紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き19日目の3(鈴鹿峠から土山宿への道)

2度目の東海道19日目の3

6月26日(水)の3


【土山の道標レリーフ

県境の境界石の右隣に、レリーフ的な看板が立っていました。
f:id:asiandream0804:20200131220121j:plain

このレリーフが、土山の道標で、今日はあちこちこれを見かけたし、これのおかげで迷わずにすみました。


【万人講(まんにんこう)常夜燈】

10年前のブログ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

この辺りにはたくさん茶畑があって、土山茶というお茶でした。

その少し先に休憩所があり、待望のトイレがありました。

トイレの横に、物凄く大きな常夜灯がありました。
f:id:asiandream0804:20200131220150j:plain

270年前に建てられた万人講常夜灯で、高さは5.44メートルもあるそうです。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

f:id:asiandream0804:20200131220240j:plain
f:id:asiandream0804:20200131220308j:plain

甲賀市観光ガイドより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓

鈴鹿峠で旅人の道中を見守る巨大な石灯籠

江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願されていました。
重さ38t高さ5m44cmの臣大な石燈籠は、山中村高幡山天ヶ谷より運び出され、地元山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人達、三千人の奉仕によって出来上がったものと言われています。
現在は、国道1号線鈴鹿トンネルの上で、往来する車や人々の交通安全を見守っています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑


【ちょっと不思議な景色たち】

峠から降りてきて国道1号線と合流するところ。
f:id:asiandream0804:20200131220340j:plain

さっき、峠に県境があったのに、また改めて県境の標識。

車はトンネルを抜けてくるので、ここに県境を表示していますが、実際にはトンネル内で県を越えていると思います。


10年前のブログ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

少し歩いていくと国道に合流します。この時、国道にあった電光掲示情報板によると、気温は4℃でした。

国道と合流してからは、暫く国道を歩いたり、国道からそれたりまた国道と一緒になったり。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

今日は電光掲示板によると、26℃でした。

しかし、まだ朝の9時過ぎですから、これからまだ気温は上がるでしょう。

道の右側に現れた、半分埋もれた鳥居と山灯籠。
f:id:asiandream0804:20200131220431j:plain

不思議ですね。

次の写真は、一見普通の田舎道ですが、実はこれ、国道1号線の歩道なんです。
f:id:asiandream0804:20200131220510j:plain

車道と歩道の間に自然の草の緩衝帯が出来ていて、イメージは、広いフロアを仕切った、個室感ある居酒屋。

こういう道、大好き。


鈴鹿馬子唄碑】

9:35 写真の灯籠(比較的新しいもの)のある休憩所。
f:id:asiandream0804:20200131220555j:plain

その先にあった、鈴鹿馬子唄碑。
f:id:asiandream0804:20200131220633j:plain

鈴鹿馬子唄碑には「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が刻まれています。

これは往時、馬子たちが唄いながら峠越えをした歌。

鈴鹿の天気は変わりやすく、坂下では晴れていたのに峠では曇って、土山に降りてきたら雨、という意味です。

馬子唄碑の真ん前に飲み物の自動販売機とベンチがあったので、少し休憩。

地蔵堂
f:id:asiandream0804:20200131220724j:plain

地蔵堂には、お地蔵さま本体の他に、真ん丸の石がよく置かれていますが、あれは何なんでしょう?

日本には古来から丸石信仰があるのですが、その一種でしょうか?

子安石なら、子宝に恵まれない人が子安石を持って帰ると子どもを授かり、そうしたら石を二個にして返す、というような風習を聞いたことがありますが、そういった一種なんでしょうかね。

また、お地蔵さまは、剃髪に衣を纏っているのが一般的ですが、石を粗削りしたものや、人間型ではないものもあります。

旅をしていると、不思議なお地蔵さまを
見かけます。

お化粧していたり、こどもの落書き?みたいなものや、これはもしや、見てはいけない形なのでは?と思うものや。


【山中一里塚公園と櫟野観音道道標】

第二名神滋賀県起工の地碑
f:id:asiandream0804:20200131220808j:plain

山中一里塚公園
f:id:asiandream0804:20200131220826j:plain

そして、こちらの道標は…
f:id:asiandream0804:20200131220856j:plain

案内板
「 櫟野(いちゐの)観音道(大原道)道標(土山町山中)

 山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
 当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野(らくや)寺本尊の十一面観音の 慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方 世にはえぬきや 大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
 自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。

 平成15年3月 土山町教育委員会


【もうひとつの鈴鹿馬子唄碑】

こちらの鈴鹿馬子唄之碑は、山中一里塚公園にあります。
f:id:asiandream0804:20200131220927j:plain

この写真の馬子と馬が印象的ですね。
f:id:asiandream0804:20200131220945j:plain

10年経っても覚えていました。

f:id:asiandream0804:20200131221031j:plain


【猪鼻村】

国道から右側に坂を降りていく猪鼻村に着いたのは10:10頃。
f:id:asiandream0804:20200131221014j:plain

案内板
「 猪鼻村

 猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
 村中を東海道が東西に5町36間余(約610メートル)、商いを営む者も多く、往時50戸を越え街道を賑わしていた。
 土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余(天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶 や林業も行われた。
 赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山越(を)ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に、「安永3年(1774)鈴鹿峠に向かう途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・」とある。

(後略)

平成20年12月 土山町猪鼻区 」

f:id:asiandream0804:20200131221110j:plain
句碑 
 いの花や 早稲のもまるる 山をろし
  子葉

旅籠中屋跡。明治天皇聖蹟もありました。
f:id:asiandream0804:20200131221206j:plain

この、旅籠中屋跡の先から左へカーブしながら急坂を上って国道に戻るのですが、かなりの急登で、鈴鹿越えよりきつかった。


【蟹ヶ坂】

10:23 蟹ヶ坂入り口。
f:id:asiandream0804:20200131221258j:plain
案内板
「 ようこそ 歴史の道東海道

ここは、土山町蟹ヶ坂です。
 これより、往時の東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり『海道橋』を渡り、道の駅『あいの土山』方面へ向かって下さい。
 尚、『東海道土山宿』へはここから800mです。
 土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。

  甲賀市

榎島神社のご神木、樹齢400年の椎ノ木。
f:id:asiandream0804:20200131221337j:plain

蟹坂古戦場跡
f:id:asiandream0804:20200131221418j:plain

案内板
「 蟹坂古戦場跡


天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も 兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。

 平成7年3月  土山町教育委員会


2度目の東海道19日目の4(土山宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/01/031911