2度目の東海道19日目の5
6月26日(水)の5
【道標と面白い看板と歌声橋】
南土山交差点で国道に出ると、これで土山宿ともお別れです。
少し先の右側に写真の道標があります。(12:16)
「右北国たが街道 ひの八まん道」文化4年…とあります。
暫く国道を歩くと、右に多賀道への分岐があり、暫くそちらの多賀道の方へ行くのが旧東海道ですが、ほどなく左に折れてJAの辺りでまた国道に戻ります。
12:28に左斜めへの分岐。
入ってすぐに写真の立て札がありました。
これより三キロ先に松並木
のんびり歩こう旧東海道
先へ、足進めれば歌声橋
(看板は縦書きです)
縦書きの一番上の文字を左から読むと、
「この先」
すっきりしてないけれど、面白い。
暗号もので使うやつですね。
もうすぐ歌声橋、という辺りで、左に草ぼうぼうで草の中に遊具が埋もれかかったような小さな公園があり、その先車止めがあって、歩行者専用の道に入りました。
赤いこの道は照り返しがきつくて暑い。
この道があと五分も続いたら熱中症になりそうでしたが、歌声橋が見えてきて、橋を渡るときは川風で涼しかった。助かりました。
歌声橋を渡ったのは12:32
歌声橋から見た野洲川。
【親兵衛がお出迎え】
橋を渡りきってちょっと行くと、親兵衛の飛び出し坊やがお出迎え。
スマートな親兵衛だと思ったら、裏は乱太郎でした。
【瀧樹神社 ケンケト踊り】
12:43 瀧樹(たぎ)神社社標
写真の説明板
「 瀧樹(たぎ)神社
この神社には、次の二つの宮が祭祀(さいし)されている。
一、瀧樹大明神宮
この宮の主祭神は、速秋津比古之命(はやあきつひこのみこと)と速秋津比咩之命(はやあきつひめのみこと)という神で、この神は水門(みなと)の神と云われている神様で水害を守る神である。近くに二つの川が合流している落合(おちあい)があり大昔から洪水が多く、その度ごとにこの近辺は大被害にあい困ったのでたまつりされた神である。
一、天満宮
この宮の主祭神は、学問の神と云われている菅原道真をおまつりしている宮である。この神は、室町時代の領主が信仰された神様で、氏子が学問に励み立派な村にすることを願ってまつられたものである。
この神社には祭礼日は、毎年五月三日で当日は、国の選択文化財に指定されているケンケト踊りをはじめ花奪(はなうばい)神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭りである。平成一七年に本殿・拝殿が新築され、同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している。 」
補則として、
滋賀・琵琶湖観光サイトより
ケンケト踊り
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毎年5月3日 10:00〜
このケンケト祭りは室町時代から始まった田楽踊りが現在に伝承されていると云われている。
小学生の男子が孔雀などの羽を付けた飾りを頭に被り、袴に振袖姿で太鼓などを打ち鳴らし棒振り2人が踊る。
宿から踊り場までは大人に肩車され移動する。
また花蓋に沢山の金封や景品が取り付けられた造花が差し込まれておりこれを若者たちが激しく奪い合う。(県下の花奪神事の中でも一番激しいといわれる奪い合いである)
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また、瀧樹神社には希少な花「ユキワリイチゲ」が大事にそだてられているとのこと。
上記の説明板から本殿まで100mだそうです。
瀧樹神社社標の道を隔てて斜め向かい辺りに、写真の小さな公園があり社があります。小さいながら目を惹く社ですが、牛頭天王を祀っているそうです。
【べんがらとお茶と再び瀧樹神社】
この辺りはまだ土山町です。
写真のような紅殻(べんがら)格子の家、
写真のようなお茶畑もたくさん見られます。
いちいち写真には撮ってはいませんが、滋賀県に入ってから、信楽焼の狸が非常に多いです。大福帳に表札のように名字が書かれていたりします。大きいのが一匹、ではなく、中〜小、さらにミニサイズが数体並んでいることが多いです。
先ほどの瀧樹神社社標から6分ぐらい歩いたところに、写真の、瀧樹神社の社標と鳥居と節板がありました。
一瞬同じ名前の神社が町内に二つも?と思ってしまいましたが、同じ神社の参道が2つあるということなんでしょうね。
【倭姫】
12:53 地安禅寺
立派な鐘楼門にまず目が行きます。そして、門前に茶の木と案内板があります。
案内板
「 林丘寺宮御植栽の茶 ;御水尾法皇(1596年〜1680年)の御影、御位牌安置所建立の宝永年間(1704年〜1710年)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安禅寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている 」
13:00 垂水頓宮御殿跡
案内板
「 伊勢神宮に伝わる『倭姫命世紀』によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである『甲可日雲宮』があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが『御殿』という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成十六年三月
土山の町並を愛する会 」
前にも書きましたが、私の卒業論文は「『古事記』倭建命物語の文学性」であります。
荒ぶる性格のため、父から疎まれ遠ざけられ、東征の命を受けたヤマトタケルはその悲しみを叔母である倭姫(倭比売)に訴えに伊勢斎宮まで赴き、そこで天の叢雲の剣(スサノオの大蛇退治で大蛇の尻尾から出てきた剣)をお守りとして倭姫から授かりました。
静岡の焼津で豪族から火攻めにあった倭建命は、天の叢雲の剣で草を薙ぎ払い、火攻めの難から逃れ、この剣は草薙の剣と呼ばれるようになり、焼津の地名由来ともなっています。
東征の帰路、熱田で宮津媛と結婚の約束をし、宮津媛の許に草薙の剣を置いていった倭建命は、剣の守りの力を失い、伊吹山で神との戦いに敗れ、杖衝峠で難儀をし、能褒野で薨去 (こうきょ)します。
伊勢斎宮の倭姫とはどんな方だったのか。斎宮だからこその霊的力もあったのかもしれませんが、身内の女性の守りの力、について語られることが多いように思われます。
倭姫が伊勢斎宮に入ったのが、斎宮の始まりと言われているそうです。
13:03 諏訪神社
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御由緒
天文十一年甲賀三郎兼家が関東より故郷に帰る途中信濃国諏訪大社に立寄り分霊を受け市杵嶋姫を祀っていた社地に奉斎したとつたえられている。
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【長泉寺と一里塚跡】
13:04 長泉寺というお寺の前が小公園になっていたので、ベンチに座って少し休憩。
ちょっとした遊具もありますが、お昼過ぎでこどもたちは学校か保育園幼稚園に行っているか、誰も公園にはいませんでした。
13:10 一里塚跡
案内板
「 ( 前略:一里塚の解説)
土山町内設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。
【大日川堀割と反野畷】
13:12 大日川堀割碑
そして、大日川橋を渡った左側に写真の東海道反野畷の碑と、大日川堀割の案内板がいっしょにあります。
大日川 (堀切川) 堀割
案内板
「 従古頓宮山より流れでる水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れが広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699)市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長五〇四間、川幅四間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(1703)に完成した。
反野畷の畷とは、畦道のことだそうで、この辺りの一本道をいうのか、この少し先にも埋もれたような反野畷の碑がありました。
その、埋もれてような反野畷碑がある草むら(元は公園か何かだったのかな)には、反野畷碑より手前に、写真の「従是東淀領」標石がありました。淀って大阪の方だよね?
どうやらここに飛び地があったようです。
【銘酒 初桜】
13:39 安井酒造所
初桜というお酒が有名なのかな?杉玉が好きで、見かけると写真を撮ってしまいます。酒造らしい煙突も見えていました。
13:41 大日如来
国道1号線に突き当たる右手角に大日如来を祀った祠が建っていました。
祠の脇には、布引山若王寺と刻まれた道標が建っています。若王寺は国道1号線を渡った向こうの方100メートルぐらいのところにあるそうです。
13:24 花枝(はなえ)神社
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御由緒
創祀は康和元年大江国房の書に、嘉祥三年四月甲賀郡喜多兵宮が坂本日吉大社八王子社の分霊を勧請し花木堂、日吉十禅師の二社として奉祀したと伝えられている。勧請の時江染寺の庭内名木を社傍に移植し、其の名を採りて此の地を花の木と称し、社号を花の木堂といい、喜多兵宮の子孫、此の地に永住し常時座頭として奉仕した。社殿は天正六年、延享二年それぞれ再建し現在に至る。社号は古くは花木堂と称し中世八王子社と言い、明治二十六年花枝神社と改名した。
(後略)
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13:32 漢詩碑
大野公民館前に建っています。このあたりは、土山茶の一大生産地ですので、これを詠った詩です。
漢詩碑
「 過土山即興
採茶時節事匁忙
緑髄青芽壮僻郷
清風一瀹君知否
遠到紅洋黒漠香
眞風軒 」
説明板
「 土山を過ぎて即興する。
採茶の時節 事匁忙(そうぼう)す。
緑髄(りょくづい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に
清風あり。一瀹(れん)、君知るや否や、
遠きに到る。紅洋黒漠として香し。
眞風軒
〔意 訳〕
茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。
茶園を見ますと、茶の樹が整然と植 えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。
この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。
お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。
尚、眞風軒という人は、『眞風軒詩鈔』という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。
(注)一瀹は、『いちれん』とも『いちやく』ともよむ。
土山の町並を愛する会 」
【大野村 今宿村】
この辺り、大野村(間の宿大野)には、旅籠跡がたくさん並んでいますが、その中の旅籠桝屋跡は、今は仕出しと、料理旅館もやっている。とガイド本にあったので、ここで泊まれたらいいんじゃないかと思ってネットでいろいろ調べたのですが、ヒットして来ませんでした。
今日実際にやって来て見ると、写真の店、仕出し屋はたまたま定休日なのか、でも、とても旅館業に関してはやっているようには、見えませんでした。
茅葺きの家があるなあ、と思ったら、旅籠東屋跡でした。
13:50 お堂のないお地蔵さま。
この辺りはお堂付きが多いので、むしろ珍しいです。
14:07 山灯籠と土山今宿碑
写真の山灯籠と土山今宿碑(左側、南側)の、旧東海道を挟んで反対側(右側、北側)に写真の石仏があります。
【目立つのは狸と仕事人】
ここ、大野西交差点で国道に入り、少し歩くと甲賀市水口の看板
そこから1分程で右に折れますが、東海道の道標より何より目立っているのが居酒屋「仕事人」の看板と信楽焼の狸。
右に曲がると正面が仕事人で、仕事人の真ん前を左折して進みます。
【今在家一里塚跡】
14:16 古民家カフェ「一里塚」
があったので、この近くに一里塚跡があるんだろうな、と思ったら、その1分ほど歩いた先に今在家一里塚跡がありました。
14:17 今在家(いまざいけ)一里塚跡
案内板
「 今在家一里塚
一里塚は、街道の脇に一里(約4キロメートル)ごとに旅行く人々の目印として造られた塚で、江戸時代に全国的に整備されました。今在家一里塚は江戸日本橋から112里目にあたり、『今在家村地券取調宗絵地図』によれば、今の位置よりも東新川あり、また道を挟んで両側に築かれていたことが描かれています。えどじだいの一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、かつては桜が植えられていたと伝わります。
作成:甲賀市市民協働事業部・今郷好日会」
一里塚跡の先で左に折れて曲がり、県道549号線に突き当たって県道を右に進みます。
司馬遼太郎の「街道をゆく」碑が右側にあったらしいのですが、歩道が2段に別分かれて、私は県道側を歩いていたためか、司馬遼太郎の碑を見つけられませんでした。
18:24 右斜めに分岐
この分岐の手前に県道今郷バス停があり、もしもう歩けなくなったらここでリタイアしてもバスで貴生川に出られる、と、エスケープルートとして考えていましたが、まだまだ歩けそうなので通過。
【岩神社】
14:33 岩神社下
写真は、石仏などがたぶん集められたもの。
案内板
「 岩神のいわれ
かつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所絵図』には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。
それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣があったことを記しています 」
【八幡神社と松並木跡】
14:44 八幡神社
八幡神社にある観音堂には、本尊である馬頭観音が祀られている。もともと新城の200メートル北に、最澄が創建したとされる天台宗の寺院『天水寺』の本尊でしたが、天正年間(1573―1592)兵火に遭い廃寺になり、のちに八幡神社で祀られるようになったとされています。
観音堂には、江戸時代中期に奉納された200以上の絵馬があります。
絵馬には街道筋に生きた人々の祈りがこめられ、水口宿の旅籠や宿役人など、東海道の往来によって生計を立てた人々が交通の安全や、商売繁盛を願い、奉納されたものとされています。
城山中学校(3名の名前)
平成27(2015)7月作成 」
14:52 東海道松並木跡
案内板
「 東海道の松並木
江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。
街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。
水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます。 」
2度目の東海道19日目の6(水口宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/03/064513