2度目の東海道19日目の6
6月26日(水)の6
【水口宿東見付】
14:57 地蔵祠と常夜燈
15:02 水口宿東見付(江戸口)跡
案内板
「 東見付跡
見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。
この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。
特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。
なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。 」
写真のお地蔵さまも、同じ東見付跡の敷地内に立っていました。
【脇本陣跡】
水口宿入り口辺りには、格子の素敵な家がいくつもありました。
15:07 脇本陣跡
案内板
「 旧水口宿脇本陣
この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久三年(一八六三)の『水口宿内軒別書上帳』の中に記述が見られることこから、一九世紀前半の建築と推定されています。
現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。その構造や蟇股などの草食は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます。
(甲賀市観光協会) 」
ここに出てくる蟇股とは?
ブリタニカ国際大百科事典より
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蟇股
かえるまた
和様建築で,梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって上の荷重を支える材。蛙股とも書く。梁上にあるものは厚い板状でこれを板蟇股という。平安時代からカエルが足を開いたような形のものができ,これを本蟇股という。初め内部には装飾がなかったが,のちに簡単な中心飾りができ,植物文,さらに動物文がつき,透かし彫から立体的なものまでが生れた。
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児童たちの集団下校がグループごとに三々五々やって来ました。
【本陣跡】
15:08 本陣跡
案内板
「 東海道水口宿
水口は道によって開け、道のよって発展した所です。
この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。
関が原合戦翌年の慶長六年(1601)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。
宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(1843)の記録によれば、家屋692、(内旅籠屋41)を数え、この地に小規模ながら水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。
このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。
水口町 」
案内板の前が細い路地になっていて、奥まで入ると、明治天皇聖蹟碑と、
本陣跡の説明板がありました。
説明板
「 水口宿本陣跡
この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。
本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・・幕府役人などが休泊するための施設でこれを補佐するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。
この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。 」
【桔梗屋文七と札の辻】
15:10 桔梗屋文七
これは明治38年創業のクリーニング店で、もとは着物洗い屋さんだったそうです。
いよいよ分岐にやってきました。
ここには高札場があったため、札の辻と言うそうです。
【三筋に分かれる東海道】
この先三筋に分かれるため、珍しい、「三筋に分かれる東海道」と呼ばれています。
ここから見ると二つにしか分かれて見えませんが、左側が少し先でさらに二又に分かれます。
写真の地図にペイントで書き込みましたが、今回は写真に書き込んだように、右ルートをまず行き、あちら側で合流したら、こちらから見ると左側、向こうから見ると右側の道を戻ってきて、最後に真ん中の道を歩くことにしました。
10年前は真ん中しか歩きませんでした。真ん中が旧東海道と書いてあったためです。
でも、せっかく三筋に分かれる東海道だし、二度目の来訪だし、今回は全部歩きます。
【右側の道】
まず、どどんっと目に入ったのが、写真の湯屋町の曳山(ひきやま)の庫です。
水口宿はあちこちに町内名を書いた石標が立っていて、すべての町内に曳山があるのかまではわかりませんが、町内ごとに曳山を持っているようです。
曳山の説明板はこの後、3回目に歩く真ん中の道の旅籠町曳山庫に立てられていましたが、さきにここで紹介します。
曳山説明板
「 曳山の由来
江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。
曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。
当地の曳山は『二層露天式人形屋台』という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に『ダシ』と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている『山蔵』に収納されています。
『ダシ』は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。 」
右の道を進むと、写真のお地蔵さまや、
写真の蔵がありました。
右の道をさらに進むと、呉服町の曳山庫がありました。
蔵の真ん前にゴミ収集場のフェンスが置いてあり、これでは曳山を出せないではないか、と思ったら、ゴミ収集場のフェンスは、下にキャスターが付いていて可動式でした。
【旧水口図書館】
大きい道を渡るとき、右の方に教会みたいな建物が見えたので見に行ったら、水口小学校の敷地内にある、旧水口図書館でした。
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旧水口図書館
滋賀県ゆかりの人物として知られる、建築家ヴォーリスが戦前に設計した作品の一つです。昭和3年に建築。昭和45年まで水口町立図書館として活用され、その後平成13年に国の文化財建造物として登録されています。
簡素でありながら高い実用性に優れ「知の館」にふさわしいデザインとなっています。
水口小学校では毎年秋に「みなくちっこ展」の会場として活用させていただいています。
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15:28 からくり時計前
ここで三筋に分かれていた道がひとつになります。
このからくり時計前の写真を見ると、三筋に分かれているのがよく見えます。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。
【東町】
次は右の道(札の辻側から見ると左側)を戻ります。
写真のような町名を書いた石標があちこちに立っています。
この石標も、写真の曳山庫も東町です。
【気になる町カフェ】
写真のような蔵もありました。
真ん中の道と合流した辺りに、写真の店があり、町家カフェというのでしょうか、気になって後で調べたら、ダイニングカフェ「TAKUMIYA」という店で、松阪豚のトンカツが美味しいそうです。
写真の最初の分岐に戻ったのが15:45
次は真ん中の道を歩きます。
【アーケードがない!】
さて、真ん中の道は10年前も通ったのですが、何か違和感。
そうだ、10年前はアーケード商店街だったんだ。アーケード、撤去されちゃったんだ。
写真のような紅がら格子の家や、曳山庫などもありました。
真ん中の道が通学路になっていて、集団下校のこどもたちがグループごとにやって来ます。
最初にすれ違ったグループは隊列の乱れもなくもくもくと帰っていましたが、道に広がって歩いているグループや、かくれんぼして、道草くっている子達もいました。
【からくり時計と、思い出の「カフェポエム」】
写真の大池町のからくり人形時計の回りでこどもたちがかくれんぼしていました。
やがて16:02 三筋が合流するからくり時計まで戻ってきました。
からくり時計の左面の下の方に、水口宿の説明文がありました。
説明板
「 宿場町の水口
天下を握った家康は慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三次の宿駅を置いて、公用輸送を確立。この時水口も宿駅となりました。宿場は町数27、家数718と発展。俳聖芭蕉も逗留し『命二つの中に生たる桜かな』の句を残しています。
庶民の旅が盛んだった江戸後期には、40余の旅籠と本陣・脇本陣があって、客引きで賑わっていました。
宿場の名物には、干瓢・葛細工・煙管・泥鰌(どじょう)汁等があり、夏の風物詩『かんぴょう干し風景』は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。 」
さて、今日の終点、水口石橋駅へ向かいます。
すぐに踏切が見えてきて、踏切を渡って左へ行けば水口石橋駅。
踏切手前の右の店、あっ、この店、10年前にランチを食べたお見せだ。「カフェ ポエム
」という喫茶店。
今日は定休日なのか、ランチタイムが終わってクローズしているのか、閉まっていました。
【最後のひと歩き】
16:03 踏切を渡り、
左に曲がったら、水口石橋駅。
無人駅なのはいいとして、トイレがない。
40分以上待つのにトイレがないのはつらい。
調べたら次の水口城南駅まで歩いて8分だそうで、その駅にトイレがあるかどうかは別として、待ち時間潰しに隣の駅まで歩くことにしました。
Google地図は駅の改札口までは教えてくれないので、駅の近くまで行くと迷うことがよくあるのですが、駅の近くまで行きながら遠回りしてしまい、水口城南駅に着いたのは16:32
水口城南駅には駅員さんもいたし、トイレもあるし、タクシーもいました。
一駅歩いたことによって、電車賃が80円安くなりました。
南草津駅まで切符を買いたかったのですが、近鉄線の次の駅(終点)の貴生川までしか買えませんでした。170円
でも、貴生川からはSuicaが使えました。
水口城南駅では暫く改札に入る前の待合室のベンチに座っていて、10分前ぐらいに改札入って、まだベンチに座っていましたが、線路を挟んで向こう側の建物(市民ホール)の広い窓ガラスを鏡代わりにしてJKたちがダンスの練習をしているのを眺めていました。
水口城南16:51発―16:58着 貴生川 17:06発―17:39着 南草津駅
貴生川から南草津までは410円です。
まずは明るい内に今夜の夜行バスの乗り場を確認して、また、ネットで紹介されているネットカフェが閉店している場合もあるので、存在を確認してから(ネットカフェがなければ食事場所も変わってきます) 、最近関東にはほとんどなくなった、うちのハリーが大好きな「めしや宮本むなし」に入り、期間限定お得メニュー、牛タンとろろ定食1,080円を食べました。
それからネットカフェへ。
きれいだし、女性専用エリアや、女声トイレはカード式で男性が入ってこられないし、いいネットカフェでした。
夜行バスも快適、というよりもぐっすりでした。
本日の歩数52,879歩 32.25km
(この後のコーヒーブレイク2で説明しますが、この後は、21日目前半、水口宿〜石部宿〜草津宿をアップします。)
コーヒーブレイク2(インフォメーション)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/03/153004
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東海道五十三次の絵手紙前半へ
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東海道五十三次の絵手紙後半へ
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