紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き23日目の1(坂祝駅~うとう峠~鵜沼宿への道)

二度目の中山道23日目の1
2020年 10月29日(木)の1


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【早朝のロマンチック街道】

朝6:00に美濃太田駅発のJR高山線に乗り、6:09に坂祝(さかほぎ)駅着。
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身支度して出発。

6:18 昨日の終点の土手(ロマンチック街道)に戻りました。
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振り返るとほんのり朝焼け。
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6:28 水神・庚申塔
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そこからしばらく土手を歩き、
6:29 勝山交差点で国道に戻り、
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暫くは国道の歩道を歩きます。

6:31 勝山神明神社御跡地之碑
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【廃業コンビニのその後】

ガイド本には今もコンビニマークがついていますが、2016年には廃業して廃屋になっていた、あの元コンビニはどうなっているのでしょうか?

2016年8月2日(火)のブログより

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やがて土手道は国道に合流し、ちょうどその辺りに自動販売機があったので、スポーツドリンクを買おうと思ったら、太田宿で買ったものより10円高い。

10円をけちって後で泣く私。

今回私が手に持って歩いている地図本にはコンビニマークも描いてあるので、この先のコンビニで買った方が安い、と思ったのが失敗。

なんと、コンビニ廃業してました。

売り物件の赤い看板が物悲しい。閉められたカーテンの一部がちょっとまくれていて、そこから誰か覗いているみたいな不気味さが。

教訓!真夏は買える機会を逃すな!けちったり、予備は重いなどの甘さは捨てて、「命大事に」

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6:39 件の元コンビニ
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今回は、貸しトランクルームがこの土地を買ったか借りたかで使用しているため、きれいに整地舗装され、廃コンビニの建物はそのままですが、破れてお化け屋敷みたいだったのは、かなりきれいになっていました。ただ、カーテンの隙間は今もありました。


【岩屋観音】

暫く 歩くと、岩屋観音への山道入口。
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川を見下ろしながら上っていくと、岩屋観音がありました。6:43
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案内板
「 岩屋観音由来

無極慧徹 (むごくえてつ)禅師は応永
十四(1407)年 相州最乗寺 での修
行を終え故郷肥前に帰る途中猿啄城 の
城主西村善政 の母である伯母を尋ねて
この地に立寄った善政は無極禅師の道德
に深く帰依し関市下有知に龍泰寺 の建
立を懇願した
禪師はそれを受け入れ龍泰寺の第一祖
となった翌年伯母の病の回復を願い
この岩窟に行基 の作といわれる
十一面千手観音  那羅井観音 を祀り
祈った  それが岩屋観音の開基である
また岩屋観音を奥の院として木曽
川の対岸に大泉寺 を創建した 」

坂を下ると、桜並木の歩道
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【うとう峠への道の思い出】

暫く国道の歩道を歩き、右側の歩道がなくなる頃に左へ横断歩道を渡ります。その先2軒、廃業したドライブインの廃屋が並び、2軒目の先の駐車場の一番奥から階段を下りて、国道とJRの線路をくぐり抜け、うとう峠への山道に入ります。

このうとう峠への道にはかなり凄い思い出があります。

2016年8月2日(火)のブログより

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暫くは旧道の名残の遊歩道を行き、その後は暫く国道歩き。

廃業ドライブインが並び、その先、正規の旧中山道への分岐を逃してしまい、大分先まで行ってしまいましたが、どうもおかしい。

地図本だけではわからないので、分岐などの解説がやたら詳しいどなたかのサイトをブクマしているので、それを見ていたら、突然のスコール!

やばい!やばすぎる!

ゲリラ豪雨?とにかく激しい雷雨に見舞われてしまいました。

最寄り駅は戻っても進んでも遠い。

それなら予定通り峠道に入った方が、林の中の方が雨は小降りに感じるし、国道歩きよりは落雷の危険も少ない。

2009年に一度歩いているので、うとう峠の道がどんなだったかだいたい分かっているのが強み。

雷雨の時は国道歩きより絶対安全うとう坂!

頼りのサイトによれば、さっき横目で見た廃業ドライブイン群の最後の茅葺き屋根風の建物の脇から階段を降りて、トンネルで高山線をくぐって峠道に入ることがわかりました。

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多分、3軒目の茅葺き屋根風の建物はなくなっていて、2軒目の先の駐車場の奥から階段を下ります。
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2016年8月2日(火)のブログより

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行きすぎた道を戻る間、車道より低い歩道は水浸しで、もう靴が濡れるのも諦めていたし、大きめの傘を持っていてもズボンも下着もびしょ濡れ。

さっきの廃墟のドライブイン脇の下り階段の下は、国道から落ちてくる滝で濡れるのは必至だけど、それより、水圧で押し流されるのが怖かったのですが、国道から落ちてくる水はたいした水圧ではなく、無事にトンネルへ。

しかし、トンネル内は真っ暗。

やっと抜けると山道が始まります。

うとう坂は記憶通り林の中の、雨でもわりと歩きやすい道。

むしろ上りが終わって広場に出てからの、石畳風遊歩道が雨の日は滑って怖いです。

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7:05 うとう峠道標と中山道案内板
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案内板
中山道

中山道は、太田宿からの現在の国道21号線の坂祝、各務原境までは木曽川に沿っておりました。しかし、この作品を鵜沼までが大変急傾斜の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。
坂祝町

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山道の上りが終わって、石畳風の広場に出た辺りが多分うとう峠です。
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道標に、「中山道 うとう峠」と書いてあるのですが、うとう峠の右側が斜め状で、矢印っぽく見えて、うとう峠はこの先かなあ、と思ってしまうのです。
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【うとう坂の一里塚跡と森の本屋さん】

峠から石畳風の道を降りていくと、右手にうとう坂の一里塚跡がありました。
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案内板1
「 市指定史跡 
中山道うとう峠一里塚

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。
美濃を通る中山道では、慶長九年(一六〇四)に大湫(おおくて)宿、同十一~十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(一六三四)には加納宿、元禄七年(一六九四)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。
また、この間、寛永年間(一六二四~四四)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
各務原地域を通る中山道は、慶安四年(一六五一)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越
えて太田宿へ至る道に付け替えられました。
うとう峠の『うとう』とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、『不案内・よそよそしい・気味の悪い』などの意味があると考えられます。
このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8㌔)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、『うとう坂』と総称されていました。
うとう峠の『一里塚』は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ『北塚』・『南塚』が残っています。
北塚は直径約一〇メートル・高さが約ニメートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。
一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。
  平成六年二月吉日  
各務原市教育委員会
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案内板2
「 うとう坂の一里塚と中山道


 江戸時代につくられた『鵜沼村絵図』(寛政5年6月)『中山道分間延絵図 』(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里
塚より、東の坂を『乙坂 』『長坂 』とか
『うとう坂 』と呼んでいました。
『鵜沼の東坂』とか『うとう坂』という呼び方は昭和になってからです。
 うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕籠の乗り賃支払いのめやすとなり日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられました。ここでは片側だけが残り幅10m、 高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられました。
 江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の『前渡坪内氏御用部屋記録 』を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています 。 これによると1日の距離は、9里 (36Km)から10里(40Km)が多く関東平野に入ると14里(56Kin)という場合もあります。1日の距離数から、当時の交通事情が推測できます。 」

そのすぐ先に木造のかわいい建物があります。森の本屋さん。
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トイレをお借りしようとしたら、鍵が閉まっていて、使用出来ませんでした。

2016年8月のゲリラ豪雨の時は、学校帰りの中学生がたくさんこの森の本屋さんに雨宿りに駆け込んでいました。

2016年8月2日のブログより

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この後は雨の車道脇の歩道歩き。

チカチカ光が二つ近づいてくると思ったら、部活帰り?の制服の中学生男子二人が自転車で登坂を上ってきて、上り坂だしこの大雨なのに、中学生の男の子たちがにこやかに爽やかに

「こんにちは!」

と挨拶してくれて、私もできる限り元気よく「こんにちは」を返しました。

感激感動!

つらい状況だけど、幸せな気分になれました。

少年たちとすれ違ったのは合戸池(かっこいけ)付近。

坂をぐんぐん降りていたら、雨宿りしていたオートバイのちょっとご年配のご婦人に、

「休んでいきませんか?」

と声をかけてもらいましたが、軽い会釈とにこっとだけ返して通過。

夕立なら30分でやみますが、ゲリラ豪雨は長引きますから。

一刻も早く電車に乗って、宿で濡れた衣服を着替えたい。

下っている坂、多分前回とは雰囲気が違うと思いましたが、旧中山道よりも早めに南下してしまい、中山道歩きとしては道を間違えていましたが、駅に行くにはこの道の方が近い。怪我の功名でした。

自動車がバンバン通る道まで降りてくると、道路も水浸しで、トラックが水しぶきというよりは、水のカーテンを吹き上げて通りすぎました。

富士急ハイランドのアトラクション、グレートザブーンみたいでした。

命からがら鵜沼駅に着きましたが、電車が止まっている!

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この後のすったもんだは省きますが、かなり駅で待って、やっと電車に乗り、宿に入りました。

今日は爽やかな赤松林や、
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きらきら光る合戸(かっこ)池を見ながら歩くことが出来ました。
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7:29 石仏
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【天王坂で迷う】

7:30 多分ここが天王坂への曲がり口だと思われますが、
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2016年にここを歩いたとき、道を間違えたので、今回は違えないようによく視ながら歩いたのですが、新興住宅地で道も新しく出来たみたいで、ガイド本とは変わってしまったのか、今日も間違えました。

この辺りの道
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7:44 ファミマでトイレをお借りして、カフェラテを飲みました。

7:54 2016年にはこの学習塾の軒下をお借りしてガイド本を見たり、駅の場所を検索したりしました。
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この塾の前を曲がって歩いていったのですが、目印に何も出会わないので、やはり道を間違えたようです。

8:05 やっと中山道に戻ってこられました。
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8:08 「是より西側尾州領」石碑
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二度目の中山道22日目の2(鵜沼宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/03/135546

二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003