2度目の東海道9日目の5
4月26日(金)の5
14:46 判読がかなりむずかしい標柱
「平成十三年東海道四百年○記念作成」かな?
この判読が難しい標柱ですが、位置的に考えて、また、標柱の脇の木に注目すると、10年前に撮った「領主番所跡」と同じ標柱で、違う側面の文字なのではないかと。もしそうなら、前回気づかなかったのですが、また別の面には、「 東海道藤枝宿東木戸跡」と書いてあるそうなのです。
14:47 成田山新護寺
い〜らナビ!(静岡のクチコミナビ)より
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大本山成田山新勝寺の直末寺院で八百年余年の歴史があります。寺名も宗派も数回改変されたのち、平成に「成田山新護寺」と登記されました。交通安全や厄除けをはじめ所願成就・諸難削除の「藤枝成田山」として多くの参拝者をお迎えしています。
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【成田山新護寺】
昔、宗尊親王が将軍となって鎌倉に行く途中、乗っていた車の左輪が壊れ、修理している間、親王が休息していた所が成田山になり、壊れた左輪を埋めた場所に左車神社が建てられました。
【染飯】
成田山の境内にはベンチがたくさんあったので、染飯を食べました。
これは美味いや。午前10時40分頃です。
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この染飯は、この日の朝に藤枝の喜久屋という弁当屋で買いました。
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【名物を買う】
朝5時半過ぎに出掛けて、静岡で乗り換えて藤枝へ。
藤枝では喜久屋という弁当屋で名物、瀬戸の染飯(そめいい)を買いました。強飯をクチナシの実で染めた旅の携行食で、疲れた体を元気にする作用があるそうです。
ガイド本でもオススメになっていたし、長男も是非買うべきだ。朝の内に電話予約しておくとよい、と言っていました。私は朝買いに行ったから電話はしなかったけれど、プラスチックのパック入りだったので、江戸時代から使われている版木で刷った紙でくるんでもらいたかったら予約すべきなんだろうな。きっと。
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15:01 白子由来記碑
碑文
「 白子由来記
○○(凡て?)より三百九十年前
本能寺事変の折伊勢
白子の住人小川孫三
徳川家康公の危急を
救い賞として天正十四年
八月十四日御朱印を賜はる
是より藤枝町白子町と
称へこの地に居住す
昭和四十七年四月
藤枝市本町三丁目(以下略)
旧白子町
第十三代 小川 博
後日の為にこれを記す 」
この碑は、小川孫三の子孫である小川眼科医院の玄関前に設置されています。
本能寺事変の時、小川孫三が徳川家康公の危急を救った、というのは、家康の伊賀越えの際に、孫三が舟で白子から常滑へ家康をお連れした、そのお礼として、藤枝に土地をいただいて移住したそうです。
こちらは、10年前に撮った写真です。
15:07 常夜燈
15:07 蓮生寺
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歴史
この寺は、1195年(建久6年)蓮正(=熊谷直実、1141年~1208年)が開山となって創建されたと伝えられる。1730年(享保15年)駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となっている。
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その先、蓮生寺には県指定銘木のイブキがありました。
蓮生寺の裏手に蓮華寺池公園があるとのことで池を探しに行きましたが、山の上からぐるりと遠回りしてしまいました。
おかげでズボンの裾にたくさんの細かい草の実がくっついていて、取ろうとしたらひどくネバネバしていて、1回手を洗ったぐらいでは取れない…
蓮華寺池には足漕ぎボートもあり、対面の山の斜面には巨大なローラー滑り台が見えました。
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15:12 藤枝だるま
静岡名産ネットより
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旧東海道は藤枝の宿、江戸時代からの伝統を受け継いでいる“藤枝だるま”は、創業170余年…。
かぼちゃ型、面長型などは明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛玩したということから『八雲だるま』や『乙吉だるま』とよばれて親しまれている。
“藤枝だるま”の大きな特徴は、びんの左右に描かれた「8の字」である。
だるま以外に、オカメ、ヒョットコ、その他の張子面も作っている。ひとつひとつがすべて手作りであり、今も伝統が守られている。
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15:16 蓮華寺池
藤枝市HPより
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藤枝市のほぼ中央に位置し、「花・水・鳥・笑顔」がテーマの公園。四季を通じて、多くの市民が集う憩いの場所です。
春になると池の周囲約1.5キロメートルの園路沿いの桜や藤が見ごろとなり、毎年、藤の開花時期にあわせて、藤まつりが開催されます。
夏には、名前の由来でもある蓮の花が池に浮かび、訪れる人の目を楽しませてくれます。
園内には、ジャンボすべり台、子供広場、日本庭園、野外音楽堂などの施設があり、年齢を問わず過ごせる楽園です。
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【時代を亘る藤まつり・日本一を目指して】
平成から令和をまたいで約2週間開催される藤まつりに行ってきました。
藤枝市の市の花は藤の花で、藤枝市は日本一藤の町を目指しています。
蓮正寺池(天然記念物 鬼蓮の保護育成地)の回りにはいくつも藤棚がありますが、藤まつりに訪れた市民たちは、それらの藤棚には目もくれずに、さらにさらに奥に進んでいきます。
期待に胸を膨らませながら、花香る藤の里、という秘境?を目指します。
近道、という急階段を上ると、眼下に、たくさんの藤の花がぎゅぎゅぎゅっと集まった、藤の花で桃源郷というのもおかしいけれど、藤源郷とでもいいましょうか。が見えました。
素晴らしかった!
半円ほどの、回りを囲む藤棚は、まだ育成中のようで、またあと10年ぐらいしてから来たら、夢の国になっているに違いない。
名付けて藤源郷 花香る里
16:04 下本陣跡
16:05 上本陣跡
16:05 上伝馬問屋場跡
そこから暫く歩き、藤枝の長楽寺商店街を抜けて、勝草橋の手前右側に正定寺という寺があります。
16:08 正定寺本願の松
石碑文
「藤枝市指定天然記念物
本願の松
江戸時代の享保十五年(千七百三十年)に田中城主土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられている。
丹後守は境内の弁天堂に祀られている弁財天の信仰が篤く、大阪城代に登用されるに当り報恩謝徳のために植えたと言われ、別名を延命の松という。
弁天堂は老朽化のために明治四十七年に再建された。
目 通 三米
樹 高 六米三十
枝張東西 十一米五十
南北 十四米 」
案内板
「 藤枝市指定天然記念物 本願(ほんがん)のマツ
昭和61年10月6日指定
所在地 藤枝市藤枝2丁目699
所有者(管理者) 正定寺
正定寺境内の本堂前にあるクロマツ で、傘形に枝張りした美しい姿に整えられています。この場所は江戸時代の東海道「藤枝宿」の宿場町の西木戸口(にしきどぐち)近くにあたり、古図などに描かれています。マツは享保15年(1730年)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)が大阪城代となった時に寄進されてものであるという由来が伝わっています。
根廻 約3m 目通 約3m 樹高 6.3m
枝張 東西11.5m 南北 14m (データは指定時の数値) 」
境内の本願の松が枝振りが立派で、10年前も見に来ましたが、今日もまた見に来ました。
藤枝は田中城の城下町でしたが、田中城主が出世し、寄進した松だそうです。
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【本願の松】
西木戸に当たるところの正定寺境内の本願の松の素晴らしさに、写真を何枚も撮ってしまいました。境内には他に、ぎっしり隙間なく並べられた石仏群が目を引きました。
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この時石仏群だと思ったのは、古い墓石だそうです。
また、境内には、弁天わらべ地蔵もありました。
16:14 勝草橋
案内板
「 勝草橋の名前の由来
明治八年(一八七五)十一月に初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。
勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府入りし、廃藩後には牧ノ原の茶園開墾にに尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。前島の博習舎、志太の為善館でも教鞭をとり志太地域の近代教育の振興に努力した。
勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍橋(かちいくさばし)といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説である。 」
勝草橋が明治8年に架けられるまでは、瀬戸川は徒歩(かち)渡しでした。10年前に来たときは、その説明板も見たのですが、今回は見逃してしまいました。
以前見た案内板を載せます。
案内板の
「 瀬戸川の徒歩渡し
瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われていた。瀬戸川の川越し制度が創設されたのは貞淳2年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足15人が常置されていた。 」
16:17 常夜燈と志太一里塚跡
案内板
「 志太一里塚蹟
奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長 の時代に始まるという。
徳川家康 は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚 は江戸から約二〇〇KMで五〇里目に当り、瀬戸川堤から西へ約五〇M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の西側にあった。
藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。
平成十年五月
青島史跡保存会 」
16:19 ちょっと気になった八百屋本陣
その先の松
16:28 岡野繁蔵出生地碑
案内板
「 岡野繁蔵 (一八九四~一九七五)
『裸一貫から南洋のデパート王』となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれました。
青島小学校、育英学校に学び、21才でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引きあげました。
戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土の為に貢献されたが、昭和50年、81才の生涯を閉じました。
石標に刻まれた『希望に起き、感謝に眠れ』こそ繁蔵の尊い信条でした。
平成十年五月
青島史蹟保存会 」
16:46 心温まる看板
「 東海道を旅する方へ
藤枝は東海道の二十二番宿で、城下町として栄えました。
付近の追分、一里塚といった地名が、街道の名残を今に伝えています。
松並木を渡る風の中しばしの休憩に利用ください。
又、店内のお手洗いもご遠慮なくどうぞ。
お飲み物の用ご意もあります。
大井川まで西に
およそ二里 」
看板にあるように、松の木があります。
16:49 田中潘領牓示石蹟
案内板
「 田中潘領牓示石蹟
瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。
この傍示石は一丈余(約三M)の石柱で、『従是(これより)東田中領』と書かれていた。
これと対になるのが市内鬼島の『従是西田中領』で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。
上青島にも傍示石があった。
平成十年五月 青島史跡保存会 」
この六地蔵尊は歴史的にも古く、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場としてよく知られており、人々の帰依も篤く尊ばれており、駿河国二十四番札所第九番の霊地に指定されております。
六地蔵尊は、このお堂の近くに神龍が棲んでいたと伝えられる鏡ヶ池から出現し、庶民の安穏祈願のため、玄昌行者の手によって今から八百年余りも前の承安三年(西暦1171年)に玄昌庵と称する祠で、鏡ヶ池の畔に祀られたといわれております。
それから五百年もの時が過ぎ、この地を治めていた大草太郎左衛門夫婦に世継ぎの子がなく、六地蔵尊に祈願を重ねたところ念願がかない、男子が授かったので大変喜んで、正徳三年(1713年)この地に茅葺の堂宇を建築し寄付したといいます。鏡ヶ池の縁故もあるので、このお堂を『鏡池堂六地蔵尊』と名づけて、池の端の玄昌庵から六地蔵尊をこのお堂に移して泰安しました。駿河風土記によると、本尊は知証大師の作で、木仏地蔵の丈は六寸(18cm)の金色に彩色したものと記されております。
六地蔵尊のご利益は、『災難消除』『延命長寿』『家内安全』『交通安全』等で、近郷近在からの参拝者は絶えることがなく、東海道に面していることから、著名な旅人が数多く祈願されたとも伝えられております。お堂の額の『鏡池堂』の文字は、儒学の大家渡辺崋山がこの地を行脚したときに揮毫したものです。
現在のお堂は、昔の形を遺しながら、昭和三十三年に全面改築したものです。
六地蔵尊の縁日は、毎年八月二十三、四日に行われており、夜店が並び、余興もあって、楽しく賑やかな場となっております。
本尊は、お開帳の時以外は厨子を一切開扉しないこととされており、お開帳は何年に一度という明確な定めが見当たらないので、昭和五十八年の由緒書きに記されている『三十三年毎』に行うことを次回に申し継いで行きます。
これらの由来を今の時代の人たちにもよく知ってもらい、永く保存顕彰し、後世に伝え遺して頂くことを願っております。
平成二十六年十一月
六地蔵尊御開帳実行委員会
瀬戸新屋町内会 」
こヽには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。
瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。
当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。
東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。
平成十年五月 青島史蹟保存会 」
17:04 千貫堤
案内板
「 市指定文化財 千貫堤(せんかんづつみ)
慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害になやまされた。
寛永十二年(一六三五)田中城主となった水野監物忠善(けんもつただよし)は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約三百六十M、高さ三・六M、巾二十九Mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。
昭和四十年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取りのぞから、現在は石野家の南側に約四十Mの堤がそのまゝの姿で残っている。
平成十年五月 青島史蹟保存会 」
もうひとつの案内板
「 市指定文化財 千貫堤(せんがんづつみ)
寛永十二(一六三五)年田中城主となった水野監物忠善(けんもつただよし)は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約三百六十米のわたり、高さ三・六米、巾二十九米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。
昭和三十一年一月二十一日指定
藤枝市教育委員会 」
17:05 瀬戸の染飯版木
「ふじえだ東海道またあるき」より
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瀬戸の染飯(そめいい)とは、東海道に面した上青島付近の茶屋にて古くから販売されてきた、いわば“おむすび弁当”のようなもの。黄色の正体はクチナシの実で、もち米を蒸した強飯(こわいい)をクチナシの実で黄色く染めてすりつぶし、小判の形などに薄く延ばし干してつくられています。乾燥したクチナシの実は消炎・解熱などに効果の期待できる漢方薬として知られており、長きに渡り歩き続ける旅人にとって、足腰の疲れを癒すと評判の食べものだったと言われています。旧東海道沿いにある「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」では、染飯についての歴史や資料のほか、江戸時代の初め頃にこのエリアに造られた大きな堤防「千貫堤(せんがんづつみ)」に関する歴史を学ぶことができます。
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17:10 田中潘領牓示石蹟
案内板
「 ⑪ 田中藩領牓示石蹟(ほうじせき)
江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境を示す牓示石 を立てた。
田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てたすこし前、上青島村の一部が旗本日向銕(ひなたてつ)太郎の所領となっている。
この標石は一丈余(約三M)の石柱で、「従是(これより)西田中領」とかいてあった。
これと対になるのは田中藩領細島村の西端と考えられる。
市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった。
平成十年五月
青島史蹟保存会 」
17:28 上青島の一里塚跡
案内板
「 ふるさとの歴史遺産 旧東海道の松並木と上青島一里塚
江戸時代のはじめごろの慶長6年(1601)には、東海道 の宿駅制度が定められました。街道沿いに松を植えたり、旅人の目安として一里(現在の約3-9km)ごとに塚を設けるなどの、整備が行われました。
昭和32年当時の松並木
現在も残る松並木ですが、昭和30年代には江戸時代の街道をしのばせる風景がよく残されていました。当時は、道路沿いの両側に松並木があり、土手の上に生えていました。
発掘された一里塚
昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかりました。上青島の一里塚 は、江戸から51里(約200km)の地点にありました。市内にはほかに、岡部(川原町)、鬼島、志太に一里塚がありました。
一里山町内会 平成24年11月 」
17:46 魚一旅館
「日本料理 魚一 」HPより
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みなさんこんにちは。
日本料理 魚一です。
付近にあった古民家を街道沿いに移築したと伝わります。ですので、建物は150年+α 江戸時代中期のものでしょうか・・・
先祖、塚本三右衛門が建物を移築し。
高祖父、塚本藤作は足腰の丈夫な人で朝天秤棒を担いで港に出かけ、魚を仕入れ。
曾祖父、塚本一はそれらを料理するようになったと伝わります。そこから、店の名前が魚一に決まったとか・・ 以来、魚屋、飲み屋、宿屋と商売の形を変えながら、現在 日本料理店として営業しています。料理だけでなく、建物、家具や掛物などの調度品も見どころのひとつです。
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セブンイレブンでトイレをお借りしました。
17:54 六合駅着
17:59発 静岡行きに乗る。
18:02 藤枝着。
今夜は藤枝のホテルに泊まります。
本日の歩数、43,253歩 26.38km
2度目の東海道10日目の1(島田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/03/095223
2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738
2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/165621
2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/171837
2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026
東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457
東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405