紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き18日目の6(関宿への道)

2度目の東海道18日目の6

6月14日(金)の6


【旧商家の休憩所】

14:49 照光寺
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亀山市HPより

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亀山市東丸町に、石井兄弟敵討碑があります。

元禄14年(1701)5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。

この碑は、28年目にして仇討ちの本懐を遂げた石井兄弟敵討ちが、「元禄曾我」として歌舞伎や絵本などに取り上げられたことを顕彰し、兄弟が本懐を遂げた石坂門外に、亀山保勝会によって建立されました。

なお、討たれた赤堀水之助の墓は野村照光寺にあります。

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14:50 休憩所(旧佐野家住宅)
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朝日新聞デジタルより

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三重)旧佐野家住宅を公開、入り母屋妻入り造り 亀山

2018年8月18日3時0分

 三重県亀山市野村3丁目の旧東海道筋で11日、「旧佐野家住宅」が公開された。9年前に市に寄付された町屋風の商家で、市が約3200万円をかけて整備した。歴史散策の人の休憩所に使ってもらうほか、地元のまちづくりにも生かしたいという。

 亀山城の西、京口門の向かいに位置していた場所にある。明治初期に改築されたが、江戸時代の家の様子も引き継ぐという。「入り母屋妻入り」の造りで、街道に切り妻の正面を向ける妻入りの町屋は多くないという。敷地約530平方メートル、建物は2階を含め延べ約160平方メートル。

 家主は質店などを経営していたとされ、正面から入った土間が奥に入って広くなり、中庭へ続く。暑い夏でもそよ風が吹き抜ける構造で、土間の西側に座敷4室がある。見学で座敷に上がることもできる。

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写真のような蔵もありました。
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【森家住宅】

14:52 森家住宅
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案内板
「 森家住宅
国の有形文化財(平成二十三年)
主屋一棟

亀山宿・関宿間の野村集落所在。旧東海道の歴史的町並みを伝え、貴重な建物である。
切妻造桟瓦葺で西面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。
左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるなど、町屋的な表構えを見せる。 」


森家住宅主屋 文化財データベースより

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東海道に面した木造の民家です。「おもや」の屋号を有する有力な家の住宅として建てられ、現在は飲食店として使われています。街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置しています。また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せています。

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児童の下校時間で、見守りのシルバーさんと挨拶を交わしました。

14:54 光明寺
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浄土真宗本願寺派のお寺で、山門が立派です。


明治天皇御召替所跡】

14:59 明治天皇御召替所跡
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案内板
明治天皇御召替所跡

内池家主屋

明治十三年五月、明治天皇は東京から山梨県行幸され、続いて三重県で、伊勢の内宮と外宮を参拝されました。
東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸されました。亀山では、陸軍の大坂鎮台のありのままのようすを見分するため、野村の高平(高飛山のことか)で、五月十一日、十二日に勢揃いをご覧になりました。その折、当家で御休みになり、御茶料として、三円を下されました。

現在・『焼肉長治郎』 」

焼肉長治郎」HPより

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歴史ある城下町亀山市

店主より、六代前の家長、長治郎氏の建てた家が今、焼肉長治郎として、あなたの御来店を心よりお待ちしています。

旧東海道沿いに、築~170年、たたずむ家屋へようこそ、

明治壱拾参年五月参拾日、明治天皇、御幸の折り、御召替え所として、当内池家にて、小休止及び御召替えをされました。

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この辺り、下校の児童たちがたくさんいました。


【野村一里塚跡】

15:01 野村一里塚跡
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またまた、インパクト大!

野村一里塚跡 亀山市観光協会HPより

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一里塚は江戸時代の始めにあたる慶長9年(1604)2月、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、諸国の街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標。三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。また、もともとは道の両側にありましたが、現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。

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10年前にこの野村一里塚跡を見たときの感想をどう書いているか見てみたら、

「鳩がたくさんいました。」

と書いてありました。わざわざ書いたということは、かなりいたのでしょう。今回は一羽もいませんでした。

10年前のことだから、近所に餌をやる方がいたのかもしれません。最近は鳩に餌をやってはいけないことになったので、あちこち鳩が減りましたよね。


大庄屋屋敷跡】

15:11 大庄屋屋敷跡標柱
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亀山藩大庄屋打田権四郎昌克宅跡

標柱左脇の説明

「打田家は江戸初期に近江国から野尻村に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)亀山藩領86ヶ村を中心にした
記録集『九々五集』を編纂した。
現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。 」

その周辺の道です。
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【布気皇舘太神社 】

15:15 布気皇舘太神社
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神社ネットより

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御由緒
由  緒 延喜式神名帳には、垂仁天皇一八年鈴鹿郡布気神社と見えている。 昔、旧野村字に布気林という所かあり、そこに奉斎してあったことから布気神社と称えたのであるが、 文明(一四六九‐八六)の頃に起った兵乱のため、社殿悉く焼失したため、後に皇舘の森へ奉遷したと伝えられている。 皇舘の森の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比占命が神田・神戸を献じ給うたことに由来する地名であり、 野尻、落針、大岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ケ村を神戸郷と言い皇舘太神社を総社と仰ぎ、平素の尊崇は論を俟たず、 大祭の奉仕に専念、殊に早魃の時には郷民こぞって参籠して祈ったということである。いろいろな名で親しまれたが、 亨保八年(一七二三)に、吉田家から皇舘大神の神号を受け、布気神社皇舘大神となったが、明治四一年六月より現在の社名となった。 明治四一年、近郷近在の小社・小祠を合祀して今回の神社になった。倭姫が立ち寄ったとも言われている。宝物等 獅子頭 一口

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神社の前も慶大も真っ暗でひんやりしていて、とても鳥居をくぐる勇気はありませんでした。

その先の道も、写真は編集して明るくしていますが、真っ暗で、早くここを通り抜けてしまいたい、と思いました。
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その冷気みなぎる聖域を抜けた辺りに、写真の灯籠のある家がありました。
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【昼寝観音】

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写真の分岐点、左の下り坂を下るのが正解ですが、こんなに急な坂を下るはずがない、と、右へ行ってしまい、間違った道を行って戻ってくるのに20分間ぐらい無駄をしてしまいました。

時刻は15時過ぎでそんなに遅い時間ではないのに、小雨で薄暗く感じました。

戻ってきて、再び分岐点に立ったのが15:39。

その分岐点のすぐ左に、写真の昼寝観音入り口がありました。
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昼寝観音を見に行ってみたのですが、お堂の中なのかな。見えませんでした。

昼寝観音

「亀山こども歴史館」より

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布気町落針(ふけちょうおちばり)の昼寝観音(ひるねかんのん)は、奈良東大寺(ならとうだいじ)の大仏(だいぶつ)を建(た)てなおすお金(かね)を全国(ぜんこく)から集(あつ)めているときに、石山観音(いしやまかんのん)(津市芸濃町(つしげいのうちょう))から運(はこ)ばれてきたそうです。各地(かくち)の観音(かんのん)さんが集(あつ)まって、西日本(にしにほん)で観音(かんのん)さんをめぐっておまいりする33か所(しょ)のお寺(てら)を決(き)める会議(かいぎ)が開(ひら)かれた時(とき)、落針(おちばり)の観音(かんのん)さんは昼寝(ひるね)をしていて会議(かいぎ)にいかなかったので、33か所(しょ)のお寺(てら)に選(えら)ばれなかったと伝(つた)えられます。

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ここから、写真の、観音坂を降りていきます。
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【大岡寺畷(だいこうじなわて)】

写真のような、桜並木を進みます。
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15:54 大岡寺畷の案内板
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案内板
「 太岡寺畷のいわれ

 畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。
 太岡寺畷 は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川 沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。
 松尾芭蕉 の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が『から風の太岡寺縄手吹透し』と詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。

 かつては、『わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり』(『亀山地方郷土誌』)と謡われたほどの松並木で、大田南畝蜀山人)が享和元年(一八〇一)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、『松の並木両行に立てり此間十八町にて太岡寺縄手といふ』とあります。

 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である『六門山四王院太岡寺』に由来すると伝えられます。 」


また、上の写真の左側に白っぽい案内板があります。これは、伊勢ノ国まほろば街道の案内板です。


亀山商工会議所HPより

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伊勢ノ国 亀山まほろば街道
悠久の時を超え世界へ

ヤマトタケルが眠る亀山は、いにしえから現在、そして未来まで人が行き交う、伊勢ノ国いちばんのまほろば(素晴らしい場所)の知です。
この亀山に繋がる街道すべてを《まほろば街道》とし、悠久の時を越え、世界へと通じる道として人々に伝えていきます。

当商工会議所では、 、平成25年度より街道観光に取り組んで参りましたが、このたび、当地の亀山宿・関宿・坂下宿の三宿東海道19.5㎞を軸として、大和街道や巡見街道等を加え、“道”と“歴史や物語”を融合させた街道観光を、本年5月の伊勢志摩サミット開催を機に、より広くPRしていくため、亀山市長 櫻井義之様に街道観光のネーミングを依頼いたしましたところ、「伊勢ノ国 亀山まほろば街道」と命名いただきました。

(以下略)

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毎日新聞地方版 2016年10月5日

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まほろば街道

亀山の旧東海道など総称命名 保全、継承し観光を推進 ロゴも決まる /三重
毎日新聞 2016年10月5日 地方版


 亀山商工会議所は、歴史的街並みが残る亀山市内の旧東海道などの街道の総称を「伊勢ノ国 亀山まほろば街道」と命名し、ロゴのデザインも決めた。

地域資源旧東海道関宿を中心に街道を保全、継承し、観光の推進のためにPRするのが目的。命名した桜井義之市長は「(まほろばには)素晴らしい場所、住みやすい場所の意味もある。亀山は伊勢の国1番のまほろばの地」と胸を張る。

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10年前はこんな立派な案内板はなくて、写真3の標柱が立っているだけでした。
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2度目の東海道18日目の7(関宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/30/180909