紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き17日目の3(桑名宿)

2度目の東海道17日目の3

6月13日(木)の3

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【川沿いの道から住吉神社へ】

川沿いの道は、堤防の高いところは車がたくさん走っていそうなので、下川の道を行きましたが、しばらく歩いていたら、堤防の上を歩いている人がいたので、私も堤防に上ってみました。景色がよくて気持ちがよい。
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9:00 右側に住吉神社
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住吉神社

桑名市観光ガイド」より

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桑名 は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されました。神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。なお、近年は太一丸堤の上にあった神明社が合祀されています。ここから、伊勢大橋・多度山方面の眺めは水郷桑名ならではの趣があり、水郷巡りの発着点として利用されています。

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ほどなく七里の渡しに着きました。

こちらは船着き場の水門というのかな?
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【七里の渡し 伊勢の国一の鳥居】

絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。
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11:03 伊勢の国一の鳥居
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一の鳥居の右側に写っている「山月」というレストランが、本陣跡です。


七里の渡し跡 桑名市観光ガイドより

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七里の渡跡(しちりのわたしあと)

熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられています。

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七里の渡し 桑名側遺構 wikipediaより

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桑名宿側遺構

船場跡が七里の渡(桑名市東船馬町)として整備されている。1958年(昭和33年)12月15日に、三重県指定文化財(史跡)に指定された。当地が伊勢国の東の玄関口として位置付けられることから、「伊勢国一の鳥居」が設置されている。

慶長6年(1601年)に、本多忠勝が町並みを整理した。桑名の港には、川口御番所、制札(せいさつ)を掲げた高札場(こうさつば)、船着場、船役所等があった。

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9:05 蟠龍樓(ばんりゅうやぐら)
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桑名市観光ガイドより

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蟠龍櫓 (ばんりゅうやぐら)

川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元しました。かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。

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「日本旅マガジン」より

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三重県桑名市揖斐川河口に臨んで建つのが桑名城・蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。揖斐川河口の七里の渡し渡船場近くの三の丸に建つ蟠龍櫓は、平成15年に建築されたもので、実は国土交通省水門統合管理所。1階は水門管理所となっていますが、2階は展望室で木曽三川の河口部分を眺望します。夜間はライトアップも実施。

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二階の見学は朝9:30から出来るそうで、まだ開いていませんでした。

伊勢湾台風50周年モニュメントと九華公園】

10年前に桑名に来た時は焼き蛤を食べたので、その絵手紙を貼っておきます。
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9:08 伊勢湾台風50周年モニュメント
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こちらも、伊勢湾台風の被害後の治水にまつわるモニュメントです。
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伊勢湾台風 wikipediaより

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伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。

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蟠龍櫓から堤防を歩いていくと、伊勢湾台風関係のモニュメントや治水に関する展示があり、そこがもう九華公園なのか、講演はもう少し先の、駐車場の脇のトイレから奥へ入っていった辺りなのかがよくわからないのですが、とりあえず九華講演のトイレを借りてから、道を元に戻りました。



九華公園 wikipediaより

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九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので、園内では桑名城ゆかりの様々な遺構を見ることができる。堀は公園全体の約6割を占め、水が張られている。堀上には多数の橋が架けられている。

園内には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜などの桜が約450本あり、三重県下屈指の桜の名所となっている。また、ヒラドツツジオオムラサキツツジといったつつじが約550本、伊勢系、肥後系、江戸系の花菖蒲が約4000株ある。


名称の由来

中国には九華扇という扇があり、桑名城の通称が扇城であることから、この公園に関連深いものと考えられる。一方、九華は「くはな(くわな)」と読むことができ、江戸時代には桑名を表すものとして使用された。そこで、城の通称と「くわな」の読みにかけて九華公園と名づけられたと言われている。

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【舟会所跡、問屋場跡、通り井跡、歌行燈】

伊勢の国一の鳥居に戻り、旧東海道を進みます。


9:20 舟会所跡・問屋場
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案内板

「 舟会所跡

 舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込みをして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。


問屋場

 問屋場東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。 」


9:22 通り井跡
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案内板
「 通り井跡

 桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを『通り井』と言う。昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、『通り井』跡の一つが発見された。現在は道路面に『井』と書いた石がはめこまれている。 」

9:23 歌行燈(うどん屋)
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歌行燈HPより

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歌行燈と志満や(しまや)

明治の文豪・泉鏡花の描く「歌行燈」は 明治末年の伊勢路、桑名を舞台にして、能芸道のなかに人の生き様をからませ、男と女を精神的描写をもって表現して居ります。
その舞台のひとつ饂飩屋(うどんや)で、唐辛子を利して熱いのをやる場面の絶妙さは、心の内側にしみる哀感のあるところです。
この饂飩屋のモデルが遠い古き日の「志満や」でございます。
その後大正昭和すぎ平成の今日にも其の風情を大切に、風流うどんそば料理「歌行燈」と名乗る次第でございます。

歌行燈 主人拝

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【青銅の鳥居としるべ石】

9:24 青銅鳥居
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桑名宗社(春日神社)HPより

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青銅鳥居
『勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎』と歌われた日本随一の青銅鳥居で、神社境内から東方25mの所、片町通に面して立っている。寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重が寄進、慶長金250両を費し鋳物師 辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。(昭和40年12月県文指定)

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ここに書いてある二朱女郎とは? イミダスより

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(遊女には格、階級があった)

最下級の遊女を二朱女郎ともいったが、これは揚代(あげだい)が2朱だったことによる。

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青銅鳥居の足元に、しるべ石
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案内板
「 しるべいし

『しるべいし』は『迷い子石』とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。
同じものが多度大社の鳥居の横にもあります。
自分の子どもが迷子になると、
左側面『たづぬるかた』に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、
心当たりのある人が右側面の『おしゆるかた』へ
子どもが居た場所などを貼ります。

平成二十三年三月

桑名市教育委員会


9:25 蛤の飛び出し坊や
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坊やと言うよりは、女の子かな。

「立教小 二〇一三年度 卒業生」

と読めますね。

桑名市立教小学校は、九華公園や、これから行く歴史を語る公園の近くにある小学校です。

【歴史を語る公園と桑名城城壁跡】


9:20 「桑名城城壁」
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桑名城城壁

案内板
桑名城城壁
 正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約五〇〇メートルが現存し、市の文化財に指定されている。
 積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見かけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。各所に堀川に向かって狭い通路が設けられているのは、明治以後、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。 」


桑名城城壁を所々残す川沿いの細長い公園は、「歴史を語る公園」



桑名歴史を語る公園

案内板
「桑名は 、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもありました。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として賑わいをみせていました。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。 」


また、こんな案内板もありました。


案内板
東海道と五十三次 桑名宿

江戸時代の東海道 は、慶長 六(1601)正月 に定められ、桑名宿 も設けられた。江戸から約九六 里(約三八四km)、京都から約三十里(約一二〇km)、 であった。宮宿 (熱田)から海上七里(約二八km)、 四日市宿 までは陸上三里八町(約一三km)。七里の 渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、
鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町ま でが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り、町屋 橋をわたって、東海道が続いていた。天保 一四年(一
八四三)調べでは、宿内人口は八、八四八人であり、 本陣 二軒、脇本陣 四軒、旅籠屋 一二〇軒があった。

桑名市

郷土の宝 文化財を大切に 」


歴史を語る公園は、東海道五十三次のミニチュアが飾られています。

写真は、日本橋
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写真のような木陰もあります。
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富士山
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この写真の冠木門はどこをイメージしているのかな。
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この写真は、京都三条大橋です。
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【桑名のアイスまんじゅう

9:40 桑名博物館前の道標
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案内板

「 道標

右 京いせ道
左 江戸道
江戸時代
旧東海道筋道(場所不詳)に
建てられていたものを
移設しました。

桑名市博物館 」



9:43 石取会館
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三重県内博物館・資料館」より

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本施設は、大正14年(1925)に四日市銀行桑名支店として建築された鉄筋コンクリートの建物です。平成3年に桑名市に寄贈され、平成4年に石取祭を紹介する施設として開館しました。平成19年3月、石取祭が『桑名石取祭の祭車行事』の名称で国重要無形民俗文化財に指定されたことをうけ、同年8月に石取祭の歴史や行事を紹介するパネル、壁面映像、お囃子体験コーナー、情報検索などを設置しています。石取祭を見て・ふれて・楽しんでいただけます。

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この石取会館前でテレビ主催をやっていました。夜、宿泊先のホテルのニュースでやっていて、

「あっ、あの時、取材していた、あれだ!」

と、びっくりしました。

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今朝、石取会館の真ん前でテレビの取材を受けている方がいたので、その目の前にある歴史ある建物のことだろう、と思っていたのですが、夜、中京テレビ(日テレ系)のニュースで、今、200mlの紙パックの豆乳をそのまま冷凍庫で凍らせて食べると美味しい、というのが話題になっている。という流れで、実は昔からこんなものを凍らせて売っているのが地元では評判、というニュースで、まさに昼間取材を受けていた女性お二人が、桑名のアイスまんじゅうについて語っていました。

もう70年ぐらい前から売っていて、近所の方達では評判でよく売れているそうです。

寿恵広という店で、昭和25年頃から作っているそうです。全国発送もしているそうです。


【京町見附跡と毘沙門堂

9:44 京町交差点
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石取会館から進んで、この京町交差点で車通りの多い大きな道を渡って直進するのが旧東海道

9:45 毘沙門堂
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ここが京町見付跡だそうです。


2度目の東海道17日目の4(桑名市郊外)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/132925