紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き18日目の1(内部から石薬師宿入口まで)

2度目の東海道18日目の1

6月14日(金)の1

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【幻の平成内部一里塚】

ゆうべは四日市アーバンホテルに泊まりました。

5:30 起床

6:30 朝食

あすなろう四日市8:14発

車両の窓に、車掌さん?のキャラクター。
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8:31 内部着

ホテルを出たときは晴れていましたが、風が吹いて今にも降りだしそうになってきたので、帽子はしまいました。

8:40 内部橋
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内部橋トレースと呼ばれる、橋の下をくぐっていくコースを、案内に従って歩きました。

広場のようなところがあるなあ、と思ったけれど、「東海道」の道標を見つけて先に進んでしまい、広場の写真も撮らなかったのですが、実はその広場に、平成の内部一里塚があったそうで、しまった!見逃した!


橋をくぐり、国道1号線の左側にでます。
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マックスバリュー釆女店の横を斜めに入ります。


【杖衝坂への道】

マックスバリューを過ぎた裏道は、クランク状に進みます。
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8:53 杖衝坂への道
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8:54 金刀比羅宮
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これからいよいよ急な上り坂に入ります。

杖衝坂への上り坂は写真のような、タコの吸盤みたいな滑り止めのある坂です。
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こどもたちの通っていた幼稚園では「たこたこ坂」と呼んでいましたが、正式名称ではないようです。)

かなりの急坂だからの滑り止めであり、また、冬季の凍結時の滑り止めでもあるようです。

8:55 まちかど博物館
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朝早いせいなのか、閉まっていました。

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【杖衝坂 ヤマトタケル芭蕉

8:56 史蹟 杖衝坂の碑
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10年前のブログ

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2009.2.17.

内部(うつべ)川を渡ると、いよいよ急坂の杖衝坂(つえつきざか)。

杖衝坂(つえつきざか)は、三重県名の由来にもなった「ヤマトタケル」の故事がある急坂。

ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山 の神との戦いで病に倒れ、弱った体で「大和」帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、

『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)

    • 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた -- 『 古事記

と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれます。

前にも書きましたが、私の卒業論文は「『古事記』倭健命物語の文学性」でした。

東海道には、権太坂や強飯坂など、数々急坂がありました。

その中では、中級でしょうか。やや急な勾配の坂です。

杖衝坂の途中に、「杖衝坂の碑」と「芭蕉の句碑」があります。

芭蕉が坂道で落馬した場所。

「徒歩ならば杖つき坂で落馬かな」

芭蕉の句では珍しく季語がなく、落馬のショックを表しているのかな。

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芭蕉の句碑
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「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

案内石碑
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芭蕉の句碑について

 俳聖 松尾芭蕉が貞享4年(一六八七)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。

宝暦六年(一七五六)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。
明治の初期、坂の下釆女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。

昭和五十一年三月吉日 」

笈の小文』より

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 「桑名より食はで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。  

歩行ならば杖つき坂を落馬哉(かちならば つえつきさかを らくばかな)

と、物うさのあまり云出侍れ共、終に季のことばいらず。

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たこたこ坂の絵手紙は、10年前のブログ用に描いたものです。


【二つの井戸】

史蹟杖衝坂の一角には、井戸が2つあります。

写真の右後ろの方に白い看板が見えますが、
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その看板にはこのように書いてあります。


案内板
「 杖衝坂と血塚、二つの井戸

 東海道 の中でも急坂な所で、杖突坂とも書く。倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰途、大変疲れられ『其地(そこ)より、やや少し幸行(いで)ますに甚(いた)く疲れませるに因(よ)りて、御杖を衝(つ)きて、梢(やや)歩みたまひき、故(かれ 、)其地(そこ)を号(なづ)けて杖衝坂と謂(い)ふ』(『古事記』)とあり、杖衝坂と称されるようになった。
元禄元年(一六八八)芭蕉が旅の途中、馬に乗ってこの坂を越えようとして、あまりの急坂に落馬して詠んだ句『歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな』により、更にその名が世に広まった。また、坂を上りきった所には、倭建命の足の出血を封じたといわれる血塚の祠がある。
 杖衝坂にある二つの井戸は、坂の上手を『弘法の井戸』、下手のものを『大日の井戸』といい、前者は弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられている。後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず・仏に供える水)をくみ上げた井戸と伝承され、二つの井戸は大切に守られている。」

「大日の井戸」
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「弘法の井戸」
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この碑群や井戸は坂の途中にあり、まだ上り坂は続きます。

日本武尊御血塚社と釆女一里塚跡】


9:00 日本武尊御血塚社
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日本伝承大鑑より

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日本武尊御血塚社
【やまとたけるのみことおちづかしゃ】

伊吹山で山の神を侮ったために病に倒れた日本武尊は、養生しつつも疲れ切った身体で、大和国を目指して歩を進めていた。やがて伊勢国に入ると、急な坂にさしかかり、杖を突きながら登り切った。この時、日本武尊は「吾が足は三重の勾がりの如くして、はなはだ疲れたり(私の足は三重に折れ曲がったようになって、非常に疲れた)」と言ったという。

この坂は後に「杖衝坂」と呼ばれ、旧東海道でも有名な急坂として知られるようになった。そしてこの近辺は日本武尊の言葉から「三重郡」と呼ばれることとなり、現在の三重県の由来となっている。

そして杖衝坂を登り切ったところに御血塚社がある。衰弱した身体で坂の上に辿り着いた日本武尊が、足下を見ると出血していたので、この場所で血を洗い落として止血したとされる。

<用語解説>
日本武尊
第12代景行天皇の第二皇子。熊襲・出雲を制圧した後、東征をおこなう。東征後に尾張国に戻ると、伊吹山の神を退治に行くが昏倒。その後回復するが衰弱が激しく、大和国へ帰還する途中、能褒野で亡くなったとされる。
古事記』では、伊吹山から帰還する途上の様子を描き、各地の地名の由来となるエピソードを記している。杖衝坂もその中に1つである。なお『古事記』の記述では、「三重」のエピソードはこの坂とは異なる場所のように書かれているが、伝承としてはセットとして流布している。

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9:04 釆女一里塚跡
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案内板
東海道一〇一番目の釆女一里塚跡

東海道と国道一号線が交差するこのあたりには、江戸から一〇一番目の『釆女の一里塚』があったといわれている。
江戸幕府は慶長六年(一六〇一)に伝馬の制をさだめて各街道に宿駅を置き、慶長九年(一六〇四)には東海道などの道幅を五間とし、道中の目印として一里毎に高さ約三m、幅約九m四方の塚を設けて榎や松を植えた。
江戸日本橋を起点に京都三条大橋まで一二六里、間には一二四の一里塚が置かれた。釆女一里塚は一〇一番目にあたり、松の木が植えられていたことが天保の頃幕府が作成した『東海道宿村大概帳』に記されている。
四日市市内には四ヵ所の一里塚が築かれていたがいずれも残っておらず、跡地には石碑が立てられている。なお、一〇五番目の亀山市野村一里塚は現在も形が残り、国指定の史跡となっている。
釆女一里塚は、戦後しばらくは土盛りした上に木柱が建っていたが、昭和三十年代から四十年代にかけて行われた国道一号線の拡幅工事で姿を消した。その後、昭和六十二年(一九八七)、『郷土の文化遺産を後世に残そう』という地元釆女町の取り組みに、地元企業が協力して敷地と費用を提供し、国道一号線を鋏んだ反対側、約一〇〇m西のガソリンスタンド旁に石碑が建てられている。 」


釆女町の地名由来について

三重県HP 歴史情報蔵より

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現在、四日市市采女(うねめ)町という地名があります。ここは古くから「采女郷」という名で知られていますが、「采女」とは、古代、朝廷に仕え主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官のことです。その多くは地方豪族の娘たちでした。地方豪族は、朝廷への服従の証拠として自分の娘を采女として、差し出したのです。
 采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあり、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれません。

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9:10 豊富稲荷神社
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この神社の向かい側辺りに、釆女一里塚の石碑があるそうですが、国道1号線が渡れそうもなくて、見ることは出来ませんでした。

釆女一里塚跡の案内板が立っていた辺りからトイレに行きたかったのですが、

9:19 ファミリーマートに入り、トイレを借りました。水と、非常食としてどら焼きを買いました。


延命地蔵尊と単直庵】

9:20 旧道痕跡
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ガイド本には、旧道痕跡があるのは、生川運送と書いてあるのに、この辺りのはずなんだけど、と思ったら、NARUGAWAという会社が生川運送で、本に書いてある通りでした。

9:32 国分町交差点
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鈴鹿市に、入りました。

この交差点から左側の旧道に入ります。


9:33 延命地蔵尊(写真の、向かって右の小さいお堂)、単直庵(写真の、向かって左の大きいお堂)
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延命地蔵尊を過ぎた辺りから雨が降り始め、傘を出しました。


【失われた道の歩き方】


9:43 道順説明板
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鈴鹿市観光まちづくり委員会が設置した、東海道の道順の看板がありました。

昔の道は失われているので、看板の赤い線のように歩いてくださいとのこと。

写真に撮って、見ながら行きました。見ながらといっても、雨が降っていて傘を差しているので、スマホは鞄にしまって、時々出して見る感じです。

木田町交差点は地下道で国道1号線を渡りました。

浪瀬川を渡り、

9:48 右斜めへ
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2度目の東海道18日目の2(石薬師宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/29/055417