紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き21日目の5(細久手宿)

二度目の中山道21日目の5
2020年9月6日(日)の5


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細久手宿入り口】

13:05 細久手宿の説明の印刷物(掲示物)
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「 細久手

1、細久手の地名が出てきたのは、記録としては、天正11年(1583)五月苗木城を攻略した兼山城主森長可が、その5月25日の帰途細久手に宿陣したとある『金山記』の記載が始めてである。
2、文禄4年(1595)に國枝与左衛門が、自領地に氏神として日吉愛宕神社を勧請している。
3、中山道の宿として慶長11年(1606)大久保石見ノ守長安の命を受けて7軒の仮宿を開いたが、放火により全焼する。
4、慶長15年(1610)中山道の宿場として正式に成立する。御嵩宿と大湫宿の間にあった中山道の宿場町で、江戸から48番目の宿にあたり、江戸へ94里(372km)、京へ42里(168km)あり、大湫宿から1里半、御嵩宿まで3里。大湫宿から御嵩宿までの間は山坂多くしかも長丁場であることから、大久保長安への両宿の嘆願で設けられた新宿という。
細久手は山村甚兵衛支配地にて無高である。
地子免許(除)覚 安永九年八月
細久手宿地子免除無之
天保14年卯年改(1843)中山道宿村大概帳には
尾州土岐郡細久手宿
江戸に九拾弐里参拾町八間
大湫宿に壱里半 御嵩宿に三里
一、宿高無之
日吉郷十二ヶ村入会から平岩村境迄
宿往還長十町参拾六間之内
一、宿内町並東西に三町四拾五間
一、宿内人別弐百五拾六人
(内男百三十四人、女百二十二人)
一、宿内総家数六拾五軒
本陣 凡建坪百二十三坪余
中町壱軒 門構、玄関附
脇本陣 凡建坪六拾弐坪余
中町壱軒 門構、玄関附
旅籠屋弐拾四軒
(内大六、中七、小十一)
一、地子免許無之
一、問屋給無之、尤米六谷尾州より
問屋の弐人に手当有之
一、人馬継ぎ問屋弐ヶ所
一、宿建人馬五拾人、五拾疋
一、継飛脚給米無之
一、宿高札場一ヶ所、宿東入口に建有之

13:06 細久手宿パンフレット(掲示物)
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細久手宿の名所の写真(掲示物)
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【高札場跡と庚申堂】

13:08 細久手宿概要と細久手宿高札場跡
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この案内板は全く読めないので、瑞浪市観光協会ホームページから引用します。

瑞浪市観光協会ホームページより

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細久手宿は江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ42里の位置にあり、東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半と長く、両宿の人馬が難渋したため、慶長11(1606)年に仮宿を設けたのが始まりです。宿内の町並みは東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)ありました。
 枡形はつくられず、上町と下町に弓形が施され、高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町にあり、往還に沿って東西に細長い町並みでした。また家々の地割は、5間から10間と統一されていませんが、家々の境は石積みで区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれます。
 今では、大湫宿の場合と同様主要交通路や鉄道が南の土岐川沿いに移ったため、主要地方道65号恵那御嵩線のみとなり宿は過疎化の中でわずかに往時の姿をとどめています。

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13:08 庚申堂
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瑞浪市公式ホームページより

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宝暦以来の小堂宇を寛政10年(1798年)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして享和2年(1802年)に再建したものです。宿内はもちろん近郷や旅人からも「細久手宿のこうしんさま」として親しまれたお堂で、ここからは宿内が一望できます。
街道時代には旅人の休憩所にもなっていました。境内には300年の時を経た江戸時代初期の石仏、石塔群が残されており当時の賑わいぶりが偲ばれます。

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13:20 案内板
細久手宿

細久手は江戸から48番目の宿。東の大井宿へは大湫宿から西の御嶽宿までの距離が長く、両宿の人馬が難渋したため、仮宿を設けたのが始まりです。天保14年(1843)年の記録によると、戸数は65軒、うち24軒が旅籠を営んでいたようです。家々の境は石積みで区画されており、今も新宿設置の頃の様子がうかがわれます。

瑞浪市 商工課 」


13:10 案内板
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案内板
細久手宿(ほそくてしゅく)

細久手宿は江戸から48番目の宿で、慶長15年(1610年)海抜420mのこの地に設けられた新宿です。
宿の長さは東西に3町45間(約408m)、天保14年(1843年)の戸数65戸、うち旅籠屋24軒で、尾州藩領でした。
宿の誇りは、上町の庚申堂や下町の日吉(ひえ)・愛宕神社、それに東の峠などから遠望される木曽御岳・駒ヶ岳・加賀白山などの四季の眺めの美しさでした。

平成3年3月
瑞浪市
財団法人観光資源保護財団
(日本ナショナルトラスト) 」


【公民館前の絵看板】

13:10 津嶋神社お祭りの絵看板と、鬼岩温泉いわみ亭の宣伝看板
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和味(なごみ)の宿 いわみ亭は、この看板の所まで送迎してくれるそうです。恵那駅から御嵩液までエスケープルートがなく、以前は利用できた大黒屋に連絡がとれないので、ここまで送迎してくれるのはありがたいですね。

津嶋神社のお祭りについては、瑞浪市観光協会のホームページより

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細久手津島神社 灯籠祭

細久手の津島神社徳川時代に創建されたが正確な年号は不明である。
毎年神前や各戸の軒に多くの提灯を掲げて提灯祭を行ってきた。
この祭は明治維新で一時中止された。理由は津島神社のお堂が庚申堂の境内にあったので当時の神仏分離政策に遠慮したものと思われる。
明治8年、このお堂を日吉愛宕神社に移し祭を再興した。
その後、津島の本社から笛、太鼓を習い、提灯で飾った舟形の屋台を作り、若い衆がこれに乗ってお囃子を奏でながら細久手の夜の街道を太い綱をつけ、かけ声勇ましく引いた。
この山中で舟を引くのは特異な珍しい祭であるが、津島本社の祭が川に舟を浮かべての夜祭りであることから、この風趣を取り入れたものである。
細久手地区の誇る年に一度の大祭で親類、縁者が多勢集い郷土の夏を楽しむ意義深い行事となっている。

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この写真も、瑞浪市観光協会ホームページからお借りしました。
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しかし、同瑞浪市観光協会ホームページによると、津嶋神社のお祭りは後継者不足のため、現在中止しているそうです。

13:11 歴史の道中山道細久手宿案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道
細久手宿(ほそくてしゅく)

標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に@hfy宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(一六〇六)の開宿場町で当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(一六一〇)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については天保十四年(一八四三)の記録に『町並み三町四十五間(約四一〇メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人』の記載があります。
細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(一八〇二)、文化十年(一八一三)、安政五年(一八五八)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。

瑞浪市

広重の細久手宿
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13:11 「ほしあかり夢街道」絵看板
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牛車の行列とギリシャ神話を彷彿とさせる星の絵。最初、これもこの地方のお祭りなのかと思ったら、そうではないようです。これは単なる幻想なのか、それとも、この辺りの夜は星が美しくて、それをイメージした絵なのかなあ。


【旅館大黒屋】

13:11 旅館大黒屋
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11年前は細久手の大黒屋旅館に泊まりましたが、今回は連絡がとれず、廃業してしまったのかな、と思っていましたが来てみると宿泊は受け入れている様子ですが、コロナ禍の影響なのか、それ以前に最近は中山道を歩く人が減っているからか、限定で受け入れている様子でした。

(このブログを書いている2021年1月現在、ネットで調べたら、大黒屋は普通に宿泊予約を受け付けているようです。私が細久手宿に行った時は、やはりコロナ禍で制限していたのでしょうか)

開いていた戸から、少し中を覗かせていただきました。
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11年前に大黒屋に泊まったとき、朝食で隣の席で食べていたご夫婦が、ポイントポイントでは合流するけれど、ほとんどの歩いている時は、別々に一人で歩いている、と話されていたことを思い出しました。


【本陣跡と脇本陣跡】

13:13 本陣跡
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反対側(仲町バス停)から本陣跡を望む。
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本陣跡の向かい側の、仲町バス停横の空き地(草原)に座ってランチ。
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前もって買っておいたどら焼きとローストアーモンドの香ばしフロランタンと、現地の自動販売機で調達したボスブラックで昼食。
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たまたま日陰のある草地に座り込んで食べたのですが、食後にガイド本を見たら、私が座っているまさにここが、脇本陣跡でした。
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13:26に出発。

13:28 皇女和宮ご使用の井戸
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案内板
「 皇女和宮ご使用の井戸

文久元年(1861)徳川家へ降嫁のとき当宿で休憩。そのとき使用された井戸で今も清水が尽きることなく湧き出ている。
以降美容の水として親しまれる。
小倉家裏手にある。
細久手長寿クラブ 」


13:35 九万九千日観音(細久手坂の穴観音)
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案内板
「 九万九千日観音

この石窟観音の縁日に線香をそなえてお参りすると九万九千日分の功徳が戴けるといわれている。

“九万九千の観音に
人眼しのんで祈ります。
赤い襷のおさげ髪
あゝ細久手宿場町”

細久手長寿クラブ 」

細久手宿大黒屋ホームページより

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西坂の穴観音は、寛政13年(1801)建立の一面六臂の馬頭観音石像であるが、「穴観音」とか「九万九千日観音」とか呼ばれ、観音の縁日に拝むと9万9千回分の利益があると伝えられて、宿民だけでなく、旅人からも信仰を受けていました。
 現在も石室内は、線香やローソクの煤煙で真黒です。

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二度目の中山道21日目の6(細久手宿から御嶽宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/30/001935


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
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