岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の東海道五十三次歩き19日目の4(土山宿)

2度目の東海道19日目の4

6月26日(水)の4

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【海道橋と広重の「春の雨」】

10:42 高札
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高札の解説

案内板
「 高札の解説について

 この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。
 この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。
 そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め 、今 までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。

 『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである(旧暦には閏月があり、この年は12月が二回続く)。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物 を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』 」

という案内を読んでから、真新しい海道橋を無料で有り難く渡らせていただきました。
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渡ると、広重の「春の雨」の絵が掲げられていました。
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その広重の絵の下の説明文。

歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
 土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川野洲川)まで、22 町 55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。 」


田村神社

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田村神社は、鈴鹿峠の山賊を平定した坂上田村麻呂を祀る神社で、 開運厄除け安全祈願の神社です。

私は10年前に2回(1回目は1月に娘たちと、2回目は3月に、東海道ラスト歩きでひとりで)、そして今回で3回目、やって来ました。

昼なお暗い森で、霊現あらたかな由緒ある神社の気が満ち満ちています。
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参道左側の森が、もっと鬱蒼としていたのがさっぱりと変わっていました。

10年前は、その森の中に、何か出そうな(蜘蛛とかね、)ひとりでは絶対入りたくないようなトイレがありましたが、写真のようにすっかりきれいになっていました。
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【道の駅あいの土山で忍者セット】

田村神社から歩道橋を渡っているときに見える、道の駅あいの土山。
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まだ11:00少し前でしたが、ここでお昼を食べます。


10年前のブログ

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田村神社の参道を通り、歩道橋を渡って、土山宿の入り口の、道の駅「あいの土山」で軽く昼食。長女は茶うどん、次女は山菜うどん、私は山菜そばを食べました。

もう少し歩きたかったのですが、次女が疲れていたので、もうそこのバス停から、13:50発のバスに乗りました。バス運賃は、一律大人250円でした。

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今回は、10年前にはなかった、忍者セットを食べました。

黒い忍者うどんにおこげが入り、古代米?だか赤米だかのおにぎり、切り干し大根、お漬物、赤だし、抹茶のプリンというよりは、牛乳かん抹茶味かな。
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【あいの土山と蟹ヶ坂飴】

10年前のブログ

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道の駅あいの土山で、蟹ヶ坂飴を買いました。
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謂われをネットで拾いました。

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蟹ヶ坂飴のいわれ

「蟹ヶ坂飴」は、古くから土山宿の名物と知られ浅井了意の「東海道名所記」 (万治元年1658年)に「生野、茶屋あり、飴を煎じて売る。」とあります。 大昔、鈴鹿山麓に身の丈3mの巨大な蟹が出没し、旅行く人や近郷の村人に危害を加えていました。

ある時恵心院の僧都がこの地に赴き、大蟹に印明を示し、さらに大慈悲深く天台宗の「往生要集」を説き、説法を施すと不思議にも大蟹が随喜の涙を流して悪行を悟るが如く、我が身の甲羅を八つに割裂いてとけ失せました。

僧都は八つの甲羅を埋めて、蟹塚を建てると、不思議にも蟹の血がかたまって、八個の飴となったそうです。

それを竹の皮に包んで村人に授け、

「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに効あり」

と伝えました。

その後、数百年に亘り「厄除けの蟹ヶ坂飴」として世にその名声を高めたと伝えられています。

江戸時代では、旅の疲れを癒す糖菓子として旅人に喜ばれました。

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ついでに、 「あいの土山」のいわれは?

甲賀市HPより

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1.相の土山説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降るとする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。

2.間の宿説
 宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であったことから、坂下宿程繁栄していないことを唄ったとする説。「照る」を栄える、「雨が降る」を「さびれる」と解するようだ。

3.鈴鹿の坂説
 峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。

4.間の土山、松尾坂説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂を松尾坂(土山宿の西、野洲川西岸部分にある坂のこと)と考え、鈴鹿鈴鹿峠)との間にある土山(土山宿)は雨が降るとする説。 

5.藍の土山説
 当時土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。

6.鮎の土山説
 当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説。

7.あいのう土山説
 北伊勢地方の方言に「あいのう」という言葉があり、「まもなく」という意味であることから、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくる」と解釈する説。

8.かけ声説
 鈴鹿馬子唄は民謡なので、民謡独特のかけ声ではないかという説。

参照:機関紙「土山浪漫」〔現:土山ろまん〕第2号(平成3年2月 土山の町並みを愛する会発行)

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滋賀県に入ると、信楽焼の狸と、飛び出し坊やが増えますが、道の駅あいの土山の狸は忍者でした。
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【土山宿の碑】 

道の駅あいの土山の左脇に赤っぽい舗装の道が奥へと続いていて、これが旧東海道

この道沿い、道の駅の斜め手前辺りに二軒、蟹ヶ坂飴とたこ焼きを売るお店がありました。

赤い道を、道の駅あいの土山の左側を回り込むように進むと、道の駅の裏手に「土山宿」碑がありました。
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暫く進むと、右側に旅籠鳥居本屋跡。11:33
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11:36 道標
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「従是 右 京都へ十五里 左 江戸へ百十里」

風化していないので、比較的新しいものでしょうか。


【上島鬼貫句碑と土山のお六櫛】

先ほどの、

「従是 右 京都へ十五里 左 江戸へ百十里」

の道標脇に、生里野(いくりの)地蔵公園がありました。
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生里野地蔵と、上島鬼貫の句碑があります。

生里野地蔵
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上島鬼貫の句碑
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「吹け波(バ)ふけ櫛を買たり秋の風」

脇に二種類の説明板が立っていました。


説明板
「上島鬼貫は大阪・伊丹生まれの俳人。 東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ独特の境地を開いた人で、東海道を旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求めたときに読んだ句」

もうひとつの説明板

「 お六櫛

江戸元禄の頃、信濃の櫛職人が伊勢詣りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気にかかり、生里野の民家で養生させてもらって、一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。
その旅人は信濃に帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料として作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。

(甲賀市観光協会) 」


【扇屋、一里塚跡、お一人様ウォーカー】

11:42 扇屋
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案内板

「 扇屋伝承文化館

『扇屋伝承文化館』は、江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で、扇や櫛を販売していた商家『扇屋』を地域の住民が購入し、平成二十一年に改修したものです。
地域の良き、古き文化を後世に伝える拠点とともに、旧東海道を散策する人の憩いの場になることを願っております。

どうか、ご気軽に入館ください。

扇屋社中一同 」

お気軽に、とありましたが、開いている様子がなかったのでパスしてしまいました。

11:44 地蔵堂
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11:45 一里塚跡
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ここで、別の東海道ウォーカーが軽く挨拶してくれて追い越していきました。

平日ということもあり、最近見かけるお一人様の東海道ウォーカーはリタイアされたと思われる男性が多いです。


【来見橋 茶もみ唄】

来見(くるみ)橋には、土山茶もみ唄のパネルがはめ込めれています。
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左側(南側)には歌詞と絵

「土山茶もみ唄
お茶を摘めつめ
しっかり摘みやれ
唄ひすぎては手がお留守 」

「御茶をもめよめ
もまねばならぬ
もめば古茶も
粉茶のなる 」

土山宿の絵。
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絵に描かれている平野屋は、明治時代になってから、森鴎外が泊まった旅籠です。

来見橋の右側(北側)。
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【来見橋に見られる茶畑と茶まんじゅう】

来見橋の右側(北側)にはめ込まれた三枚の絵。

切り絵のような版画のような、この絵は誰の作品なのか気になるのですが、ちょっと調べただけではわかりませんでした。

東海道や土山宿の絵です。
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茶店の名物は茶まんじゅう。
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この絵も、また三枚の絵はともに、街道の周囲に茶畑が見られます。
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茶処だから、名物も茶まんじゅうなんですね。


【白川神社 森鴎外と森白仙】

11:54 白川神社
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CoCotimeより

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東海道49番目の宿場であった土山宿は、東海道を挟んで北土山村と南土山村に分かれていたそうです。

その両村でそれぞれ宿場を運営していて、北土山村は田村神社、南土山村は白川神社が村の神社になるのだとか。

かつての土山は古く平安の時代から京と伊勢を結ぶ交通の要所として栄え、鈴鹿峠を控えた街道の難所として旅人たちで賑わいました。

白川神社の主祭神は、速須佐之男尊(ハヤスサノオノミコト)、天照大神アマテラスオオミカミ)、豊受大神(トヨウケノオオミカミ)。

境内社には愛宕社、松尾社、稲荷社。

大正9年には、蟹が坂の瀬戸山にあった榎嶋神社の祭神、市杵嶋姫命および五瀬にあった一杵松神社の祭神、猿田彦神社大山祇神が合祀されています。


境内にある土俵では毎年夏に泣き笑い相撲が行われます。

約250年程前の江戸時代、土山に来ていた「茶師」と地元の若者がお茶とお米の豊作を祈願して宮相撲「泣き相撲」を始めたといわれているとか。

泣き笑い相撲は生後6ヶ月位から3歳位までの男児女児を、役員「神人」がお預かりして西から土俵に上がり、東から「ひょっとこ」が上がります。

行司の采配で重々しくまた面白く「ニラミアイ」「ナキアイ」「ワライアイ」をします。

甲賀市観光ガイドより引用)


その翌日の本祭りでは甲賀地方のスサノオを祀る神社に多く行われている「祇園花行事」が行われます。

花を奪い取ることから別名「ハナバイ」とも呼ばれ、「扇鉾」と、花の精にあおられて陽気の中に飛散する悪疫を風流傘「花傘鉾」に宿らせて、祇園社に送り込み神意を仰いで鎮めるというもの・・・だそうです。

「 ハナバイ」は他の地区でも行われますが、ここ白川神社のものが最も激しいと言われているそう。

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11:57 旅籠井筒屋跡
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案内板
「 森白仙終焉の地 井筒屋跡
 
文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861)11月7日、この井筒屋で没した。鴎外が明治33年に記した「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。

土山町教育委員会) 」

11:58 旅籠平野屋跡
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案内板
森鴎外が泊まった旅籠平野屋

平野屋は、森鴎外が祖父白仙の墓参のために土山に訪れ、明治三十三年三月二日に一泊した旅籠である。
『墓より寺に還りて、墓を境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)これを許諾す。乃ち金を贈りて明日来たりて観んことを約して去る。寺を出づるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門宅の家に投宿す。宿舎井筒屋跡といふもの存せりやと問ふに、既に絶えたり。』
小倉日記

平成十七年二月
土山の町並みを愛する会 」


【本陣跡、問屋場宅】

11:59 二階屋(堤屋)本陣跡
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案内板
「 本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用した公認の宿舎である。
 土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣尾二軒があった。
 堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。史料上の初見は江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を勤めた(「土山家本陣宿帳」)。
 本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年(1843)当時、門構えと玄関をもっていた(「東海道宿村大概帳」)。建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模であった。
 堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋がその代替として利用された。
  平成二十九年一月三十一日 
土山の町並みを愛する会
 甲賀市教育委員会

12:00 の時報のメロディ「ふるさと」が流れました。

12:00 問屋場宅跡
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案内板
「 土山宿問屋宅跡
 近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。
 問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
 土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。

平成十四年三月
土山町教育委員会

ここで、東海道ウォーカーというよりは、写真を撮っている人とすれ違いました。


12:01 土山家本陣跡
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案内板
「 土山宿本陣跡
 土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。
 土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
 明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
 幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治三年(一八七〇)本陣制度が廃止されたため土山家本陣は十代目喜左衛門の時、その役目を終えた。


平成二十六年二月二十五日
土山の町並みを愛する会
甲賀市教育委員会


【旅籠がたくさん】

土山宿には、44軒の旅籠があったそうです。

旅籠跡の〇〇屋の写真を20軒ほど撮りました。

旅籠 木屋跡
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旅籠 山本屋跡
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旅籠 近江屋跡
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ここに載せた木屋跡、山本屋跡、近江屋以外にも、大槌屋、阿波屋、寿し屋、海老屋、簾屋、木綿屋、万屋、はた屋、俵屋、山形屋、山村屋、中嶋屋、藤屋、竹屋、常盤屋の写真を撮りました。


【宿場のけごみと漢詩碑文】

土山家本陣跡脇には、明治天皇聖蹟碑と、漢詩碑文がありました。

漢詩
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鈴鹿山西古駅亭秋風一夜鳳輿停
維新正是天長節恩賜酒肴今尚馨

土山駅先帝行在所即吟井上圓了道人」

案内板
漢詩の読み
 鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
 維新の正に是、天長節なり。 恩賜の酒肴を今尚馨。

 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人

 【解説】この漢詩は、大正三年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇明治元年九月二十二日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。

土山の町並みを愛する会 」

12:03 宿場のけごみ
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土山公民館玄関前にある石柱です。

「けごみ」って何だろう、と皆さん気になってしまうけれど、意味がわからない、という人は多いようです。

「蹴込み」は、舞台をやっているとわかります。

「けごみ」とは、けこみとも言い、漢字では蹴込み、

意味は、

1.階段と階段の間にある板の部分

2.玄関などの家の入口の全面垂直の部分

3.人力車で客が脚を乗せる所

4.農家などの玄関や軒下に当たる部分

足を止める所・足を休める所という意味で用いられています。

ここでいう「宿場のけごみ」は、宿場の中の足置場(足を休める所)という意味で「どうぞ、ここで一服していってください」という意味の歓迎の石柱です。

そして、その玄関前にもうひとつ、林羅山漢詩碑があります。
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林羅山漢詩
「行李東西久旅居
風光日夜郷閭憶
梅花馬繋土山上
知是崔嵬知是岨

林羅山 薫苑書 」

案内板

林羅山漢詩の解読と解説

 【解読】
 行李(あんり)、東西、久しく旅居す。風光、日夜、郷閭(きょうりょ)を憶ふ。
 梅花に馬を繋ぐ、土山の上。 知んぬ是崔嵬(さいかい)か、知んぬ是岨(しょ)か。

 【意味】
 東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
 さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。
 いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。

 【解説】
 作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。
家康没後の元和二年(1616)、羅山三十四歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。
 この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に『釋詁毛傳などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて』この詩を詠んだとある。」


【大黒屋公園】

12:06 旧東海道と一の松通りの交差点に大黒屋公園がありました。

大黒屋公園の弥生松
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写真の弥生松がまず目に入りましたが、若そうな松でとても弥生というイメージではない。江戸時代には大昔からの松があったのかな。その何代目か何かなのかな。弥生松という名の謂れは結局わかりません。

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高桑闌更の句碑
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案内板
「 土山や唄にもうたふはつしぐれ 闌更
 高桑闌更は1726年に加賀国(石川県)金沢の商家に生まれ、江戸時代中期頃に活躍した俳人
 俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営んだ。
(後略)

土山の町並みを愛する会
甲賀市教育委員会


大黒屋公園は今はこの他にいくつか碑が建っているだけですが、この後紹介する碑から、往時はこの角辺りが賑わっていたであろうことが推察されます。


【大黒屋本陣跡】

大黒屋公園には、写真の二つの碑も並んでいました。
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大黒屋本陣跡と問屋場跡。

大黒屋本陣跡の案内板

「 大黒屋本陣跡

土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
 土山本陣は寛永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
 大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関 、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。

土山の町並みを愛する会
甲賀市教育委員会
 

そして、少し離れたところに高札場跡もあります。
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本陣跡にほぼ付き物の明治天皇聖蹟碑も、さっきの大黒屋本陣跡の碑に隠れるように奥の方にありました。
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【土山宿陣屋跡】

12:08 土山宿陣屋跡
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案内板
「 土山宿陣屋跡

陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。ここ土山宿の陣屋は、天和二年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、瀬古川の東崖にあり、東西二十五間、南北三十間の広さがあったといわれる。
 以降代官は入れ替わったが、宝永三年(1706)からは、多羅尾四郎右衛門に、そして明和八年(1771)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、天明二年(1782)より、再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政十二年(1800)の土山宿の大火災で類焼し、以後再建されず、百二十年の屋敷の歴史を閉じた。以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至っている。
 土山の町並みを愛する会
 甲賀市教育委員会

陣屋跡の手前に戻りますが、大黒橋には、鈴鹿馬子唄の歌詞や絵のパネルがはめ込まれています。
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2度目の東海道19日目の5(土山宿から水口宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/02/091641