十一屋酒店」をオープンいたします。「十一屋」は、創業者 北西亀吉より伝わる当時の屋号であり、初心に返り、代々培ってきた酒造りを大切にしていきたいとの思いから、店名に掲げることにいたしました。

 創業より120数年、地産の豊かな水やお米に恵まれ、文楽を造り続けてまいりました。これからも、日本酒の醸造を通して、微力ながらも地域に貢献していきたいと、志を新たにしております。

 皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。

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10:05 ローソンのトイレでコンタクトレンズを外し、眼鏡をかけましたが、マスクと眼鏡だと、眼鏡が曇って大変です。

10:15 彩の国平成の道標上尾宿
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案内板

「上尾宿の歴史

上尾宿は、日本橋から九里十六町のところにあり、中山道の5番目の宿場であります。宿場として発達したのは、江戸時代初期の伝馬制度施行以降で、江戸後期になると紅花の産地として有名になりました。上尾という地名については、歴史的な根拠を持つものはありませんが、鴨川と芝川の間の小高い地形からつけられたといわれています。


①『木曽街道上尾宿加茂之宮』渓斎英泉作
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手甲脚絆にわらしがけで、道中笠をかぶった武士、文箱のようなものをかついだ飛脚、こもをかぶった六部などの旅姿が描かれています。この作品は、大宮宿と上尾宿の中間にある加茂神社を描いたものです。


②鶴亀の松
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鎌倉街道中山道が交差するあたりに、土手松の呼び名で知られた二本の老松がありました。一方を鶴松、他方を亀松と称し、街道筋でかなり目立った存在でした。


③『五海道中細見記』の上尾宿付近
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上尾と書かれた下部には、鍬大明神(現在の氷川鍬神社)が、その左には高札場の印と細井、井上の両脇本陣の名が記されています。また、上尾宿と大宮宿の間には、英泉の『木曽街道』にも描かれている加茂社も見られます。


鍾馗
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鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で置いたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることができない上尾特有なものでした。鍾馗様は疫病神を追い払う神といわれています。 」


10:30 須田家
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紅花の仲買問屋であった豪商・須田家です。須田代八郎は江戸時代後期の久保村(現上尾市)の豪商、南村(現上尾市)須田家の分家で醤油醸造・質屋を営み、本家とともに穀物・紅花の取引を行っていたそうです。

地元では、江戸まで他人の土地を踏まずに行ける、神田須田町の地名由来になっている。というような噂もあるようですが、証拠の文献はないようです。


2度目の中山道3日目の3(桶川宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/04/02/171331