紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き18日目の4(亀山宿への道)

2度目の東海道18日目の4

6月14日(金)の4


【和泉橋】

昔は、川俣神社の前をまっすぐ進み、平常時は土橋を渡り、増水時は徒歩で渡ったそうです。

今は川俣神社を左に見て川沿いを少し進み、和泉橋を渡ります。


12:20 和泉橋(安楽川)
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川を渡って右折して川沿いの堤防の道を、旧東海道に向かって戻ります。

写真の左奥にこんもりした木が見えますが、その2本の桜を目印に左に曲がります。
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【和泉公民館】

12:27 和泉公民館
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ここでトイレを貸してもらおうかと思ったら、外にはなくて、扉も閉まっていました。

玄関のすぐ右前に、旧和泉橋の柱がありました。
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公民館の敷地内に、地蔵さまがありました。
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【小田町寺院の由来】

12:32 地蔵堂
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12:36 明治天皇御小休所碑
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12:37 地福寺
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地福寺

案内板
「 小田町寺院の由来

鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、

現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。

永禄十一年(1568)、織田信長の戦火に遭い、消失観音堂は 常念仏堂として各誉上人の発願により延宝五年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、

その両翼には後に江戸の鈴木市朗ヱ門が、東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、元禄十二年(1699)、西国三十三所観音菩薩像三十三体を寄進され、

東海道の道すがら多くの人々の立ち 寄りご利益をいただき、また毎月十七日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。
毎年八月十七日は盛大に盆おどりをおこない、近郷より人でも多く現在も賑わっている。

 毘沙門堂は、身丈1m60cmの青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける。七福神の一つとしても信仰を集めている。

 九月二十日の縁日には、昔は踊りもあって賑わっていたと伝えられている。

 堂内には鎌倉時代の作といわれている青面金剛も安置され、その昔庚申さんとして広く庶民の信仰の対象となっていた。

 寺宝として江戸時代初期の二十五菩薩像も伝わっている。

     平成四年十月 」


【10年前の遠い寄り道】

この辺りから、10年前は遠い寄り道をしました。

当時は、せいぜい片道1キロメートル、往復でも2キロぐらいだと思って寄り道したのですが、実際にはその数倍あったみたいです。


10年前のブログ

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日本武尊能褒野墓

2009.01.13.
東海道五十三次 十八日目 加佐登、能褒野の9


旧国道に出て、踏切を渡り、道は左にカーブ。右に並行している国道1号線が見えたので、そっちに曲がってまっすぐ行けば能褒野神社だと思い、寄り道をしたのですが…これが遠い寄り道になりました。

国道を歩道橋で渡り、さらにまっすぐ進み…私はその先1kmぐらいだと思って行ったのですが、この辺りの筈、と思った辺りにはない。

更に進むと国道にぶつかり、来すぎてしまったので戻りましたが…

地図によると、中学のある道の反対側辺りなので、とりあえず曲がって見ました。

その先にバス停があり、バス停の路線図を見ると、多分この先らしい。川崎という地名発見。先日は横須賀がありましたが。

こっちの方、と当たりはつけたものの不安だったため、道端で話し込んでいた二人のおばあさんに、「この近くに能褒野神社はありますか」と聞いてみました。

「能褒野神社なら、真っ直ぐ行って、橋を渡ったら左にあるよ。すぐ分かる」

こうして道はわかったものの、何故にこんなに遠かったのか…

分かりました。能褒野神社は本の地図からはみ出たずっと先だったんです。本の地図には、よく見ると「能褒野神社」の字の横に△マーク。地図からはみ出た△の先にあるよ、という印だったんですね。地図からどれくらいはみ出ていたのか、よく分からないけれど、1キロぐらいと思っていたのに、2倍以上、遠い遠い寄り道になってしまいました。

能褒野神社は昼なお鬱蒼と暗い境内なのに、着いたのは16:27。薄暗くなってきました。
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せっかく来たんだから、ヤマトタケルの墓を見なくては。

日本武尊墓参道」という石柱の先にあるのだろうと当たりをつけて曲がってみましたが、森の外に出てしまいました。
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森に沿って農道を歩いていたら上っていく階段があったので、案内もないけれどとにかく上ってみたら、階段の突き当たりの鉄柵の塀の向こうに白い鳥居があり、その奥の森がヤマトタケルの墓でした。
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神社に書かれていた名称は「能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)」でした。

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当時は、能褒野墓って、「のぼのぼ」って読むのかな?と笑ってましたから、若かったなあ。

10年前の物語。

小碓の命(ヤマトタケル)の熊襲退治
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井田川駅】

12:40 踏切
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12:46 井田川駅でトイレ
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公民館でもトイレを借りられなかったので、井田川駅でトイレに行けて助かりました。


井田川駅とヤマトタケル

井田川駅にあるヤマトタケルの像
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井田川駅 案内板
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ヤマトタケルオトタチバナヒメ


 ヤマトタケル は、『日本書紀』『古事記』に登場する伝説上の人物で、景行天皇 の皇子オウスがその人である。天皇の命により九州や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、伊吹山岐阜県)の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山する。故郷大和国奈良県)へ向かう途中「ノボノ」(亀山市北東部周辺)で亡くなり、陵墓が造られた。ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳 (亀山市田村町)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。
 ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメ 、共に東国へ赴く途中、三浦半島(神奈川県)から房総半島(千葉県)へ渡る海路(走水の海)で荒れ狂う海を鎮めるため、海中に身を投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタケルは東国を離れる際に「吾妻はや」(ああ、我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる。
 なお、このオトタチバナヒメについては、亀山の忍山神社 の祀官オシヤマノスクネの娘であるとの伝承が当地に遺されている。

平成二十四年五月 亀山市北東部まちづくり推進協議会
北東部まちづくり実行委員会 」


国偲歌碑
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国偲歌は、日本武尊が死ぬ間際に故郷を偲んだ歌です。

「大和は国のまほろば たたなづく青垣山隠れる 大和しうるはし」


【思い出の霜の道】

12:52 旧井田川小学校碑
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この道、覚えてる!10年前は霜で滑った、と思い出しました。
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10年前のブログより

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2009.1.14.


井田川着8:00。

道や歩道橋に霜が降りていて、滑らないか心配でした。寧ろ、朝より、少し溶け出した頃が一番滑ったかも。

井田川駅前からは、線路を左に見て、線路沿いを歩いている内に、道が自然に右にカーブし、その先、国道に出るので、歩道橋を渡ります。

渡ってそのまままっすぐ行くと、左に折れる方向に、「法悦供養塔」の道標。
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【ひょうたんと谷口法悦供養燈】

13:01 西信寺
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たまたま見かけたひょうたんが面白かったので写真に撮りました。
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13:10 題目碑・谷口法悦供養塔
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案内板

「 谷口法悦題目塔

この題目塔は、 東海道の川合と和田の境にあり、昔から 『川合のやけ地蔵さん』 『法界塔さん』 と呼ばれている。 総高2.59mで、塔身の正面に 『南無妙法蓮華経』、右側に 『後五百歳中廣宣流布』、左側に 『天長地久國土安穏』、背面に 『施主谷口法悦』 と刻まれている。 造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。

   平成16年9月建之 
亀山市教育委員会


【和田の道標とどら焼き】

13:13 和田の道標
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案内板
亀山市指定有形民俗文化財

和田道標

 元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸 白子 若松道」左側面に「元禄三庚午年正月吉辰 施主渡会益保」と刻まれている。
 東海道分間延絵図(文化年間・19世紀初頭)には「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下より亀山藩領若松港へいたる重要な分岐点であった。
 県内東海道の在銘道標の中で 最も古いものである。

 平成21年3月 亀山市教育委員会


13:18 公民館前で座って、今朝買ったどら焼きを食べました。
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もうお腹がすいたのに、食べるとところがなさそうなので。今朝、非常食用にどらやきを買っておいてよかった!

13:28 石上寺
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【和田の一里塚跡】

13:32 和田の一里塚
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とにかく、インパクトが大きい!

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案内板
「 和田一里塚跡

 野村一里塚 とともに亀山市内に所在する旧東海道 の一里塚で、慶長九年(一六〇四)幕府の命により亀山城 主であった関一政 が築造した。
 かつてはエノキが植えられており、昭和五九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元をしたものである。

 平成十三年十月
 亀山市教育委員会


一枚目の写真に軽トラが写っていますが、東海道ウォーカーにとっては垂涎ものの一里塚跡も、地元の人にとってはいつもの景色のひとつ。

他所のお宅の門前には車を停められないので、むしろとめやすいポイントなのかもしれません。

以前も案内板に箒が立て掛けたあったり、私たちにとっては大事な井戸に、天に濡れたシートや傘を干してあったり。

最初はいい写真が撮れない、と残念に思っていましたが、今は、それはそれで面白い写真だ、と、思うようになりました。

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2度目の東海道18日目の5(亀山宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/30/012118