紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き16日目の6(弥富)

2度目の東海道16日目の6

5月29日(水)の6

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【弥富は麦の秋】

16:24 弥富市に入りました。
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もうこの辺りは東海通ではないので、迷わない真っ直ぐな道はありません。道が結構複雑。弥富駅を目指して迷わないように進みます。

16:36 麦畑がきれいに色づいています。
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弥富と言えば金魚の町だと思っていたので麦畑にはびっくりしました。


愛知県の麦について


「愛・地産アラカルト」より

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麦はもともと畑の作物ですが、愛知県では米からの主要な転作作物として、大半が水田で作付けされています。
 そのほとんどが小麦ですが、一部地域では麦茶用の六条大麦が栽培されています。
 小麦の主な作付品種は、早生(わせ)の「きぬあかり」と中生(なかて)の「ゆめあかり」の計2種です。
 「きぬあかり」は、愛知県農業総合試験場が開発した品種で、麺の色が明るく、コシのある、なめらかなうどんができます。平成24年産から本格的に栽培が開始され、平成29年産では県内作付小麦の8割以上を占めています。
 また、「ゆめあかり」は、同じく愛知県農業総合試験場が開発した新品種で、パンや中華麺用途に使用できます。平成28年度に奨励品種に採用されており、平成30年産から本格的に栽培が開始されました。
作付面積 5,620ha
生産量 26,600t
産出額 5億円
(出典:平成29年産作物統計、平成28年生産農業所得統計)

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弥富市の農業(米、麦、いも、豆)

 
水稲 農家 753 経営体 835 ha

陸稲 農家 1 経営体

小麦 農家 86 経営体 182 ha

大麦・裸麦 農家 6 経営体 2 ha

ばれいしょ農家 9 経営体 1 ha

かんしょ 農家 2 経営体

大豆 農家 55 経営体 169 ha

小豆 農家 2 経営体

その他の豆類 農家 2 経営体


このようになっています。

麦は米からの転作で、水田で作られている、というのが面白いなあ。


【弥富の金魚】

16:53 子宝新田交差点
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写真のような、貯水地(池?)の回りに松が生えている場所が印象的でした。
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これも、弥富の金魚に関係しているのでしょうか?

10年前、国道1号線を歩いたときは、何ヵ所か金魚の養殖池を見かけましたが、裏道には金魚はいませんでした。
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弥富金魚 wikipediaより

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弥富金魚(やとみきんぎょ)とは、愛知県弥富市周辺で養殖されている金魚。

弥富市に加えて、津島市愛西市の旧佐織町域、海部郡飛島村で生産された金魚も「弥富金魚」とされる[1]。日本にいる金魚の全品種である26種類がすべてそろう産地である。約100ヘクタールの養殖池があり、約5,000万匹を生産している[1]。金魚の尾数では奈良県大和郡山市を下回るが、品種数、養殖池面積、売上高では弥富が日本一の金魚産地である[1]。弥富市歴史民俗資料館のロビーには22種類の金魚が水槽で展示されている。

歴史

文久年間(1861年-1864年)、大和国郡山(現・奈良県大和郡山市)の金魚商人が東海道の前ヶ須(現・弥富市)に宿泊した際、土地を借用して溜池を造成し、金魚の水替えや休養に用いた[2]。この地の権十郎が金魚を気に入って購入したのが弥富金魚の始まりとされている。

やがて産卵や孵化の方法も郡山の商人に伝授され、1868年(明治元年)に佐藤宗十郎が採卵や孵化に成功すると、1884年明治17年)頃からこの地で金魚養殖がおこなわれるようになった。金魚による収益は水稲による収益をはるかに超え、大正末年頃には56町歩もの金魚田があった。

当初は郡山からもたらされたワキン・和蘭・その他の雑種のみだったが、やがて東京から丸長・デメキンリュウキン・シュブンキン・シュウキンなどが導入され、西日本・東日本の双方向に出荷するようになった。昭和前期には郡山や東京が高級金魚の生産地であり、弥富はリュウキンとワキンを大量生産する産地だった。この頃には北アメリカに対して輸出を行っており、1931年(昭和6年)には20万尾を輸出した。


宇宙金魚の子孫
太平洋戦争中には一時的に金魚養殖が姿を消したが、戦後には復興した。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では深刻な打撃を受け、関東や関西の業者からの支援を受けて再び復興した。1978年(昭和53年)の愛知県水産試験場弥富指導場の調査によると、金魚養殖の専業農家は11%であり、農業との兼業農家が65%だった[4]。100%が個人経営であるが、51アールから100アールの経営体が37%ともっとも多く、全国的にみると経営規模は大きい方だった。地区別では96アールの芝井地区がもっとも多く、前新田などが芝井地区に次いでいた。

1994年(平成6年)頃の弥富金魚漁業協同組合の組合員は約130人、販売市場は3か所、年間の出荷量は7,000万匹だった。1994年(平成6年)7月には、日本人宇宙飛行士の向井千秋スペースシャトルコロンビア号で弥富金魚を用いた宇宙酔いの実験を行った。この際に用いられた金魚は「宇宙金魚」と呼ばれている[1]。1997年(平成8年)には江戸錦とランチュウの交配種が「桜錦」として新品種登録された。

2005年(平成17年)に愛知県で開催された愛知万博愛・地球博)では、「宇宙金魚」の子孫が配布された。2006年(平成18年)には弥富町と十四山村が合併し、市制施行して弥富市が誕生した。旧来から養殖池が多くある地域が市街化調整区域となったことで、養殖池の埋め立てと宅地化が進んでいる。2007年(平成19年)には弥富金魚のイメージソング『近所の金魚は弥富のきんちゃん』が完成した。

2017年(平成29年)には野鳥による食害が原因とみられる金魚の大量消失の被害が相次いで発生した。1968年(昭和43年)頃には弥富金魚全体で約300軒の生産業者がいたが、2018年(平成30年)時点では約80軒となっている。

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【住宅地になってきた】

17:17 大山交差点
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セブンイレブンがあったので、エスカップを飲んで、休憩。

歩道が広い道。いかにも新しい住宅地といった町です。
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17:38 平島中交叉点
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弥富駅、まだかなあ。(ガイドブックもなく、一里塚もないので、かなり飽きてきた)

でも、10年前のひたすら国道1号線歩きより、東海通は楽しかった。

【スーパーヨシヅヤと鯏浦町】

17:49 駐車場がとても広い、ヨシヅヤというスーパー
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市役所付近が工事中で、たぶん10年前に来たときと、市役所のイメージがかなり、違うような気がします。

17:53 国道1号線に出ました。

歩道橋に「弥富市鯏浦町」と書いてあります。
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鯏をネット検索すると、最初にアサリが出てきました。これ、たぶん違うと思います。

ウグイはハヤの仲間の川魚。
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弥富は昔、ウグイが捕れたのかなあ。

地名由来はわかりません。

ウグイ wikipediaより

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ウグイ(鯎、石斑魚、学名:Tribolodon hakonensis)は、コイ目コイ科ウグイ亜科に分類される淡水魚。

地方によってはハヤと呼ばれる。


料理

春から夏にかけては川魚独特の泥臭さがあるが、冬季の脂が乗った身は美味であり、「寒(かん)バヤ(バエ)」と呼ばれる。小骨が多いが、古くから日本各地でコイ、フナなどと共に貴重な動物性の蛋白源として利用されて、甘露煮、塩焼き、天ぷら、燻製、いずしなどで食用にされる。しかし、横川吸虫などの寄生虫の問題が有るため生食は推奨されない。

東北地方の各地には、いずし(はやのいずし)にして食べる風習がある。しかし、いずしはウグイの腸管に生育するボツリヌス菌により、致死率が高い食中毒を引き起こす事例が多く報告された。また、滋賀県鮒寿司(なれずしの一種)では、希少種である本来のニゴロブナの代わりに安価なウグイを用いることもある。長野県佐久地方では正月の雑煮に焼ウグイを使う伝統がある。

小矢部川のサクラウグイは郷土料理として親しまれている。

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17:58 弥富駅

名古屋に電車で移動して、夜行バスで帰りました。

本日の歩数 51,364歩 31.33km


2度目の東海道五十三次歩き17日目の1(国道1号線弥富)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/104830



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
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東海道五十三次の絵手紙前半へ
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東海道五十三次の絵手紙後半へ
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