二度目の中山道21日目の6
2020年9月6日(日)の6
【秋葉の三尊石窟】
13:54 陸軍福島安正馬水池
案内板
「 〔陸軍大将福島安正 馬水池〕
福島大将、陸軍々人、旅行家 、長野県
松本出身。
日露戦争 の折、満州軍参謀 として出征す。明治十四年、陸軍大将となる。
一八九二年(明治二十五年)情報収業のため
シベリア大陸 を単騎横断 し、世界の人々を、『アッ‼』と驚かせ一躍有名になりました。これは後年、『敵中横断三百里 』とゆう題名で映画化されます。
その福島大将が後年この中山道を通行した時、この泉にて愛馬に水を与えました。それがこの『馬水池 』として残っています。
当時の石碑は平石八幡社境内 に建てられています。
保存会敬白 」
14:02 秋葉坂の三尊石窟
案内板
「 歴史の道 中山道
秋葉坂の三尊石窟
(あきばさかのさんぞんせっくつ)
細久手宿 と御嶽宿 の間は三里(約十一、八km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。
右の石室に祀られているのは、明和五年( 1768)の三面六臂 (顔が三つで腕が六本)の馬頭観音立像 。中央には一面六臂 の観音坐像
が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年( 1840)の銘があります。
なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様 が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。
瑞浪市 」
14:15 切られヶ洞
昔 、牛を追ってきた人が強盗に斬られたという場所だそうです。
【鴨ノ巣一里塚】
14:19 鴨ノ巣一里塚(鴨之巣一里塚)
案内板
「 鴨ノ巣一里塚
江戸93里、京へ41里という道標の中
山道鴨/巣一里塚です。 一里塚は道の両
側に一対づつ葉かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。
(市県指定史跡 )
東海自然歩道 」
こんな道を歩きました。
14:40 山内嘉助屋敷跡
「日本歴史街道 美濃十七宿 中山道散策ガイド」より
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江戸時代、酒造業を営んだ山内家の屋敷跡。藤上坂の途中に立派な石垣があり、往時の姿を伝えています。 中山道を通行する諸大名の休憩場所として、また旅する人々を泊めたとも伝えられています。
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標柱の写真しか撮らなかったら、実はその後方に石垣があったんですね。「ぎふの旅ガイド」から石垣の写真をお借りしました。
道にいが栗が落ちていました。
14:55 灯籠
ここは物見山峠 といい、道路の両側に
計五軒の茶屋があり、十三峠 の前後の
この地であれば往来の馬もさぞのどが
渇いたであろう。
存分のみなさいと北側に三ケ所の水飲
み場が設けてあった。
東海自然歩道 」
15:11 東邦ガスの森みたけ
15:11 東海自然歩道案内図
このすぐ横にトイレがあり、お借りしました。
【御殿場】
15:11 御殿場
案内板
「 歴史の道 中山道
御殿場(ごてんば)
文久元年(一八六一)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂(いえもち)公のところへ輿入(こしいれ)れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。
和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嶽宿にて休息、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。
中山道が別名『姫街道』と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。
御嵩町 」
【唄清水】
15:21 唄清水
案内板
「 唄清水
年中絶えることなくわきでる清水は昔時中山道を上り下りする旅人に疲れと渇きををいやしていたであろう。
この碑は嘉永7年(1854年)千村源征重臣が建立。
『馬子唄の響きに
浪たつ清水かな』 五歩 」
五歩というのはこの句を詠んだ方と思われますが、ちょっと調べた限りではどんな方なのか分かりませんでした。
唄清水は、本当に清水が唄っていたので動画を撮りました。
唄う清水とつくつくぼうし
https://youtu.be/-5PIgtIuY_0
実際にその場にいると、みんみん蝉よりもつくつくぼうしの声がたくさん聞こえていたのに、動画を聞くとみんみんが強い。
そして主役の、唄う清水が、YouTubeにあげるとほとんど聞こえない。でも、静かな部屋でようく聞いていただくと、みんみんでもつく法師でもない、カエルがコロコロ鳴いているような音が聞こえ、確かに清水が歌っているみたいです。
私の足音のジャリッという音も入っているので、それは唄う清水ではありません。もっとコロコロ軽快な音です。
熱帯魚の水槽の酸素ポンプの音に近いかな。
残念ながらこの清水は飲めないそうです。
15:22 巡拝記念碑
15:25 銘水の泉
15:26 一呑清水
案内板
「 一呑清水(ひとのみのしみず)
中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。
江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大変気に入り、のちの上洛の際、永祿寺(岐阜県多治見市)にわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝われています。
岐阜県 名水50選のひとつ 」
【十本木立場】
15:29 十本木立場
案内板
「 十本木立場(じゅっぽんぎたてば)
宝暦5年(1756)刊の『岐蘇路安見絵図(きそじやすみえず)』にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩したところから次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。
一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名の列が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。 」
15:32 一里塚(謡坂十本木)
案内板
「 一里塚(謡坂十本木)
慶長九年二月、徳川幕府は東海道・中山道・北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約一六メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。
一里塚は、一般的に一里ごとに榎、一〇里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。
現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。
この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかっての一里塚近くに復元されたものです。 」
15:32 案内板
「 安藤広重・『木曽海道六拾九次之内 御嶽』モデルの地
江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797~1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に『東海道五拾三次(全五十五枚)』のほか、この『木曽海道六拾九次(全七十一枚)』があり、御嶽宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。
広重の作品のなかに『木賃宿』が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。
御嵩町 」
広重の「御嶽宿」
15:33 十本木茶屋跡
案内板
「 十本木茶屋 跡
謡坂 一里塚 のすぐ近くにあって、『新撰美濃志 』にも十『本木茶屋は、木曽路 通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくといふ』
と記されている。
西方からは急坂を登りつめた所にあって、ここで汗を拭き拭きーぷくした茶屋であったといわれている。 」
【謡坂石畳と隠れキリシタン遺跡】
15:35 謡坂石畳
案内板
「 歴史の道 中山道
謡坂石畳 (うとうざかいしだたみ)
謡坂の地名の由来は、このあたりの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らしたことから、『うたうさか 』と呼ばれていたのが次第に転じ、『うとうざか=謡坂』になったのだともいわれています。険しくつづく山道、道の上をおおうようなたくさんの木々、足元に生える草花など、謡坂の
風景は今も当時の中山道の風情を色濃く残しています。
この謡坂石畳は、平成九年から十二年度にかけて『歴史の道整備活用推進事業
(整備)』として修復整備したものです。
平成十五年度のこの事業は、岐阜県
からの補助金を受けています。
御嵩町 」
東海自然歩道道標
この少し先で右に入って坂を上っていくと、隠れキリシタンの遺跡があったのですが、見そびれてしまいました。
石畳の近くで隠れキリシタンのマリア像が発見され、11年前は見に行きました。
パンフレットもあるらしいし、今回も行ってみるつもりでいたら、マリア像、パンフレットという矢印の方向がおかしくて、結局見つけられませんでした。
道標のお陰で95%は助かっていますが、まれに道標がおかしくて逆に迷うこともあります。
今回見そびれたので、現地の案内板を載せておきます。
『七御前祉、謡坂村にある、あるいは古き五輪塔 、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず』と宝暦六年(1756)に尾張藩士松平君山 が編纂した『濃陽志略 』に記されたように、仏教の墓石である五輪塔が多数あり古い樹木が生い茂った場所で、この地の由来はわかっていませんでした。
ところが、昭和五六年(1981)三月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架 を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡 であったことがわかつたのです。
不幸なことに日本では一時期キリシタンを信仰することが固く禁止され、密かに信仰していることが発覚すると命を奪われることもありました。
この遺跡からは命をも顧みることなく信仰に打ち込んだ郷土に生きた先人の生き様が伝わってきます。
七御前の写真は、「迷盤な日々」というブログからお借りしました。
東海道ブログでも引用させていただいたことのある「らんまるの街道歩き・暗渠散歩歩き」から、こちらのマリア像の写真をお借りします。これは昔からのものではなく、七御前の近くに新しく設置されたもののようです。
ここで発見された小さなマリア像や十字架などは、御嶽宿の「中山道みたけ館」に展示されているそうです。
【耳神社と牛の鼻欠け坂】
15:46 耳神社
案内板
「 耳神社 御嵩町西洞
全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐(きり)を一本かりて耳にあてます。 病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。
元治元年(一八六四)、武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。
15:55 牛の鼻欠け坂
案内板
「 歴史の道 中山道
牛の鼻欠け坂 (うしのはなかけざか)
『牛坊 牛坊 どこで鼻かかいた 西洞の坂で かかいた』という言葉が残るように、ここ西洞坂 は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂で
した。
中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。
平成十五年度のこの事業は、岐阜県
からの補助金を受けています。
御嵩町 」
16:07 道標
→和泉式部碑 0.6km 10分
←西洞 1.2km 20分
【和泉式部廟所】
16:17 和泉式部廟所入り口
和泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。
波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中、御嵩の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。
碑には、『ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ』という歌が刻まれています。
御嵩町観光協会 」
16:33 稲藁が干してある道
この後、暫く道に迷いました。
今日はほぼ晴れて暑かったのですが、この、道に迷っていたとき、ザバッと降られました。長い傘も、晴雨兼用帽子はこんな時役立ちます。5分で止みました。
【御嶽宿】
17:04 御嵩公民館
17:11 みたけ宿の灯籠
17:11 昔ながらの家
17:11 みたけ接骨院
17:12 中山道みたけ館第二駐車場
17:12 本陣跡
17:13 中山道みたけ館
「ふらっと旅ぎふ」より
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中山道みたけ館
1階が図書館、2階が郷土館の複合施設。平成8年3月、御嵩町の情報文化の発信基地として開館しました。 江戸時代、中山道の宿場町「御嶽宿」として栄えた一角にあり、中山道に関する資料や文献、書籍等を豊富に取り揃え、現代の宿場町として様々な情報や文化をお届けする施設としての役割を担っています。
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17:13 中山道ぎふ17宿御嶽宿案内板
案内板
「 御嶽宿
中山道四十九番目の宿場となる御嶽(みたけ)宿は、大寺山願興寺(おおてらさんがんこうじ)の門前町として栄え、慶長七年(一六〇二年)、中山道の宿場のなかでもいち早く整備されると、人や物、情報や文化が往来し、大きな賑わいを見せました。名鉄『御嵩駅』から続く町並みには、本陣跡や商家竹屋など、往時の面影が色濃く残されています。なかでも、願興寺には、本堂をはじめ国指定重要文化財の仏像二十四躯が納められています。
御嵩町役場 町づくり課 」
17:14 御嶽宿わいわい館
御嶽宿わいわい館ホームページより
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わいわい館とは
What's Wai-Wai kan
御嵩駅から徒歩で30秒の中山道沿いに位置するわいわい館は、宿場を訪れる旅人をおもてなしする観光おもてなし施設です。
無料の休憩所のほか、観光情報の提供やお土産品の販売などを行っています。
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17:15 御嵩駅
御嵩駅17:29発に乗り、新可児で乗り換え、18:10犬山着。
今夜は犬山に泊まります。
今日は7箇所一里塚を見ました。
そのうち六ヶ所がほぼ当時の形を、それも両塚残していて、ガイド本では2ヶ所が岐阜県指定史跡、2ヶ所が瑞浪市史跡、あとは指定なし、となっていましたが、行ってみたら、5ヶ所が岐阜県史跡になっていて、あと2つは指定なし。
その内一ヶ所は復元の塚なので指定なしは当たり前ですか、あと一ヶ所は両塚残っているのに指定なしなんだなあ。
今回のコースに両塚揃って残っているところが多いのは、人家を離れた山間で昔の姿を残していたおかげでしょうね。
夜は(台風10号の影響の)大雨で愛知県内の電車もあちこち止まっていました。
本日の歩数 61,037歩 37.26km
二度目の中山道22日目(御嶽宿~坂祝駅)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/30/100936
二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947
絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003