2度目の東海道9日目の4
4月26日(金)の4
岡部宿の碑の先、「うなぎや」という名前のうなぎやさんの駐車場看板を目印に右に入ると
すぐに、岩村藩傍示杭があります。
12:46 岩村藩領傍示杭
案内板
「 岩村藩領傍示杭
『従是西巖村領 横内』(是より西、岩村領横内)
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。
駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
横内歴史研究会 」
12:51 慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)の由緒縁起、とても長いのですが、読んでみたらとても面白かったので、全文掲載します。
藤枝宿HPより
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慈眼寺【由緒縁起】
横内村は文禄3年(1594)内谷村より分れて開村された。氏神の白髭神社の上梁文によると、豊臣秀吉の家臣であった。池田孫次郎輝利が横内の地に移り住み、河川改修を行い、自分の郷里近江国白髭神社の祭神を招魂し、その遷座とともに開村されたという。村ができると村人達は先祖の菩提供養のために新寺を建立しようという機運が高まった。そこで常楽院6世学翁宗参の弟子であった龍谷秀泉は、村人の気持ちをまとめ、開村功労者の池田氏や旧家であった戸塚氏達の協力を得て、寺地を確保し、資材を集め、浄財を勧募して堂字を建立した。そして慶長4年(1599)、龍谷秀泉の師である学翁宗参を開山に拝請して慈眼寺が開創されたのである。翌慶長5年には関ケ原の戦いがあり、戦国乱世は幕を閉じ江戸時代へ移ろうとしていた時であった。
以後慈眼寺は横内村の人達の精神的な拠所として歩みを始めた。伝説であるからいつ頃のことか不明であるが、原因不明の怪火によって火災に遭っているという。東海道添いに建てられた慈眼寺は、江戸時代街道を上下する旅人が気軽に立寄り、旅の安全を祈ったり、木陰で疲れをいやしたり、雨宿りをしたりしたであろう。村人にとっても民家に隣接しているので気軽に山門をくぐりお参りができた庶民的な雰囲気を持った寺である。
享保20年(1735)、横内村は美濃国岩村藩の飛領地となり、村内に陣屋が開設された。陣屋には代官、手代、目付役の藩士が家族とともに移り住み、駿河領5千石15ケ村の村々を支配した。武士達は任期が終わるまで陣屋で生活していたが、この地で亡くなると慈眼寺の墓地に埋葬した。境内には代官や藩士達の墓が7基程祀られている。
安政元年(1854)の大地震では地盤の弱い横内村では民家はほとんど壊れ、寺も庫裡が倒壊してしまった。そこで明治3年(1870)近くの民家を移転改修して庫裡とした。さらに老朽化した本堂を明治20年走観和尚の時に新築した。現在の本堂、庫裡はこの時のものである。その後明治43年霊嶽雪静は寺格を上げ、法地寺院とし、宗教行事を慈眼寺が責任を持って行うようになった。
戦後になった昭和38年10世覚心力雄の時庫裡を改築し、さらに現住職の昭和62年には檀信徒の勤労奉仕により竹庭を完成、平成2年には境内を整備し、平成8年には開山堂位牌堂を建立し、次第に寺観は整えられ、平成11年には開創4百年祭を計画している。横内は昔から職人が多く住み、その伝統は今なお受け継がれ、慈眼寺は里人の技術と汗で支えられている。
《代官地蔵尊 天明7年 1788) 建立》
美濃岩村藩 (岐阜県恵那郡岩村町) 横内陣屋の3代目代官であった田中清太夫首上は、宝暦11年 (1761)5月23日、78歳でこの地で没した。実家と離れていたためこの地で葬儀を行い、慈眼寺の境内に埋葬したが、後に嫡子田中上秀は菩提供養のため、寺に土地を寄進し、等身大の石の地蔵菩薩を刻み、墓地に安置した。地方巧者として善政を施した清太夫は村人にも親しまれていたので、地蔵菩薩は人々から 「お代官さん」と呼ばれ、毎年7月23日には供養祭を行う。昔は御詠歌奉詠や子供の相撲大会が行われ、戦後は8月23日の夜村人が集まり、盆踊りの行事を続け、楽しみながら2百年前の代官を供養している。
《抱地蔵尊 大正9年 (1920) 安置》
慈眼寺9世哲英雄伝和尚が愛知県半田市亀崎の東光おもかる寺に祀られている「重軽地蔵尊」を分霊し「抱地蔵」と名づけて、本堂の中に祀った。この地蔵菩薩は、人の吉凶や判断の是非に迷った時、石の地蔵様を抱きあげ、その軽重によって是か非かを伺うことができる。霊験あらたかなことで知られ、今でも深く信仰する参詣者が遠方より訪れる。
《宗吾大明神 明治38年 (1905) 建立》
この宗吾大明神は、承応2年(1653)安房国(千葉県)佐倉藩の領民を救うために刑場の露と消えた義民・佐倉宗吾(惣五郎)の霊を祀ったものである。慈眼寺に祀られるようになった由来は、養蚕事業振興のために祀られたことによる。今でも農業の神として、五穀豊穣を祈願する々に尊崇されている。
《伝説 怪火》
今は昔、横内村を通る東海道は、1日に数千人の旅人が上下していた。そんなある日、1人の旅人が長旅の疲れを朝比奈川の横内橋のたもとでいやしていた。旅人はキセルを取り出し、火をつけて1服していた。川面を渡る風に乗って紫煙が土手の桜の梢に消えてゆく。二服目をすおうとしてキセルに残っている火種を出し煙草に火をつけた時、1陣の春風がさっとふきかかった。火のついたタバコはころりと落ちて、橋のたもとから街道を西に向かって生き物のように走りだした。万一火事にでもなったら大変だ。旅人は転がったタバコを踏みつけようと追いかけたが、春風に追われたタバコは転々としてとうとう慈眼寺の庫裡の下にもぐりこんでしまった。
小さな火ではあるがもしものことがあってはと心配した旅人は、和尚に話し縁の下にまでもぐってタバコを捜したが、火のついたタバコは見つからなかった。旅人はくれぐれも火の用心を頼み、旅立って行った。
ところが、その夜更けのことである。寺の書院から火事となり、紅蓮の炎が寺を包み、堂宇は灰燼に帰してしまった。あれほど捜しても発見できなかったタバコの火は消えているはずだし、和尚も気をつけていたのに不思議なことである。その後誰いうともなく「慈眼寺の怪火」と言い伝えられるようになった。
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慈眼寺の塀には、「小字名 油街途(あぶらがいと)」の表示がありました。
12:52 高札場跡
坂が上りになって、橋が近いことがわかります。
12:55 横内あげんだい
「あげんだい」って何だろう?と、調べてみました。
「あるべきようわ」(慈眼寺・十輪寺和尚のブログ)より
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あげんだいは横内歴史研究会による精霊送りの行事です。
毎年8月16日に横内朝比奈川でおこなわれます。
あげんだいとは孟宗竹の上部を割って籠を作り、その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたもので、それにたいまつを投げ入れ早く火がつくのを競うものです。
あげんだいは、松明による玉入れのようなものです。
最近は松の木が少ないようで、冬に海岸端の松並木でその材料を採取してくるそうです。
横内におけるあげんだい・灯ろう流しは昔からの行事で、一端30年ほど前に行われなくなりましたが、平成11年の横内400年祭にて復活しました。その後、横内歴史研究会により、毎年精霊送りの日におこなわれるようになりました。
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ここのベンチで持参のカレーパンを食べました。小学校帰りの眼鏡の少年が通ったのが印象的でした。
13:07 橋場町地蔵尊 川除地蔵
13:07 横内橋
13:11 地蔵祠
13:13 橋向地蔵尊(子授地蔵 川越地蔵)
『従是東磐村領』
(是従り東 岩村領)
この杭は江戸時代享保二十年(一七三五)より明治維新までの一三三年間、横内村に岩村藩領があったことを表示した杭を再現したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那市岩村町)を居城とする松平能登守が三万石の領地を持っていた。
駿河国に十五ヵ村に五千石分の領地があり、横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
横内歴史研究会 」
13:21 ふれあい横断歩道を渡る
歩道橋の上から見た景色。
歩道橋を渡って静かな道に入るとすぐに見えるこの松、10年前も見出し記憶がよみがえります。
13:25 傍示石
「 従是西田中領碑
この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ『従是西田中領』の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。
斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っているが、この碑を本来あるべきこの地に復元しようと、ここに複製を建立し後世に伝えるものである。因みに碑文の題字は本碑の拓本に依るものである。
広幡の歴史を研究する会 」
13:30 分岐
13:32 廣幡尋常小學校跡
廣幡尋常小學校跡
側面の説明
「一九〇三(明治三十六)年四月、高等科併設
廣幡尋常高等小學校ト稱ス」
廣幡尋常小學校跡の標柱の奥を覗いたら、こんな景色でした。
13:35 史跡 鬼島一里塚跡
日本橋から49番目だそうです。
13:37 地蔵祠
13:42 八幡橋
八幡橋の手前
八幡橋から見た川の景色
この後、道を間違えて、御成道を暫く進みました。
御成道で見た思案橋跡
御成道の案内板
14:06 鬼島の建場碑
案内石碑
「 旧東海道 鬼島の建場
街道の松、枝を鳴らさず、往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。
大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕篭・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の両人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。
ここは宿場間のお休み処。茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペツ、ブツブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる。「処もとは鞍の鐙ケ淵、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」
建場とは
デジタル大辞典(小学館)より
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たて‐ば【立(て)場/建場】 の解説
1 江戸時代、宿場と宿場の間の街道などで、人足・駕籠 (かご) かきなどの休息した所。明治以後は人力車や馬車などの発着所をいう。
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立場と書くことが多いのですが、建場とも書きます。
幕府公認の宿場と宿場の間の休憩施設・お休み処があった ところです。
大井川と岡部宿はかなり離れているので、大井川の川留めが影響するって、今の感覚だと不思議ですが、大井川の川留めでその手前の島田宿が満員になると、さらにその手前の藤枝宿も満員。こうなると、岡部宿から先には進めなくなる場合もあったようです。弥次さん、喜多さんも、「岡部宿」に足止めになったようです。
この碑に出てくる鐙ヶ淵や松並木は、この後にありました。
14:09 秋葉神社
14:09 須賀神社の樹齢500年の大楠。
案内板
「 静岡県指定天然記念物 須賀神社のクス
所在地 静岡県藤枝市水守17番地
所有者 須賀神社
管理地 須賀神社
昭和33年9月2日指定
このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道 の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵など、東海道 ゆかりの史跡があります。
樹高 23.7m 根廻 15.2m 目通 10.9m
枝張 東西 21.2m 南北 27.9m
(データは指定の時の数値)
【名残の松の下】
先ほどの須賀神社の少し先、現在も水守という地名が残る、昔の水守村を通った時、真新しい公園(水守第二中央公園)の中に、旧東海道の松が何本か残っていました。
14:16 水守中央公園
あれ?
ここ、10年前に来た時は工事中で、松が見えているのに遠回りさせられた、あそこではないかしら。
こんな風に、公園の中に旧東海道の道の一部が取り込まれたんだ。
10年前のブログ
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【東海道回り道】
葉梨川を渡り、道は二つに分かれていますが、右側の川沿いの道を行きます。
15分ほどで大クスのある須賀神社。
その先で「東海道まわり道」の看板に従って右側に行くと、すぐに史蹟鐙ヶ渕と観音堂があり、観音堂には首をかしげている地蔵がいました。
この辺りは新しく道が作られ始め、旧東海道が分かりづらくなっています。
国道に対して斜めに突っ込む形の旧東海道は、松の木が少しはあって、ここがそうなんだ、と分かりやすいのに、工事のせいで以前のように斜めに国道を突っ切れず、まず国道を向こう側に渡り、左に折れて、少しして、右に入ると静かな道。
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静岡新聞SBSより
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水守中央公園
旧東海道の松並木を生かした自然豊かな公園
2019年に藤枝市水守に完成した公園です。芝生公園には幼児と小学生向けの複合遊具があるほか、旧東海道の松並木を生かした歴史情緒あふれる園路や足つぼ歩道などの健康器具も設置。グランドゴルフも楽しめる多目的広場や複合トイレも完備しています。葉梨川沿いにあり八幡山を望める自然豊かな公園です。
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水守中央公園は、2019年7月28日にオープン行事をやったそうなので、4月26日に私が通ったときは、まだ完成前だったんですね。
14:33 MINISTOPで、練乳いちごパフェ
今日の店員さんが不器用なのか、今日の練乳いちごパフェはぐちゃぐちゃ。
後日、MINISTOPで働いている知人に聞いたら、注文を受けたらその場で作るので、担当者のセンスによって出来不出来がどうしても出てしまうとのことでした。
私も過去、ファミレスのフロントをやっていた頃、パフェは作っていたので、センスが大切なこと、よくわかります。
2度目の東海道9日目の5(藤枝宿から六合駅)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/01/191510