紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き18日目の2(石薬師宿)

2度目の東海道18日目の2

6月14日(金)の2

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【石薬師宿入り口】

右斜めに入るとすぐに、石薬師宿の道標と、信綱かるた道の看板と、信綱かるたの1番目の歌の看板がありました。
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案内板

「 これより南 石薬師宿
信綱かるた道

 一・八キロの間に信綱かるたの短歌五十首を掲示している。途中、本陣址、佐佐木信綱 記念館、淨福寺(弘綱記念碑、幸綱歌碑)、石薬師寺(信綱、西行、一休、芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜、一里塚などがある。

佐佐木信綱顕彰会) 」


佐佐木信綱顕彰会HPより

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信綱かるた道

平成17年、東海道石薬師宿の北端から南端の1.8kmの間を「信綱かるた道」と名付けた。信綱かるたの歌とそれに添える絵をベニヤ板に焼き付け、これを梅干ざるに取り付けて歌額として、信綱かるた道に28基設置した。
平成19年、歌額を恒久的なアルミ板に取り替えるとともに、増設して36基とした。
平成27年、歌額を更に増設して信綱かるた50首すべての歌額が整備され、信綱かるた道が完成した。
歌額の文字とこれに添える絵は、平成17年、平成19年の場合は辻善衛氏、平成27年については渡部明美氏が担当された。
歌額の部品の取り付けやコンクリート工事は、すべて山口富生氏等ボランティアが行った。

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四日市の時雨蛤、日永の長餅の
 家土産まつと父を待ちにき 」

佐佐木信綱顕彰会HPによる解説

「父は家へのみやげに、四日市のしぐれ蛤、日永の長餅を持ってきてくれる。そういう父をよく待っていたものである。(父、弘綱は四日市へ講説に行く) 」

上の写真は、佐佐木信綱顕彰会HPの「信綱かるた」50首の紹介と解説に添えられていた、渡部明美氏の描いたもの。

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こちらは、石薬師宿内あちこちに立てられている信綱かるたの看板。添えられている絵は渡部明美氏が描いているものもいりますが、この歌の絵は、辻善衛氏による絵だそうです。

9:52 北町地蔵堂
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案内板
「 北町の地蔵堂

延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると、霊験あらたかといわれている。
江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。
現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。毎年八月二十四日は地蔵さんの会式(えしき)である。

平成四年十月
石薬師魅力再発見委員会
(鈴鹿市制五十周年記念事業) 」


この地蔵堂前で、レインコートとレインズボンを着用しました。 これが大正解で、この後、かなりの大雨になりました。

この地蔵堂の写真然り、この後撮った何枚かの写真は斜めになっているものが多く、傘をさしながらの撮影のため、斜めになってしまいました。


【信綱かるたより】

信綱かるた50首すべての紹介はできませんか、また、雨が激しすぎて写真を撮らなかったものも結構ありますが、いくつか紹介します。

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「蕎麦の花に百舌が訪ひ来て語らへり   山のはざまの秋風の家 」

「蕎麦の花に百舌が遊びにきて、何か話している。そこは山あいにある秋風が、そよいでいる家である。 (佐佐木信綱顕彰会HPより) 」


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「 真白帆によき風みてて月の夜を
 夜すがら越ゆる洞庭の湖 」

「真白い帆によい風が満ちていて、月の夜を一晩中、私を乗せた船は洞庭湖を越えて行く。(中国旅行) 」(佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 ゆく秋の大和の国の薬師寺の 
塔の上なる一ひらの雲 」

「晩秋の大和の薬師寺の塔を見上げると、塔の上にひとひらの白い雲が浮かんでいる。 」(佐佐木信綱顕彰会HPより)

この「ゆく秋の」の歌は、確か中学の国語の教科書で習った記憶があります。佐佐木信綱万葉集を研究し、万葉風の歌を歌った、と習ったかなあ。

言葉が素直で透明感があって、奇を衒(てら)っていない分、言葉のエネルギーを感じます。


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「やま百合の幾千の花を折りあつめ
 あつめし中に一夜寝てしが」

山百合の花を幾千も折りあつめよう。そしていっぱいの花の中で一晩寝たいなあ。 (佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 むすべば手にここちよし清き水の
 今もわきいづるわが産湯の井」

両手で水をすくえば気持ちよい。今も清い水がわき出ているよ、ここ私がうまれた産湯の井戸から。(信綱出生、明治五年六月三日) (佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の雲
 あふぎつつ思ふ父とありし日を」

ふるさとの鈴鹿の山のいただきに、秋の雲がかっている。今ここからあおぎ見ながら、心にじんとくることは、ありし日の父に教わったことである。(石薬師文庫前歌碑 ) (佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 天地のあるじとなるも何かせむ
 いかでまさらむ此のゑひ心地」

たとえ天地を支配する主人となっても何になろうか、何にもならない。なによりも勝っているだろう、酒に酔ったこのいい気分は。(酒を好んだが、量は少なかった) (佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 日本語(やまとことば)いく千万の中にして
 なつかしきかも
『ふるさと』といふは」

いく千万もある日本語の中で「ふるさと」という言葉ほど、なつかしく私の心にひびいてくるものはない。(弘綱六十年祭) (佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「み空仰げ八重棚雲をおしひらき
 赫々として初日はのぼる」

空を仰いでみなさい。いくつにも重なっている棚雲をおし開いて、いま、赤く輝いて初日はのぼってくるよ。(昭和二十一年。太平洋戦争後、初めての元旦)
(佐佐木信綱顕彰会HPより )


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「 人の世はめでたし朝の日をうけて
 すきとほる葉の青きかがやき」

私が生きている世界は、すばらしいなあ。朝の光をうけて木の葉が透きとおっているよ、青く輝いているよ。
(佐佐木信綱顕彰会HPより)


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「 秋高き鈴鹿の嶺の朝の雲
 はろかに見つつわがこころすがし

秋の天高い鈴鹿山脈のいただきに、秋の雲がかかっている。遠くはるかに、ここからじっと見ていると、私の心はさわやかでこころよい。(佐佐木信綱顕彰会HPより) 」

こうやって見てくると、辻善衛氏による絵のものが多いですね。


【広重「四日市」の模写】

10:01 大木神社鳥居
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「観光三重」より

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石薬師の氏神様で昭和57年秋に立て替えられましたが、社殿後の森は、市指定「椎の森」で杉、アラカシ、サカキ、ソヨゴ、ヤツデ等と椎の木とが混生して美しい森を形成しています。境内には佐佐木信綱の歌碑もあります。

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10:02 広重「四日市」の模写
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あるお宅の格子塀に、油絵風の「四日市」の模写が貼ってありました。

レリーフ?陶板?

普通の個人のお宅で、この家の方が描いた(作った)ものなのか、ここはギャラリーとかアート教室なのか、全くわかりませんが、気になりました。


【小澤本陣跡】

10:04 小澤本陣跡
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小澤本陣跡には、2枚の案内板がありました。

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案内板
「 小沢本陣跡

東海道石薬師宿は元和二年(一六一六)幕命によって設置され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。
大名の泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭 の名も見える。国学者萱生由章(かようよりふみ 一七一七〜七五)もこの家の出である。

鈴鹿市

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案内板2
「 小澤本陣跡

 東海道 石薬師宿 は元和二年(一六一六)、幕命によって設置された。この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。
 大名が泊まるところを本陣といい、小澤家が本陣を勤めていた。石薬師宿は小高い台地にあり小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。
 小澤家には当時の文書が多く残されており元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭 の名も見える。

平成十八年十二月
石薬師地区明るいまちづくり推進協議会」


【天野記念館】

10:05 天野記念館
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案内板
「 天野記念館

 天野修一 翁はこの記念館を昭和三十九年(一九六四)ふるさと・石薬師町本町のために建てられました。天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。
 前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。
 また、天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげられています。

平成十八年十二月
石薬師地区明るいまちづくり推進協議会」


【石薬師文庫】

写真の素敵な木の塀の前に、
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歌の看板があります。

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「 これのふぐらよき文庫たれ故郷の
 さと人のために若人のために」

この石薬師文庫よ。りっぱな文庫になってくれよ。私のふるさとに住んでいる人のために、そして若い人々のために。(信綱が、還暦を記念して贈呈した)
(佐佐木信綱顕彰会HPより)


10:07 石薬師文庫
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案内板
「 石薬師文庫

昭和七年、佐佐木信綱が還暦にあたり、旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物を閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。
現在、地域の図書館としてボランティアによって運営され、親しまれている。

佐佐木信綱顕彰会 」

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石碑
「 これのふぐらよき文庫たれ故郷の さと人のために若人のために 」

この石薬師文庫よ。りっぱな文庫になってくれよ。私のふるさとに住んでいる人のために、そして若い人々のために。(信綱が、還暦を記念して贈呈した)


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歌碑
「 ふるさとの
鈴鹿の嶺呂の
秋の雲 
あふぎつつ思ふ
父とありし日を
佐佐木信綱


傾けて
バイクを駆れる
群が行く
鈴鹿の山は
父祖のふるさと
佐佐木幸綱



佐佐木信綱生家】

10:08 佐佐木信綱生家
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佐佐木信綱生家の門前の歌碑
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「目とづればここに家ありき奥の間の
  机のもとに常よりし父信綱 幸綱 書 」

今石薬師にきて、じっと目を閉じていると、浮かんでくる。ここに私たちの住まいがあった。家の奥の間の机に向かっていつも父の姿があった。(昭和二十五年、信綱最後の故郷訪問。佐佐木信綱記念館歌碑)


佐佐木信綱資料館と「うのはな」】

佐佐木信綱資料館
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案内板
佐佐木信綱資料館

 当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱 博士の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。
 市では、今回の会館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。
 資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には『日本歌学史』『和歌史の研究』『近世和歌史』の主著三部作をはじめ、歌集『おもい草』『山と水と』など多数を保管、展示しています。

昭和六十一年五月
鈴鹿市


「うのはな」の案内板
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「 空木(うつぎ)・卯木(ユキノシタ科)
うのはな

夏は来ぬ伊勢や難波と遊ぶ間に
山ほととぎすつぼむ卯の花 信綱 」


佐佐木信綱資料館前の看板
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佐佐木信綱卯の花の里

 石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
 弘化2年(1845)の石薬師宿宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約7割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松阪へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。
裏庭には『産湯の井戸』が今も残っている。
 石薬師では、信綱作詞の唱歌『夏は来ぬ』に因んで昭和63年(1988)から地区を挙げて『卯の花の里づくり』に取り組んでいる。
 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。 」

というわけで、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」を載せておきます。


「 夏は来ぬ」
佐佐木信綱作詞・小山作之助作曲

1.卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

2.さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

3.橘の 薫るのきばの
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

4.楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

5.五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ


格子の素敵な家を写したのですが、雨がいっぱい、写っている!
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雨はなかなか写らないのに、やはりかなりの大雨であることがわかりますね。


【竹柏園弘綱(父)と幸綱(孫)】

佐佐木信綱生家を過ぎた辺りから雨が激しくなってきて、写真があまり撮れなくなってきました。


10:11 竹泊(なぎ) の案内板
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案内板
「 竹柏(なぎ)

信綱の父、弘綱は『竹柏園』と号した。信綱は明治32年、短歌結社『竹柏会(ちくはくかい)』を創設。本会は現在も活動続く。この木は、信綱から贈られた種子に由来する。移植し文庫前の竹柏と
兄弟樹。 」

信綱の父、弘綱が竹柏園と号したのは、庭にナギの木があったからだそうです。


ナギ wikipediaより

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ナギ(梛、竹柏、学名:Nageia nagi)は、マキ科ナギ属の常緑高木である。

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こちらの歌碑は佐佐木幸綱の歌碑です。
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歌碑の右側に立っている茶色の案内板(佐佐木幸綱)に、歌碑に彫られている歌も書かれています。

佐佐木幸綱の案内板
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佐佐木幸綱

歌人・国文学者。紫綬褒章受賞、日本芸術員会員、早稲田大学名誉教授。一九三八年、佐佐木治綱(学者歌人)と由幾(歌人)の長男として東京に生まれる。
佐佐木信綱は祖父である。現代短歌界の重鎮であり、万葉集等の研究でも著名である。佐佐木信綱顕彰歌会には選者として招聘されている。

歌碑
しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を
愛し 石薬師を 愛したる人 幸綱 」


【佐佐木家菩提寺浄福寺

佐佐木弘綱翁記念碑
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案内板
「 佐佐木弘綱(一八二八〜一八九一)

信綱の父。歌人国学者。伊勢山田の国学者網代弘訓に師事した。五十三歳の時上京し、東京大学の講師となる。門人は全国にわたり千六百名ともいわれる。古典の口語訳者、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は、百余に及ぶ。
この碑は一九〇八年(明治四一年)建立された。
以後、毎年碑前祭がこの境内で行われていた。
碑表には弘綱の矜持(きょうじ)詠がある。
和歌の浦に老をやしなふ葦田鶴は
雲の上をもよそに見るかな 」

10:12 浄福寺
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佐佐木家の菩提寺。竹柏の案内板、幸綱、弘綱の歌碑など、この浄福寺の門前に置かれている。

案内板
浄福寺

宗派は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。
開基(創建 )は、室町時代の永正年中(一五〇四〜一五二〇)と伝えられている。
山門入り口の左側には、佐佐木弘綱(信綱の父)の記念碑がある。
それは、佐佐木家代々の菩提寺だからである。
碑に刻まれている歌は次のとおりである。

わかの浦に 老を屋しなふ 阿し堂徒盤(たづは)
雲の宇辺越(うえを)も よそに見類(みる)か薙(な)

平成十八年十二月
石薬師地区明るい
まちづくり推進協議会」


【石薬師寺

道が左に曲がった先で瑠璃光橋で国道1号線を渡り、その先下りながら右に大きくカーブする、そのカーブの内側が石薬師寺です。

坂が急で、坂の上側にも下側にも門があるので、石薬師寺の境内はかなりの坂になっているようです。

10:28 石薬師寺山門
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絵手紙は、10年前のブログ用に描いたもの。

以下の石薬師寺関係の写真は今回撮りました。

坂の下の山門
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山門から見えているお堂
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すずか観光協会HPより

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東海道宿場町の寺、石薬師寺

薬師寺
奈良時代の僧,泰澄が開いた寺で広重の「東海道五十三次」の版画に描かれています。
本尊は,弘法大師が自ら刻んだとされている薬師如来像で,秘仏になっており,毎年十二月二十日のおすす取りに合わせて,ご本尊開扉を行っています。

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10年前は、もう夕暮れで急いでいたので通過してしまいましたが、今回は境内に入ってみました。

緑が繁り、緑のトンネルが上り坂を覆っていました。
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鶏霊碑
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この辺りは特に養鶏が盛んだったのでしょうか?

こちらの写真は水子供養でしょうか?チューリップの飾りがたくさんあります。
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広重の石薬師
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広重の石薬師を見て、私風に描いた絵手紙。
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絵の左奥が石薬師寺山門です。


【いつも損な役回りの範頼】

10:31 御曹子社(蒲冠者範頼之社)
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蒲冠者範頼之社

案内板
「 御曹子社(おんぞうししゃ)

蒲冠者範頼(がまのかんじゃのりより)を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問にすぐれていたので、それらの願望成就の神様といわれている。
昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。
神社の南約六十mのところに、範頼ゆかりの蒲桜県指定文化財)がある。

平成四年十月
石薬師魅力再発見委員会
(鈴鹿市市制五十周年記念事業) 」


源 範頼 wikipediaより

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源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。

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華々しい活躍をして日本人に愛されている義経に比べ、影の薄い範頼を少しでもアピールしようという人もいて、範頼がお膳立てしていたところに、いつも義経が美味しいとこ取りで活躍が目だった、範頼は不運な、いつも損な役回りだった、とか、謀反の疑いをかけられた件も、曽我兄弟の仇討ちの時、頼朝が亡くなったという誤報を聞いて、嘆き悲しむ家臣や北条政子に、「大丈夫。私がいるから安心して」と言った、その一言が、謀反の疑いをかけられることになった、など、面白いエピソードとして書いている人もいます。

決して頼朝に取って変わろうという野心などもつような人ではなかったのですが、奥州に逃げた義経追討軍の総大将を命じられた時には断ったそうです。いつもいいとこ取りの弟を疎ましく思うよりも、弟として親しみをもっていたのでしょう。

しかし、それが頼朝から目の敵にされる原因のひとつであったことは間違いありません。


蒲冠者範頼之社(御曹子社)を訪れた頃、大雨のピークで、境内は真っ暗でした。

生協らしきトラックが、荷下ろしをためらって停車しているぐらい、大雨でした。

【蒲桜とゴッホ

10:32 蒲桜
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すずかし観光案内ガイドより

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寿永(西暦1182年~84年)の頃,蒲冠者源範頼(頼朝の弟)が平家追討のため,西へ向かう途中,石薬師寺に詣でて武運を祈願し,戦運を占うため,鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して,『我が願い叶いなば,汝地に生きよ』と言って去ったが,活着し生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。

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PHOTOGRAPH-PRO より

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鈴鹿市石薬師町にある珍しいサクラで、花は一重の五弁で白色から淡紅色、樹高は5メートルほどにしかならない。 ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しいことから、県の天然記念物に指定されている。 寿永年間(1182年~1183年)、蒲冠者(かばのかじゃ)と称される源範頼が、平家追討のため西へ向かう途中、石薬師寺に立ち寄り戦勝祈願をし、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、萌芽してこのサクラになったと伝わる。 そのため「石薬師の蒲ザクラ(がまざくら)」と言われ、俗に「逆桜」とも称される。

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ゴッホが石薬師を描いた、という話は聞いたことがあり、私はてっきり、石薬師寺を描いたのだと思っていたら、ゴッホが描いたのは蒲桜でした。

ゴッホ作「タンギー爺さん」は背景にいくつもの浮世絵が描かれていて、タンギー爺さんの右上に描かれているのが、蒲桜です。
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「投げし麩の一つを囲みかたまり寄り
  おしこりおしもみ鯉の上に鯉 」

池の鯉に麩を投げ与えた。一つの麩を鯉は、かこみ、かたまり、もみ合って鯉の上に鯉が重なりあっているよ。
(佐佐木のぶつな顕彰会HPより)

滑稽な鯉の動きは、貪欲で生命力に溢れています。この歌は初めて読みましたが、とても好きな歌です。


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「 生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ
 徒渉せしか此の甲斐川を」

神戸の実家に行こうというので、母は体が弱かったのに私をおんぶして、この甲斐川(鈴鹿川)を、歩いて渡ってくれたのだなあ。(母、光子の実家は、神戸藩の岡元家)
(佐佐木信綱顕彰会HPより)


こんな町外れにまで、信綱かるたがあって驚きました。

10:42 石薬師の一里塚
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案内板
「 石薬師の一里塚

 信長記には、天文九年(一五四〇)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚 を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。[一町は約一〇九メートル]
 家忠日記には、慶長九年二月(一六四〇)秀忠が東海道東山道北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたという。
 くたびれたやつが見つける一里塚 (江戸時代の川柳)
平成四年十月
石薬師魅力再発見委員会
鈴鹿市市制五十周年記念事業] 」


庄野宿と石薬師宿の分岐の道標
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2度目の東海道18日目の3(庄野宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/30/000340