2度目の東海道17日目の7
6月13日(木)の7
【三滝橋】
13:53 法泉寺
13:59 三滝橋を渡ります。
三滝橋には、七夕祭りの山車が描かれていました。
牽牛
織女
三滝橋は三重川に架かる橋。
広重が描いた四日市宿の絵は、三重川の風の強い日の様子です。
左手前は土橋、右は木の橋。風に笠を飛ばされた旅人。左奥には家々と、帆を下ろした舟の帆柱が見えます。川には葦でしょうか。植物も生えています。
この絵をモデルに、私も絵手紙を描きました。
こちらは現代の三滝橋です。
【なが餅の笹井屋】
14:02 笹井屋本店
なが餅の笹井屋
なが餅の歴史 なが餅の笹井屋HPより
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天文十九年(1550年)戦国時代の頃、街道をにぎわす評判の銘菓がありました。
「なが餅」と呼ばれるその名物餅は、初代彦兵衛氏がここ勢州日永の里に因んで創りました。
三十六万石の太守、藤堂高虎も足軽の頃、永餅の美味しさに感動し、武運のながき餅を食うは
幸先よしと大いに喜びました。
名称も日永(ひなが)の餅、長餅、笹餅、などと称せられ、「なが餅」の今日に至っています。
さらりとした小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし両面を焼香ばしく焼き上げました。
永い年月の間、多くの人々に愛された素朴な味わいです。
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今回はなが餅は買いませんでしたが、10年前は買いました。
10年前のブログ
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なが餅
2009.2.17.
広重の「四日市」に描かれた「三滝橋」を渡ると、左手に名物「なが餅」を売る笹井屋がありました。
なが餅は、つぶ餡の入った細長く平らな焼き餅。
長いから「長餅」ではなく、地名から来た名前なんだそうです。
四日市の日永で食べられているから「永餅」(笹井屋)。
その他に、桑名の安永名物「安永餅」。鈴鹿市神戸(かんべ)は「立石餅」というそうです。
また、四日市市の金城軒の太白永餅も美味しいそうです。
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四日市市には、緑の旗があちこち立っていました。
去年、ちょっと有名になった、こにゅうどうくん。こにゅうどうくんのことは、後でまた書きます。
14:04 問屋場跡
ここは東海道四日市宿です。
この場所には『問屋場』がありました。
四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。
幕府直轄の天領であり、代官所(現:中部西小学校)が置かれていました。 」
えっ、東海道五十七次?
そう言えば、ここに来るまでのどこかで、
「最近は、東海道は京都で終わりではなく、大阪までの五十七次あった、という説があって、そこを歩く人も増えているようですよ。」
と教えてもらいましたっけ。
産経ニュースより
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東海道は実は「五十七次」あった…最終地「守口宿」が今年で400年 新名物も登場
2016.4.20 07:53
「 東海道五十三次」ではなくて、実は「五十七次」あった-。東海道最後の57番目の宿場町があったとされる「守口宿」(守口市)が400年の節目を迎えるのを機に、地元の市民団体が地域活性化に力を入れている。街道近くの商店街では、当時の旅人が食べた「にぎりめし」をイメージした弁当を開発した。今秋には街道イベントを計画して、知名度アップを図るという。
東海道は江戸と京都を結ぶ主要ルートとして徳川家康が慶長6(1601)年に定めた。途中には公用の人や物資、通信物などを次の宿まで運ぶ「宿駅」を置き、当初は四十数駅があったとされる。その後、大坂城の再建を始めた2代将軍・徳川秀忠が、豊臣秀吉の制定した京街道(京都~大坂)を加え、新たに4つの宿駅を置いた。
昨年に草津宿街道交流館(滋賀県草津市)が実施した宿場町の人気投票「TKD( とうかいどう)57総選挙」では4位に入るなど、“東海道の本当に最後の宿”として知名度を上げている守口宿。
11月には東海道五十七次や守口宿をテーマにした歴史イベントを計画中で、同協議会の加藤忠広事務局長は「地元の人が守口宿を『わが町の誇り』と思ってもらえる仕掛けづくりをしていきたい。街道沿いの地域の盛り上がりによって、東海道や宿場町の価値を高め、いつか『東海道五十七次』として世界遺産登録も狙えれば」と大きな夢を語っている。
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14:08 「すぐ江戸道」の道標
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四日市は浜田城の城下町で湊もあって賑わった。そして毎月四の付く日に市が開かれたところから四日市の名前がついた。
指差し道標
街道沿いに珍しい道標がある。文化7年(1810)に建立された道標だが、「すぐ江戸道」片面に「すぐ京いせ道」と刻まれている。
道筋を示すのは、指差した手の形をした浮彫りで、ユーモラスな形で近代的なデザインとも見える。
「すぐ」の意味は「真っ直ぐ」のことである。
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すぐ江戸道 kitaise.my.cookan.jpより
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(右指さし)京いせ道(左指さし)えどみち
すぐ京いせ道
文化七庚午冬十二月建
(四日市市中部)
東海道、札の辻を南へ。中部6の四つ辻に立つ。
108.の道標が、戦災で損傷したのを惜しんで、昭和28年(1943)頃に地元の人、大西清之助が稲葉町の永田石材店でこしらえた複製道標である。(『四日市市史研究・すぐ江戸道の札の辻』より)
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つまり、文化七年と書いてあるけれど、それは失われてしまったため、石材店が作ったレプリカらしいです。
この先、車通りの多い道に出ますが、この当たりで本来の東海道は失われてしまったそうで、とりあえず、右の方向にある諏訪神社を目指して歩きました。
14:13 諏訪神社
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諏訪神社(すわじんじゃ)は三重県四日市市にある神社である。地元の人々から「おすわさん」と呼ばれる、四日市の産土神。四日市祭で知られる。東海道(現・国道1号)沿いに位置する。
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参道がスワ栄商店街で、そこが旧東海道です。
【屋根のある東海道】
14:14 スワ栄アーケード
屋根のある東海道、スワ栄アーケードは、10年前に来た時はもっと賑やかだったのに、ほぼシャッター街。木曜定休の店が多いのか、夕方から夜に営業する店が多いのか、単純にシャッター街になってしまったのか。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。
出来れば10年前にこのアーケード内にあったインドネパール料理の店が美味しかったので、そこでまた食べたかったのですが、もうなくなっちゃったのかな?見つかりませんでした。
でも、もう14時を回っていて、おなかがすいたので、この商店街で店を見つけたい。
【大入道、こにゅうどうくん、四日市の名物】
スワ栄アーケードで、大入道と、こにゅうどうくんに遭遇。
「こにゅうどうくんのお部屋」より
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こにゅうどうくん
誕生日 1997年8月1日
年齢 (永遠)の6歳
性別 男の子
好物 とんてき、そうめん、鍋料理
趣味 人をびっくりさせること
宝物 かぶせ茶、大入道、日永うちわ、
コンビナート夜景
こにゅうどうくんCheck!ポイント
市制100周年の記念の年に生まれたマスコットキャラクターで、名前は公募で決まりました。
現在では、広く市民に親しまれる存在で、各種イベントなどで活躍中です。
お父さんは、大四日市まつりの名物「大入道(おにゅうどう)※」、身の丈4.5m、首の長さ2.7m、1.8mの台座(山車)の上に立つ姿は、全高9.0mで、日本一大きなからくり人形です。
お父さんの「大入道」みたいに、首を伸ばしたり、目玉をぎょろぎょろしたりはできないけど、「こにゅうどうくん」のべ~っと伸びる長い舌を、「伸ばしたい」ことを願いながら触ると、願い事がかなうと言われています。
江戸時代後期、旧桶の町(おけのまち 現在の中納屋町)で、人を化かしていたずらをするタヌキを懲らしめるために作ったのが始まりで、タヌキと化かしあいをするうちにだんだん大きくなっていったと言われています。
現在の大入道は、明治初期に作られ、戦災からも焼失を免れたものです。
中納屋町大入道保存会により継承され、毎年8月の第1土・日曜日に開催される「大四日市まつり」などに登場します。銅鑼や太鼓のリズムに合わせて、両腕を大きく振り、長く伸ばした首が一気に倒れる迫力のある動きや、舌を出して目をむき、眉毛を動かすおもしろい表情などは、保存会の人形師8人が息を合わせて人力で動かしています。
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こにゅうどうくんのプロフィールは、さすが、四日市のユルキャラだけあって、四日市ならではの物がたくさん出てくるので、調べました。
まずは好物のとんてき
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四日市とんてき(よっかいちとんてき)は、三重県四日市市の名物料理として知られる豚肉のステーキ(=とんてき)である。
歴史
第2次世界大戦後の昭和戦後期にとんてき料理が始まったものとされている。発祥は四日市市内の中華料理店「來來憲」(らいらいけん)である。とんてきは同店の看板メニューであったが、当時は四日市名物と言える程には普及していなかった。
2005年(平成17年)秋に四日市市職員の研修会で、豚肉のステーキに光を当てようと四日市大学の小林慶太郎准教授が発案したことが、ご当地グルメとしてPRしていくきっかけとなった。
2008年(平成20年)には「四日市とんてき協会」を設立し、とんてきマップを作成するなどして本格的な広報活動を開始した。
2010年(平成22年)4月に正会員として愛Bリーグに認められ、同年9月のB-1グランプリに三重県から初参加している。同年6月には任意団体から一般社団法人として登録、法人格を取得している。
同協会はこの料理を四日市名物として四日市市を売り込むツールにしていきたいとしている。
2013年(平成25年)11月に愛知県豊川市で開催された「B−1グランプリin豊川大会」では10位に入賞している。
特徴
味付けや肉質は各店舗によって異なるが、四日市とんてき協会は「四日市のとんてき」を次のように定義している。
・黒っぽい濃い味のソース
・厚切りの豚ロース肉を使用
・ニンニクが添えられている
・千切りキャベツの付け合わせ
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2013年のB-1グランプリin豊川は、私も食べに行きました!
次に気になるのが、かぶせ茶。
マルシゲ清水製茶HPより
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かぶせ茶とは
かぶせ茶は刈り採る新芽に14日間黒い覆いをかぶせて育てたお茶です。
黒い覆いをかぶせることによって、渋味成分が抑えられ甘味たっぷり、
まろやかな高級な味に仕上がります。
そのため、渋いお茶が苦手な方や、お子様でも飲みやすいと
嬉しいお言葉をいただいています。
三重県はお茶の生産量全国第3位、かぶせ茶では全国1位です。
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次は、日永うちわ
三重県総合博物館HPより
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日永うちわ
日永うちわは、現在の四日市市日永、旧東海道の「日永の追分」の周辺で作られていたことから、この地域の名前がつけられました。
日永うちわの起源は、よくわかっていませんが、旧東海道を往来する人たちや伊勢参りのお土産としていたことが『勢陽五鈴遺響』や『伊勢参宮名所図会』にかかれていて、東海道・日永宿の土産物として発達してきたことを知ることができます。
日永うちわの製作は、日永地域周辺の水沢(すいざわ)や川島、鎌ヶ岳地域の女竹(めだけ)を中心に丸竹の節を上下20センチぐらいに切り落とすことから始まります。この竹は、3年物が作業に適しているとされ、1昼夜、水につけて、翌日、64本に割っていきます。この時、竹の性格を考えて根元のほうをうちわの骨になるようにしています。そのあと、糸で上下に等間隔に編んで、うちわの形をつくって、紙を貼ります。紙は、美濃紙(みのがみ ) を使います。柄や模様は、木版画の手法で刷られた美人画や富士山、伊勢神宮などが使われます。最近は、新しい視点から伊勢型紙の技法をつかった透かし絵や松阪木綿などをつかって人気を博しています。
日永うちわの製造業者は、明治時代には10軒ぐらいありました。しかし、現在は株式会社 稲藤の1社だけとなってしまいましたが、伝統的な日永うちわの製造技術を守り、伝えています。ただ、紙を貼るなどの一部の行程をするのみで、骨をつくる行程や材料の竹をとるなどは、四国・丸亀や千葉房総などでしています。
日永うちわは、三重県の伝統的工芸品に指定されています。その特徴は、女竹の丸竹を使い、骨と柄が一体となった丈夫なつくりで、柔らかな風がでることとされています。県内では、伊勢でうちわ生産が行われていますが、伊勢は男竹(おだけ)を使っていることが特徴です。また、「津なすびうちわ」「松阪のうちわ」などほかの地域でもつくられていましたが、現在では見られなくなってしまいました。(FG)
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それから、コンビナート夜景
LINEトラベルより
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四日市といえば日本の工場夜景の中でも聖地と呼ばれるほど幻想的な光景として有名。
日本の5大工場夜景は、室蘭、川崎、四日市、北九州、山口の周南の5ヶ所と言われていますが、四日市工場夜景はその中でもトップクラスの迫力があると言われています。
規模も大きく見どころも多い四日市の工場夜景(以下略)
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とんてき、かぶせ茶、日永うちわ、聖地四日市コンビナート夜景。勉強になりました。
ええと、私が住む町に、こんなにPR出来るものがあるだろうか。
海と光と風の街
太陽が生まれたハーフマイルビーチ
魚が美味しい。
神奈川県最大規模の前方後円墳がある。
うん、そんなもんで十分です。
大入道(おにゅうどう)は「 人を化かしていたずらをするタヌキを懲らしめるために作ったのが始まりで、タヌキと化かしあいをするうちにだんだん大きくなっていったと言われています。 」って、面白いですね。
【麺屋こころ×台湾まぜそば】
14:24 麺屋こころ
スワ栄アーケード内で、ラーメン屋?さんらしき見瀬がありました。麺やこころ×麺やはなび と書いてあります。どういうことかな?
今年、オープンしたラーメン屋さんのようです。(関東にも店があるのに、知りませんでした。)
台湾まぜそば で有名な「麺屋はなび」とコラボしているとのこと。
「麺屋はなび」は台湾まぜそば 発祥の店ということで元祖台湾まぜそば を名乗っていますが、
こちら「麺屋こころ」のウェブサイトには本家台湾まぜそば と謳っているので、元祖と本家のコラボ?
券売機で台湾まぜそばと、鶏の唐揚げを購入。ニンニクを入れるか聞かれました。
台湾まぜそばは、ニンニクを入れるのが当たり前らしいのですが、私は入れないでもらいました。
まずは鶏の唐揚げが来ました。
美味しい!生ビール飲みたい!でも、まだ歩くのでダメダメ。
台湾まぜそば、来ました。麺の上に、ニラ、ネギ、海苔、魚粉、挽き肉、卵黄が載っています。卵黄が食欲をそそります。魚粉の香りもいいなあ。
ただ、魚粉は、口の中が乾くので、これまた生ビールが飲みたくなる。
辛さは、中の上、我慢できる辛さ。
追い飯を少量お願いしました。
ああ、生ビール飲めるときに、また来たい。
【連子格子と東海道ミニ道標】
スワ栄アーケードを出て、大きな道を渡りました。
写真のような、連子格子の雰囲気ある家が時々見られます。
木製の小さな看板のような「東海道」の道標も、格子にマッチしています。
【大宮新明社の茅の輪くぐり】
15:11 鹿化(かばけ)川
15:23 大宮神明社
案内板
「 大宮神明社
当社は永宮(ながみや)さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。
昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海であって、その海辺に舟付(ふなつき)明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命が天照御大神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)近くに遷ってきたのがこのお社である。
例祭は十月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。
本殿の右側には大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りする摂社二柱大神社(せっしゃふたはしらおおかみしゃ センキさんとも言う)があり、病気を治す神様として有名である。
六月三十日には名護志大祓(なごしのおおはらい)があり、一般には『輪くぐり』といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。 」
この神社は名護志大祓(なごしのおおはらい)の茅の輪くぐりが有名なんですね。
15:20 日永山興正寺
案内板
「 日永山興正寺
当山は浄土真宗高田派で創建は貞観六年(八六四)と言われている。登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(一二三四)親鸞聖人が当寺に立ち寄られたときに浄土真宗に改宗した。
その後二百年ぐらいして、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ高田派となった。天文十三年(一五四四)本山第十二世堯慧上人は、当寺で『日永千部』という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。
天正二年(一五七四)、現在地に移る。
堯慧上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益興正寺に対して出した『日永興正寺四至傍至の事』という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内『禁制状』などを有している。また、徳川家もこの寺を保護するよう配慮した。
天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が濠のようにしたと言うことで、この堤を昔の人は、滝川堤とも言った。 」
以前は違う宗派のお寺であったのが、親鸞聖人がいらした、などで浄土真宗に改宗したお寺は多いです。
親鸞の教えはカリスマ的ですからね。それまで厳しかった仏教の教えが、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、よしとされたのですから、分かりやすいです。
【つんつく踊り】
15:23 林光山両聖寺
林光山両聖寺
天白橋を渡って先に進むと、右手に浄土宗の林光山両聖寺があります。
両聖寺は、昔、天台宗林光山西教院と称していましたが、 宝治2年(1248)に記主良忠禅師の布教により浄土宗に改宗しました。
お盆には寺の境内で市の無形文化財の 「つんつく踊り」 が披露されます。つんつく踊りは、天白川の堤防を築く(つんつく)ために村人が参加したときの踊りが始まりといわれています。
つんつく踊り
案内板
「 四日市市指定無形民俗文化財
つんつく踊り
昭和三十一年二月十八日指定
司馬江漢(しばこうかん)が『誠に田舎の踊りなり』(文化十二年[一八一五]刊行『西遊旅譚』)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛で囃しに合わせて円陣を作っていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りです。
その起源は、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたものともいわれているが、定かではない。
大正時代末頃までは、八月十四日から十七日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日とも唄う唄が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって八月第二土曜・日曜日に両聖寺境内で催されるのみとなり、両日ともに同じ歌が歌われている。
この説明板の補修には四日市市文化振興基金が活用されています。 」
写真は、来年2020年のつんつく踊りの、踊り手、お囃し(笛、太鼓)、歌い手を募集するポスターです。
この辺りで、地元の、日傘の上品なご婦人から、この近辺のマップをいただきました。
【日永神社、薬師寺、西唱寺のボダイジュ】
15:29 日永神社
案内板
「 日永神社
(前半は抜粋)
当社は天照大神を祀る。
江戸時代には神戸藩主本多家からの崇敬も篤く、また、東海道に面して大久野島人びとが参拝された。
以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められたと言い伝えられているが、その木は今はない。
なお、正面の道標右側に立つ道標は、もと追分の神遙拝鳥居の場所にあったもので、明歴二年(一六五六)に僧侶によって立てられた東海道最古の道標である」
日永神社境内の道標(市指定文化財)
正面「大神宮 いせおいわけ」
右側面「京」
左側面「山田」
裏面「明暦二丙申(ひのえさる)三月吉日南無阿弥陀仏 専心」
四日市市HPより
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現在は日永神社境内に建てられていますが、もとは東海道と伊勢街道(参宮街道)の分岐点である日永の追分に、明暦2年(1656)3月市内川原町の宝光山佛性院の開基である専心によって建てられたものです。
この道標は、現存する道標の中では全国で5番目、三重県内では2番目に古く、東海道のものとしては最古のものです。また、造立時期は信仰と結びつく古い形式の道標から、行き先や里数を刻む一般的な道標への移行期にあたっていますが、その時期に僧侶によって建てられ、六字名号(南無阿弥陀仏)を刻むなど、仏教信仰との関係が認められます。
なお、地上部分の形状は、正四角柱の頭部を正四角錘に成形したものです。
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15:29 長命山薬師堂
日永 薬師如来座像
四日市市HPより
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市指定有形文化財(彫刻)
所有者 薬師堂(日永4丁目)
像高87.5cm
材質・形状 木造 彫眼
製作年代 鎌倉時代中期
指定年月日 昭和31年2月18日
解説
左手に薬壺を載せ、右手を施無畏印(せむいいん)に表し、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢をとります。檜の寄木造で肉身を金箔押、衣を黒色に染めていますがこれらは後世に施したものと考えられます。地髪部の角ばった形や引き締まった顔、体の肉付けなどから鎌倉時代中期の制作とされます。もと伊勢安国寺(あんこくじ)の像で、安国寺の炎上の際、近隣の実蓮寺に移り、やがて現在地に安置されたと伝えられています。像内の墨書銘などから4度にわたる修理を受けていることが明らかになりました。数々の修理を経ながら700年以上もの間、人々に守られてきた貴重な仏像です。
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15:33 西唱寺
西唱寺は空襲で寺の半分が焼けましたが、境内の全面的な菩提樹が焼け残ったという、タウン誌の文章を見つけました。
よっかいちタウン誌 YOU より
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【 あれから73年 戦時の記憶】全焼免れた木 日永・西唱寺のボダイジュ
2018年8月15日
庭にたくさんの草木が育ち、四季折々の花が咲き誇る西唱寺(四日市日永4)の本堂前には、樹齢約150年と伝わるボダイジュがある。多くの命が失われた1945年6月の「四日市空襲」では本堂や書院が全焼してしまったが、この木は半分は焼けたが全焼は免れたという。
終戦間近に生まれた中川法雄住職(72)が両親らから聞いた話によれば、南方から飛んできた爆撃機が焼夷弾を落とし、本堂や庫裏、太子堂、書院などが焼き払われた。寺宝や古文書なども焼失し、戦後に「以前見せてもらった太刀を見せてほしい」と尋ねてきた研究者が戦火で焼失したことを知り、残念がっていたこともあったそうだ。
空襲を受けた際は、東から「台風のような強風」が吹いたが、風向きに助けられたのか、鐘楼や門も延焼を免れた。寺の周囲には田んぼが広がっていたが、焼夷弾が落ちて大きな穴が開き、池のように水が貯まっていた記憶がある。また物資不足のため寺の鐘も供出していた。
ボダイジュは毎年、5月下旬から6月ごろに花を咲かせ、その後実を付ける。「今年も花が咲き、実もなりました」。中川さんは、物心ついたころから見てきた木を見つめながらつぶやいた。
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【日永一里塚跡と名残の一本松】
15:34 日永(ひなが)一里塚跡
案内板
「 三重県指定記念物(史跡)
日永一里塚跡
昭和十三年四月十二日指定
昭和二十七年七月九日所在変更
一里塚 は、江戸時代に整備された街道において約一里(約四km)ごとに設けられた塚で、市内には東海道 筋に四カ所築かれた。文化三年(一八〇六)の『東海道分間延絵図』にも、富田・三ツ谷・日永・采女の一里塚がそれぞれ描かれている。
日永一里塚跡は当初、天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。しかし、その後の考証により、日永五丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。
この日永一里塚は、もとは五m四方で高さ二・五mの塚が東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが、明治二年(一八六九)に伐採され、塚もその姿を消した。
15:39 名残の一本松
案内板
「 東海道名残りの一本松
むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道 の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。
その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない。
縄手の道幅は、土手も入れて約五間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は三間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。 」
東海道を歩いていて、松は松食い虫の害があったり、残るのが難しいことがわかりました。貴重な松、みんなで大切にしたいですね。
【日永資料館の絵】
15:51 泊の東海道日永資料館
こんなところに資料館があるとは知らず、写真に撮った絵が面白いので、後でよく写真を見てみたら、入り口付近に資料館と書いてあってびっくり。
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平成25年11月3日、四日市市日永地区の東海道沿い、“日永の追分”に程近い泊町に「東海道日永郷土資料館」が開館しました。この資料館は、郷土の歴史・民俗・文化を学んでいただくとともに、後世に継承していくため、日永郷土史研究会を中心に準備委員会を組織し、土蔵付きの商家の建物をお借りして整備を進めてきたものです。館内には、「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を、古代から昭和30年代ごろまで時代別、テーマごとに展示しています。
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通り掛かりに気になって撮った絵の写真、日永や、近辺の名物が描かれています。この絵の解説は見つけられなかったので、私が見つけた物を書き出して見ますが、見落としているものもあるかもしれません。
・広重の四日市(三重川の橋)
・梅まつり
・茅の輪くぐり(大宮神明社)
・つんつく踊り(大きく描かれている縞模様の着物の人は、つんつく踊りをしています。)
・日永うちわ
・日永足袋
・道標(日永神社にある、東海道を最古の道標)
・一本松
・日永一里塚
・なが餅
・追分けの鳥居
【日永追分】
15:53 追分交差点
伊勢参宮道と東海道の分岐です。
15:53 日永追分
日永追分 四日市市HPより
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日永の追分
県指定記念物(史跡)
所在地 追分三丁目
指定年月日 昭和13年4月12日
解説
追分とは道が二つに分かれるところで、日永の追分は、江戸と京を結ぶ東海道と伊勢に向かう伊勢街道との分岐点にあたります。日永の追分の鳥居は桑名の七里の渡しに建てられた一の鳥居に対して二の鳥居と呼ばれました。四日市を描いた浮世絵には、この鳥居を中心にした追分の風景が数多く描かれています。鳥居は、安永三年(1774)に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初です。その後たびたび建替えが行われ、先代のものは昭和四十八年(1973)の伊勢神宮式年遷宮の際に、伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建(昭和50年)したもので九代目にあたりますが、平成28年10月に同じく伊雑宮の鳥居を移建して建替えられました。当初は伊勢街道をまたぐように建 てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居を くぐらずに進めるようになり、また、先の移建時に周りが公園化されました。
現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。道標は、明暦二年(1656)に建てられたものが、現在日永神社に移されています。それには「京」「山田」「南無阿弥陀仏 専心」「明暦二丙申三月吉日」とあり、現存する東海道の道標としてはもっとも古いもので、川原町の仏性院の開基専心によって建てられたことが知られています。
日永は、四日市宿と石薬師宿の間に立つことから間の宿とよばれ、周辺には多くの旅籠や茶店などが並んでいましたが、追分は日永の飛地で東海道中膝栗毛に登場する鍵屋をはじめとして浅草屋や野口屋等の旅籠や茶屋、綿屋という両替商もありました。
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15:58 近鉄内部線泊7号踏切
この踏切渡り、その先の分岐へと進みます。
ちなみに、踏切の右側を渡ったのですが、その先の分岐は左側なので、広い道を左に渡るのは、時間帯によっては大変かもしれません。私はたまたま車通りが少なく、すぐに左に渡れました。
【小古曽神社、観音寺】
16:10 小古曽神社入り口
小許曽神社 buccyake.kojiki.comより
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小許曽神社(おごぞじんじゃ)は、三重県四日市市小古曽にある神社。四日市あすなろう鉄道内部線の小古曽駅の北西約300メートル。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「小許曾神社(伊勢国・三重郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。旧小古曽村に鎮座した社。その地へ神明が勧請され、やがて両社が「五社神明」と呼ばれた。五社神明は、「西宮三座、東宮二座」だったという。
このうち、西宮三座が式内の当社、東宮二座が神明とされたようだ。明治期の神社明細帳では、当社の氏子数は89戸、神明社が54戸とある。
古老の伝によれば、この2社ごとに当屋制の祭祀組織により祭礼が行なわれてきた。現在でも特殊神事として、粥試(かゆだめし)がある。
明治元年(1868年)9月24日、明治天皇の東巡に際して、奉幣があった。村社に列し、明治39年(1906年)12月、神饌幣帛料供進社に指定された。
明治40年(1907年)、境内社の米田神社など、15社を合祀した。主祭神は、大日霊貴尊・天宇受売命・布刀玉命・豊宇気毘売神。天児屋根命を合祀している。
当社のもともとの主祭神が天宇受売命・布刀玉命、神明が大日霊貴尊・豊宇気毘売神だろうか。
例祭は10月第1日曜日。祈年祭が3月第1日曜日に、新嘗祭が11月23日に行われる。以上とは別に、下記のような社を合併したようだ。
・主祭神を大雀命、合祀神を五男三女神とするもの
・主祭神を水分神・大山祇命・建速須佐男命、合祀神を菅原道真とするもの
・主祭神を大綿津見命、合祀神を品陀和気命とするもの
なお、平成28年(2016年)11月13日、当社を解説した冊子「延喜式内 小許曽神社」(A4版、32ページ)が発刊された。
【ご利益】
地域安全、産業振興、事業成功、開運招福
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16:10 観音寺
観音寺の歴史
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弘仁6年(815年)、最澄が聖徳太子自作の薬師如来を安置し、堂宇を建立したのが始まりと伝わる。
延長 6年(928年)延暦寺中興良源の大乗受戒に際し、伊勢国朝明郡の領主船木良見の援助により、垂坂の地に伽藍を建立した。寺域の規模は、現在の観音寺が奥の院にあたり、東西南北におよそ2 kmにもおよぶ壮大なものであり、境内には54の坊や院があり、伊勢天台別院として栄えたと伝わるが、天正3年(1575年)8月、織田信長の軍勢に攻められ焼失している。 元禄4年(1691年)桑名藩主松平定重が、郡代野村増右衛門を奉行として再興されたもので、現在の本堂は昭和に新しく建てられているが、山門や鐘楼は往時の姿を今に伝えているという。明治6年(1873年)に一度廃寺となるが、明治16年(1883年)に復興されて現在に至る。
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16:11 この辺り、クランク状に進みます。
16:19 小古曽六丁目交差点
16:20 あすなろう鉄道内部(うつべ)駅
本日の終点です。
以前は関鉄が運営していた路線ですが、近鉄が鉄道を廃止し、バス専用道路によるバス高速輸送システムに切り替える、との方針を発表。四日市市が鉄道の存続を求め、公有民営化の形で存続することになりました。
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2014年3月27日には、合意に基づいて四日市あすなろう鉄道が設立された。同社は、近鉄が75%分を、四日市市が25%分を、それぞれ出資する第三セクター鉄道となっている。社名の「四日市あすなろう鉄道」は、未来への希望(明日にむかって)と、運行する内部線および八王子線が軌間762mmという狭軌(ナローゲージ)であることに由来する。この新体制で2015年4月1日から運行が開始されている 。
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車内
16:35発に乗り、16:52 あすなろう四日市駅着。
四日市アーバンホテルに泊まりました。
本日の歩数 48,362歩 29.5km
東海道五十三次歩き第18日目の1(内部から石薬師宿入り口まで)に続く
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