2度目の東海道17日目の1
6月13日(木)の1
【弥富のモーニング】
昨夜、夜行バスに乗り、今朝、6:00に名古屋着。
名古屋駅のトイレでメイク。
名古屋発6:33 JR亀山行きに乗り、弥富着が6:53 名古屋から弥富まで320円
コンタクトレンズを入れて、7:04出発。
歩き始めてすぐに喫茶店があったので、モーニングを食べようと入りました。
喫茶BLACKという店で、モーニングが380円。
美味しくいただきました。お店の方に
「山に登られるんですか?」
と聞かれたので、東海道五十三次を歩いているのだけれど、宮から桑名は江戸時代は海路で道はないので、渡し船の代わりにここを歩いている、と言ったら驚かれました。
旧東海道がある道沿いなら、時々は東海道ウォーカーを見かけるだろうけれど、弥富は江戸時代には東海道からは外れていましたからね。
7:18 出発。
【鯏浦城と昭和食堂と文鳥】
7:21 鯏浦町の歩道橋
弥富には昔、鯏浦(うぐいうら)城という城があったそうです。
「愛知のお城めぐり」より
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鯏浦城・信長の弟信興の居城で、敵対する服部氏が攻めた城
愛知県弥富市の鯏浦(うぐいうら)城は、織田信長の弟・信興の居城で敵対する服部氏に攻められたお城です。
歴史
鯏浦城は、尾張西部に勢力を持ち、織田信長に反抗していた服部氏とその一党に対抗するために、永禄八年(1565)頃、信長が築いたお城で弟・信興に守らせていました。
鯏浦城があった辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しています。
服部氏はもともと尾張守護・斯波氏の旧臣で、織田氏とは同格という意識が強く、まったく従いませんでした、というか隙あらば信長を倒そうとしていたのです。
例えば永禄三年(1560)の桶狭間合戦時には、今川義元と共に信長を挟み撃ちにしようとしたり、長島一向一揆に味方するなど、敵対心バリバリでした。
そんな服部氏を押さえるために築いたのが鯏浦城で、信興がしばらく服部氏に睨みを利かせていました。
この信興は、古木江城主(愛西市)も兼ねており、一向一揆に対する織田家の指揮官だった様です。
ですが服部氏は元亀元年(1570)に動きだします。
まず鯏浦城を攻め、信興を古木江城まで押し戻し、伊勢長島一向一揆の民衆と共に攻め、信興は亡くなってしまいます。
これ以来、信長は服部党ら対抗勢力に対して攻め入り、三度目の天正二年(1574)には大軍を送り込み、周辺をことごとく焼き払いました。
そうこうしているうちに鯏浦城は廃城になったみたいです。
信長公記に次の様なエピソードが記載されています。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、服部氏は今川義元が桶狭間まで出陣したのを知り、信長を背後から襲うべく、船で桶狭間に向けて出陣しました。
しかし到着する前に義元は討たれてしまいます。
でも手ぶらでは帰る事ができず、当時、織田家に従っていた熱田の町を焼き払おうと、熱田に上陸します。
ですが武装した町民たちの抵抗に遭い、コテンパンにやられた服部さんは、結局逃げ帰ったのでした。
感想
鯏浦城は織田信興、服部友貞率いる服部党と、目まぐるしく戦乱に遭った歴史を持っています。
そんな鯏浦城ですが、今では静かな住宅地の中の薬師寺というお寺になっており、お城の遺構は残っていません。
鯏浦城跡には、信興が崇拝していた薬師如来を収めるための御堂が建てられ、これが明治時代初めに現在の薬師寺となりました。
現在、境内に鯏浦城の石碑がありますが、これは昭和五十一年に建てられたものです。
また境内には大楠があり、樹齢は六百年とも伝わります。もし本当なら、この大楠は歴史の移り変わりを見てきたのでしょうね。
所在地 弥富市鯏浦字上六町49
立地 平城
築城時期 永禄年間(1558~69)
築城者 織田信長
主な城主 織田信興・服部氏
現状 薬師寺
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このサイトは、公の施設のホームページなどではなく、お城愛好家の個人的なサイトのようで、文章もくだけていますが、お城を愛する方らしいわかりやすい説明だと思って引用させていただきました。
7:23 昭和食堂が見えてきました。
なつかし処 昭和食堂
ランチタイムと、一旦クローズして、 夜は深夜2時まで営業しているそうです。
昭和宴会コースの名前が戦艦ヤマトや戦艦ムサシだったり。
リーズナブルに飲めるお店のようです。
先日(5/29)に弥富のヨシヅヤというスーパー
の横を通りましたが、弥富所縁の友人から、
「 スーパーヨシズヤの入っている建物は『パディ』と言います。金魚と並ぶ弥富の産物・文鳥のことです。 」
という情報をいただきました。
国道1号線沿いに白文鳥が二羽載った赤い電話ボックスがあるらしいのですが、気づきませんでした。
松川飼育センターHPより
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弥富文鳥の紹介
江戸時代の初め頃、この地区は一面葦原で、犬山藩成瀬家が鷹狩りをした鷹場てあった。その後、その家来の大島又八郎らが、寛永17年(1640年)にこの地を開発したことから、その名をとって又八新田と名付けられた。 町の特産である白文鳥の発祥地としても知られる。その歴史は古く、江戸時代の終わり頃、この地に稼いできた女性が桜文鳥を携えてきたことに始まる。その後、明治になって突然変異で真っ白な文鳥が生まれ、白文鳥の特産地として今日まで発展した。又八神明社境内には、(白文鳥発祥地)の記念碑が建てられている。
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2度目の東海道17日目の2(桑名宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/110555