二度目の中山道23日目の3
2020年10月29日(木)の3
【衣装塚古墳】
8:27 八木山弘法堂
弘法堂の脇の石造物群
8:28 衣装塚古墳(県指定史跡)
衣装塚古墳は円墳としては岐阜県で一番大きい古墳です。
案内板
「 県指定史跡 衣裳塚古墳
各務原市鵜沼羽場町2丁目244
衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳 です。
墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、
周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形を留めています。また、墳丘表面には葺石 や埴輪 は認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300 mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳 の坊の塚古墳 が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります。
衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定はできませんが、およそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行 して築造されたと考えられます。
9:29 空安寺
8:38 津島神社
【山の前の一里塚跡】
8:53 山の前の一里塚跡と潘隆上人名号碑
山の前の一里塚は江戸から102里目。
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播隆上人は、江戸時代後期の念仏行者です。 越中国(富山県)に生まれ、各地で念仏修行を行ったり槍ヶ岳の登山道を開いた僧として知られています。 晩年には、美濃を中心として仏法を広めてまわり、各地に名号碑や念仏講が作られました。 山の前の一里塚跡には、天保4年(1833)の銘が刻まれた播隆上人名号碑が立っています。 この石碑は、濃尾地震と第二次世界大戦時の空襲によって損傷しており、南無阿弥陀仏の6文字のうち「南無」と「陀仏」の4字のみが残るのみです。
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8:54 階段を上り、高山本線を跨ぎました。
9:13 ファミマでトイレをお借りして、濃厚カスタードシューを食べました。
9:33 三ツ池地下道
9:35 地蔵堂
9:35 長楽寺
9:38 地蔵祠
祠と堂の違いは、祠は床がなく上から被せたもの、堂は床もあるものです。
9:45 右側道へ
【六軒の一里塚跡】
9:56 三柿野町交差点から右へ
10:00 六軒の一里塚跡
江戸から103里目。
10:01 秋葉神社
10:02 地蔵祠
私の好きな秋明菊が咲いていました。
10:04 神明神社
10:04 馬頭観音
10:07 ファミマでトイレをお借りして、フリクションボールペンを買いました。
【キリンの親子】
10:28 今日出会った謎のキリンの親子。
各務原市民公園の中ではなく近くにいました。
ネットでささっと検索しても出てこない。
NHK大河ドラマの「麒麟が来る」を見て出てきてくれたのでしょうか?
各務原には、飛行機がひっきりなしに飛んでいました。
驚いたのは、離れた場所の方が雷みたいに鳴り響いてうるさくて、むしろ近い方が音が小さいんです。
空気の音の伝わり方の問題でしょうか?
【各務原市民公園】
10:29 各務原市民公園
案内板
「 各務原市民公園は、
世界的建築家黒川紀章氏のデザインによる市民のセントラルパークです。
その特徴は、
一、全面芝生
一、旧岐阜大学の古木を保存
一、公園内にかきねを設けず、
町並みへの波及効果。
一、隣接する新境川桜並木との一体化。
(以下略)
各務原市 」
10:40 西那加稲荷神社
【間の宿新加納とカエル】
10:44 那加日吉町交差点 右へ
分岐に「中山道間の宿新加納」碑
10:48 日吉神社
10:51 左へ 新加納一里塚跡
ここ、とってもよく覚えています。石碑の上にカエルがいます。新加納一里塚は江戸から104里目。
ここだけではなく、新加納宿の石標のてっぺんに、大抵カエルがいます。
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/kaeru/kaeru.htmlより
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日吉神社は、滋賀県大津市の日吉大社から平安時代に分社されたと伝わる。
昭和47年頃まで境内にあった瓢箪池に多数の蝦蟇が生息していたので、毎年4月に行われる例大祭は「がえろ祭り」と親しみをこめて呼ばれていた。
このことから社前の参道に蟇蛙の像が神使として奉納された。
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日吉神社 (前出)
このかえる伝説を元に、地元の児童合唱団がミュージカルを作ったそうです。
http://shinkano.main.jp/cn16/pg127.htmlより
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ひよしのかえる物語(岐阜各務原児童合唱団Jr.)
平成27年5月3日に各務原児童合唱団により「ひよしかえる物語」の合唱と演劇がありました。
むかし、日吉神社のひょうたん池に、いつのころからか大きな蛙が住みつき村人にいたずらをするようになった。
村の人は蛙は腹が減って悪さをするのだろうと、池にごちそうを投げ入れた。すると、蛙のいたずらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照りの日には雨まで降らせてくれた。以来、福蛙として村人に親しまれるようになった。
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この入口の道
を進むと、正面に今尾医院がありますが、今尾家は昔ながらの住宅を残しています。そして、ここに高札場跡と新加納立場跡の案内板があります。
高札場跡
案内板
「 中山道新加納立場
慶長五年( 1600年) 関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行なった。
中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約五三六km)の間に六十七の宿場が設けられた。
各務原市内には鵜沼宿 が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿 の間は四里十町(約一七km)と距離が長いため立場 (たてば)〔建場茶屋〕と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
皇女和宮 の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ちようど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の『間の宿』として栄えていたのである。
平成二十五年度
新加納まちづくり会 」
二度目の中山道23日目の4(新加納宿から加納宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/05/145446
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003