紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き23日目の2(鵜沼宿)

二度目の中山道23日目の2
2020年10月29日(木)の2


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【江戸時代みたいな鵜沼宿

8:08 鵜沼宿問屋場
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案内板
鵜沼宿問屋場

 鵜沼宿には、江戸時代を通じ東町と
西町にそれぞれ一カ所問屋場がありま
した。東町では野口家が代々この地で
問屋場を務めました。
 『中山道宿村大概帳 』天保十四年
(一八四三)に『問屋場二カ所にて、一日代り継立て、問屋一人・年寄一人・帳
付一人・人馬指二人相詰め、重き通行
の節は一同罷り出で取り扱い来る。』
と記されており、西町の桜井家と一日
交代で務めていたことを窺わせます。
 野口家は、江戸時代後期の安政年間
に、西町の坂井家に代わって脇本陣
務めることになりました。 」

鵜沼宿は、11年前の2009年には歩いたのですが覚えていないのです。

2016年8月は、ゲリラ豪雨の影響で、鵜沼宿新那加駅までパスしてしまったので、太田宿や加納宿は三度目の中山道なのですが、鵜沼宿新那加駅は二度目の中山道です。

鵜沼宿は、時代劇のロケに出てきそうな素敵な町並みです。

橋から見える柳もまるで太秦か、日光江戸村みたい。
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8:11 飯茶屋宇留摩庵
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中山道鵜沼宿 釜めしの店 花の木ブログ」より

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宇留摩庵 一服茶屋『花の木』は、各務原市鵜沼のお食事処。中山道鵜沼宿のなかほど、昭和初期に建てられた商家を改修した『宇留摩庵』(うるまいおり)。

ゆったりとした時間を一服茶屋『花の木』のお食事とともにお楽しみ下さい。

珈琲もはじめましたので、お気軽にお寄り下さい。

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8:11 中山道鵜沼宿町屋館
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案内板
中山道鵜沼宿町屋館
由来

当館は、江戸時代に『絹屋』という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明治二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたものです。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものとみられ、太田宿から移築されたものと伝えられています。
三棟とも、市指定文化財、景観重要建造物に指定されています。 」


【菊川酒造】

8:12 菊川酒造
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菊川酒造ホームページより

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創業明治四年

本陣の正面でもあるこの場所には、江戸時代には河内屋という旅籠がありました。河内屋は絹屋の本家に当たる家です。この河内屋の井戸水は水質がよかったのか、皇女和宮が通行する際にお食事用の水として指定され、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています。本蔵と豆蔵は登録有形文化財です。


「菊川」の由来

由来は俳聖「松尾芭蕉」の更級紀行の中に歌われた俳句にちなんでつけられたと云われています。

初夏 長良川の鵜飼を楽しみ「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」
7月頃 鵜沼宿脇本陣・坂井家で「汲溜の水泡たつや蝉の声」
その約一カ月後 鵜沼宿への再訪にて坂井家に宿泊の折、主人の所望にて 即興で詠んだ句
「ふぐ汁も喰えば喰はせよ菊の酒」です。


清酒 菊川」

清酒、菊川の銘は、この句にちなんで付けられたといわれています。
このように、いにしえから「鵜沼宿」には酒造蔵があり、明治の初期に創業者の武藤嘉左衛門が句に詠まれた「菊花酒」を作ったといわれる蔵を譲り受け、酒造業の経営に携わり現在に至っております。
130年以上の歴史をもつ菊川の酒造場には美濃の豊かな自然の中、長良川水系の清冽な水に恵まれ、伊吹おろしの吹きすさぶ厳寒の中、昔ながらの手作りで丁寧に日本酒を醸しております。

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鵜沼宿本陣跡・脇本陣跡】

8:12 鵜沼宿本陣跡
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案内板
鵜沼宿本陣跡

鵜沼宿 の本陣 は、江戸時代を通じ桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。
寛延二年(一七四九)十代将軍家治に興入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入典の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。
文化六年(一八〇九)伊能忠敬 ら測量方 も宿泊しています。
中山道宿村大概帳 』天保十四年(一八四三)に、『本陣凡そ建坪百七拾四坪余り、門構え・玄関付き』と記されています。御上段・ニ之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。
明治維新 後、鵜沼第一小学校前身の新々義校は、ここに創設されました。 」

8:13 鵜沼宿脇本陣の前庭(ポケットパーク)
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案内板
中山道鵜沼宿芭蕉

 貞享二年(1685)、『野ざらし紀行
途中の松尾芭蕉 は、鵜沼を訪れ脇本陣
坂井家に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享五年(1688)七月頃、
芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を詠み、さらに同年八月頃、再度訪
れた脇本陣坂井家で菊花酒 のもてなしを
受けた折りには、主人の求めに応じて
楠の化石に即興の句を彫ったと伝えら
れて います。

 ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科記
行 に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曽の秋

と詠み、美濃の俳人達との別れを惜しん
だといわれます。 」

8:14 中山道鵜沼宿脇本陣
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各務原市ホームページより

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中山道鵜沼宿脇本陣

中山道鵜沼宿脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891年)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。 当脇本陣は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しています。


脇本陣坂井家の由緒

脇本陣を務めた坂井家は、本陣であった桜井家の西隣に位置し、文化年間(1804年から1818年)頃の街道の様子を描いた「中山道分間延絵図」には、本陣に隣接する脇本陣の門と切妻屋根の家屋の外観を見ることができます。
また、本陣桜井家に残された江戸時代中後期の鵜沼宿の記録である「鵜沼宿万代記」には、宿の世話役や多くの大名や役人などの接待を度々務めた、当主坂井半之衛門の名を見ることができます。
坂井家は、幕末の安政年間(1854年から1860年)になると脇本陣を東町の野口家に引き渡し、以後は一般的な旅籠として営業しながら明治維新を迎えました。

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8:14 二ノ宮神社
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【坂井家住宅、梅田吉道家住宅など旧家の数々】

8:15 坂井家住宅(丸一屋)
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案内板
「 坂井家住宅(丸一屋)

坂井家住宅は中山道鵜沼宿に面する住宅で、主屋は建築時の契約書が残っており、明治二十七年の建物である。中山道に向かって門を構え、前面に塀をめぐらしている。
主屋は門を入った正面に切妻造りの破風をつけ、式台玄関を設ける格式高い造りである。また、土蔵は敷地の南東にあり、二棟すが合体して一棟の姿となっている。 」

8:16 梅田吉道家住宅(茗荷屋)
鵜沼宿唯一の江戸時代の建物です。
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案内板
「 梅田吉道家住宅 (茗荷屋)

田吉道家住宅は中山道鵜沼宿 に面する住宅で、江戸時代は『茗荷屋』という屋号で旅籠を営んでおり、現在の建物は約一六〇年前に建てられ、濃尾震災 にも耐えたとされている。中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に遡る貴重な建物である。
主屋は袖うだつを上げ、窓に縦格子を入れる。また、主屋の東側に離れ、南側に土蔵を配し、土蔵は大型の石を亀甲形に築いた基礎の上に建てられている。 」

8:16 梅田昭二家住宅
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案内板
「 梅田昭二家住宅

 首屋は、本家(梅田吉道家 )に次いで古く、明治元年の建築とされる。木造つし二階建の切妻造りで正面中央に人口を設け、向かって左側に鉄格子、右側に木格子をいれる。
 主屋の南側には、濃尾震災の翌年(明治ニ十五年)に建てられた離れがある。
木造二階建て 切妻造り の建物で、土蔵・門・座敷を複合する。その座敷の一部は南側に張り出し、西面と南面に腰高のガラス窓をいれ、欄干を廻らす。 」

案内板にある、「木造つし二階建」とはなんでしょう。

「京町家事始」より

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厨子二階

「つしにかい」と読む。または「中二階」とも呼ばれる。江戸~明治にかけて建てられた古い様式。ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴で、昔は主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。2階には開口部として虫籠窓を伴うことが多い。

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ミセノマ

京町家net 京町家用語辞典より

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みせのま【ミセノマ】. 町家の通りに面した1階の部屋を言う。実際に商売に供しているかはこだわらない。多くは通りに面して格子を持つ 。

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8:17 安田家住宅(若竹屋)
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案内板
「 安田家住宅(若竹屋)

かって安田家は旅籠屋 を営み「若竹屋」と号した。
主屋は昭和五年の建築で、木造つし二階
建ての切妻 造り。間口六間、奥行き五間半の規模で、東側に土間を設け、西側に八畳四室を田の字型に並べている。正面に庇をつけ、一・二階に格子をいれる。安田家住宅は比較的新しいが、軒の高さや表構えを周辺に揃え、中山道鵜沼宿 のまちなみを今に伝えている。 」

8:21 鵜沼宿案内板
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案内板
鵜沼宿

鵜沼宿は、江戸から数えて52番目の宿場です。江戸時代は尾張潘領で、南へ約2キロメートルの木曽川対岸に国宝犬山城があります。
宿内には、神社や石造物、 旅籠の面影を残す住宅などが残るものの、年々、周辺の近代化が進んできました。そこで、町屋館(旧武藤家住宅)の修復、脇本陣の復原、宇留摩庵の修復、景観重要建造物(古い家 並みや酒蔵)の保存改修などが行われました。また建物のほか、せせらぎ水路の設置、 電線の地中化、 案内板の設置、道路の美装化や安全対策が図られました。
こうした整備は、平成23年度までに完了し、鵜沼宿は往時を偲ばせる宿場町として再生されました。
各務原市

鵜沼宿入り口で、太秦日光江戸村みたいな、江戸の町見たい、と思ったのは、電線の地中化が大きいのでしょうね。そして、建物の修復や復原などの努力の結果なんですね。

8:21 中山道鵜沼宿碑と道路改修記念碑
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【西の見附跡】

8:24 石仏石塔群
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8:24 西の見附跡
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案内板
「 西の見附跡

見附とは、宿場の入口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と東西の見附がありました。
鵜沼宿の見附は、江戸時代の『鵜沼宿家並絵図』(中島家文書)に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。
江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、『したにー、したにー』と大声を上げて、恰好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。 」


二度目の中山道23日目の3(鵜沼宿から新加納宿まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/04/120545


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003