2度目の東海道18日目の5
6月14日(金)の5
【カメヤマローソクと江戸口見附跡】
13:54 栄町交差点のファミリーマートでパンを買って、やっとランチにありつけました。さっきどら焼きを食べて、そんなには食べられそうもない気がしたので、パンにしました。
その先に、カメヤマローソクの会社がありました。
10年前は、絵手紙に描いたカメヤマローソクベンチが印象的でしたが、今回はそのベンチは見当たりませんでした。
14:00 能褒野神社の二の鳥居
14:13 亀山宿江戸口門跡
案内板
「 江戸口門跡
延宝元年(一六七三)、亀山城 主板倉重常 によって築かれた。
東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。
西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
【東町ふれあい公園と旧佐川邸跡】
14:17 福泉寺
じゃらん観光ガイドより
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福泉寺について
福泉寺は慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元年(1460年)に真宗高田派に改宗したと伝えられる。山門は寛政7年(1795年)の建立で、近世地方有力寺院の典型的な建築様式を示している。
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14:17 東町ふれあい広場
10年前のブログ
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2009.1.14.
江戸口門跡を右折したのが8:56。現在の商店街の中に入ります。
そのかなり前からトイレに行きたくて困っていたら、左側に立派なトイレがある公園が見えたので、助かった!と思いました。
その公園は高台にあり、亀山駅は、低いところにあるようです。
この公園は、旧佐川邸跡でした。
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今回も同じ場所でトイレを借りました。
東町ふれあい広場内の「旧佐川邸跡」の碑
商家であった佐川家は、佐野屋の屋号をもち、この場所に屋敷があったそうです。
「伊勢国鈴鹿郡亀山宿内之図」によると「旅籠佐野屋源治」と記載があるそうです。
【本陣跡と枡形】
14:25 樋口本陣跡
その先で左に曲がり、滑り止めなのか、旧東海道の道案内なのか、黄色く塗られた下り坂が何度もカーブしながら続いていて、桝形なんだろうな、と思いました。
桝形は、敵の侵入を防ぐためにわざと曲がり角を作るのです。
【遍照寺】
14:29 遍照寺
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街道から鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」といわれた古刹。本堂は、亀山藩主在国中の居館であるとともに、亀山藩政務を執る政庁でもあった旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築してできたものです。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に作られたもので、県文化財に指定されています。また、本堂内に安置される地蔵菩薩立像は平安後期の像で、延命地蔵として信仰を集め、人々から親しまれています。
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「観るなび」より
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亀山有数の古刹で、本堂は旧亀山城二の丸御殿玄関を移築したもので、近世殿舎建築の希少な遺構です。本尊の木阿弥陀如来立像は県下を代表する鎌倉彫刻として県文化財に指定されています。また、本尊の両脇侍として安置されている木造観音菩薩坐像、木造勢至菩薩立像も鎌倉時代の貴重な作品として、県文化財に指定されています。さらに、遍照寺墓地には江戸時代の芸術家大月関平の墓(市指定史跡)があります。例年6月に人形供養が行われている寺です。
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10年前のブログ
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左側に遍照寺という寺があり、山門よりも境内が低いのが珍しいと思いました。
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山門から見下ろした景色
【屋号の札と残ってほしい建物】
絵手紙に描いたような、歴史を感じる家もありました。塀が崩れそうで、どうかこのまま残ってほしい、と思いました。
10年前のブログより
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「宿場にぎわいプロジェクト」と書いた看板があり、町起こし的な企画として、各家に屋号札をかけているそうです。町の名は、横町、万町、西町と移っていきます。
升形の道がくねくねした道では、電動車イスの方が、私がかなり速く歩いているのに、悠々と追い越していきました。
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【西町問屋場跡、飯沼慾斎生家跡】
14:36 西町問屋場跡
案内板
「 西町問屋場跡
問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
東町と西町からなる亀山宿 では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは20日程の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(一八〇三)の『亀山領内東海道分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子 氏蔵)や文化四年(一八〇七)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館 蔵)、文久三年(一八六三)の『宿内軒別書上帳』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
なお、元治二年(一八六五)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造 氏寄託資料)。
10年前のブログ
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家々のすぐ後ろがお堀になっている箇所があり、そこに黒っぽい大きな水鳥がいました。
西町問屋場跡からは、さっきの遍照寺の屋根が見えました。
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西町問屋場跡は少し高台になっていて、お堀や、家々より少し高いとこらにある遍照寺の屋根が見えます。
14:39 飯沼慾斎生家跡
飯沼慾斎 wikipediaより
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飯沼 慾斎(いいぬま よくさい、天明2年6月10日(1782年7月19日) - 慶応元年閏5月5日(1865年6月27日))は、江戸時代の医家で本草学者。「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版した。伊勢国亀山(現・三重県)出身。
人物
名を守之、後に長順、字を龍夫といい、幼名本平。慾斎は、引退後の号。小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した。文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。
『草木図説』は、草部20巻・木部10巻・禾本沙草無花部10巻からなり、生前に刊行されたのは、草部20巻のみであったが、その価値は、時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた。牧野富太郎も増訂草木図説を昭和に入ってから出版しているほどで、まして木部の刊行は実に死後120年たった昭和52年(1977年)のことであった。
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カール・フォン・リンネは、スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。ラテン語名のカロルス・リンナエウスでも知られる。「分類学の父」と称される。同名の息子と区別するために大 リンネと表記されることも多い。
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リンネの分類法というのは、近代的分類法を刷新したのがリンネであるためにそう言われているが、その後分類法はもっと細かくなってきているだけでなく、リンネの分類が間違っていた部分もあるそうです。
【旧舘家住宅(ますや) 】
14:40 旧舘家住宅(ますや)
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旧舘家住宅は、明治6年に商家として建てられました。平成19年に市指定文化財として登録され、土、日、祝日には一般公開も行われています。
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土日祝日しか公開していません。
【亀山城西之丸外堀跡】
14:42 亀山城西之丸外堀跡
10年前に来たとき、こんな発掘現場みたいなところ、なかった!
案内板
「 亀山城西之丸と外堀
亀山城 は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。
寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。
西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。
この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸櫓がありました。
この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。
なお、工事にあたり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。
亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。
このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。 」
これを見ると、11年前に策定して、10年前にはあたかも発掘作業が終わったかのように読めますが、たぶんその頃から始めて、暫く掘っていたんじゃないかなあ。
亀山城はずいぶん大きかったんだろうなあ。
【京口門跡】
10:46 京口門跡
案内板
「 京口門跡
亀山宿 の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
『丸々五集』によれば、亀山藩主板倉重常 によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城 総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門
と謡われるほどであった。
歌川広重「東海道五捨三次」のち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。
京口門古写真
案内板の最後の方に、京口門古写真(明治初年頃) と、
大正3年の京口橋の写真と、
広重の亀山雪晴の絵が載っています。
10年前に来たときは、東海道を歩いていると、加藤内膳家長屋門や亀山城跡が見られないので、戻ったり寄り道したりしました。
10年前のブログ
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京口見付跡から一旦、旧東海道と並行する道を戻る形で歩きました。その道には、加藤内膳家の長屋門と蔵がありました。
少し寄り道。
亀山城址の方に坂を上っていくと、右に石井兄弟仇討ち碑がありました。
亀山城址は、多聞櫓と石垣ぐらいしか残っていません。
その先にある亀山神社では、明日のどんと焼きの準備をしていました。境内には、大久保神官邸の門(県指定文化財)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)土台部がありました。
神社から坂を下り、京口門跡に戻り、再び旧東海道を進むと、バス停が京口坂だったり、橋が京口坂橋だったり。9:56だったので、ちょうど1時間亀山に滞在したことになります。
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2枚の絵手紙は、10年前のブログ用に描いたので、1月14日の服装です。
こちらの写真の京口坂橋は今回撮った写真です。
2度目の東海道18日目の6(関宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/30/083553