紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き21日目後半の3(石部宿外れから草津宿への道)

2度目の東海道21日目前半の3

7月10日(水)の3

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【五軒茶屋道と古道】

12:06 五軒茶屋道と古道分岐
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案内板
「 五軒茶屋道と古道(ふるみち)

天和二年(一六八二)出岩地先で大洪水により東海道が流出して河原となる。天和三年四月十八日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約二倍の二キロメートルの距離となった。
新道が山の中を通過するために安全を願って元禄二年(一六八五)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。
明治四年(一八七一)には新道の距離が長いために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。

湖南市観光協会
協賛 石部学区まちづくり協会 」

五軒茶屋道の入り口。
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10年前はどちらを歩いたか記憶にないのですが、たぶん古道(ふるみち)を歩いたのでは?

今回も今日の距離が長いので、古道を行きます。

地図で見ると、野洲川沿いの道かなあ、川を見ながら歩くのかなあ、と思ったら、線路沿いの道で、川は見えませんでした。
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東海道を歩いてみて、地殻変動や、洪水や津波で道が変わったり、道路工事や、宅地開発で道や歴史的建造物が失われた、というのは、概念ではわかっていましたが、10年ぶりに歩いてみると、この
10年の間にかなり変わったので、道や町は変わるんだな、ということを目の当たりにしました。

なくなったもの、逆にきちんと整備されたもの、10年前にはほったらかしだったのが、今は町をあげて東海道の宿場であることを大事にしていたり(旧屋号の札を家の前に掛けたり)。

それから、案内板は原稿を書いてくれた人の原稿のまま案内板にしているのかな。「距離となった」「移転することになりました」「復元された」と文体が一定でない。今までも、字が違うんじゃないかな、とか、気になることが何回かありました。教育委員会観光協会の名前で出しているのだから、直してもいいのでは?と思う一方、書いてくれた人の原稿を重んじる、という考え方もあります。

12:21 栗東21ガード
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名神高速道を潜ります。

ここを潜ると、ぐるっと南側を回ってきた五軒茶屋道と合流します。
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【長徳寺薬師如来堂】

12:43 長徳寺薬師如来
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境内には、栗東八景のひとつ、上野(かみの)の夜雨の碑があります。
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また、やはり境内には、「従是東膳所領」の領界石もあります。
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このように塀も囲いもないのに、立派なお寺には驚きます。

栗東八景とは

栗東市観光物産協会HPより

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栗東八景

栗東市は、かつて栗太郡と呼ばれ、栗太郡を範囲とする『栗太八景』が、寛延3年(1750)頃に、大橋(現栗東市大橋)慶崇寺の僧 致遠(ちおん)によって選定されています。
平成元年(1989)10月、栗東市(当時栗東町)は、『みどりと文化のまち栗東』にふさわしい現代の景勝地として新たに『栗東八景』を選定しました。栗東八景が選ばれてから30年が経過した今日、あらためて栗東八景を見つめなおし、栗東の今昔に思いをはせ、私たちの郷土の歴史やの文化遺産を再発見することを願っています。

栗太八景漢詩
「手原行人」 手原 稲荷神社手原橋欄干
「赤坂帰樵」 小野 赤坂公園砥山夕照

「 伊勢落晴嵐」伊勢落 街道筋
「上野夜雨」 林街道筋
「金山暮雪」 大橋 三輪神社
「松島秋月」 大橋 慶宗寺内
蓮台寺晩鐘」下鈎甲 寺跡
「砥山夕照」 北の山 上池

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平成に新たに選ばれた栗東八景には、上野の夜雨は入っていません。

栗東八景のひとつに、払暁の駒音(ふつぎょうのこまおと)というのがあり、寒い冬の朝、栗東トレーニングセンターで馬が走る音が挙げられているのが、印象的です。


【新善光寺道標】

12:46 道標
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「新善光寺是より一町餘」道標。


滋賀・びわ湖観光情報より

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善光寺

JR 手原駅の東約2.2kmにある浄土宗の寺です。鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりといわれています。客殿に南北朝時代の木造阿弥陀如来立像が安置されています。中国宋代の影響を受けたもので、重要文化財に指定されています。
 客殿前に膳所藩主本多俊次が、本堂を建立したときに造ったという美しい枯山水の庭園があります。

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この辺りは、六地蔵と呼ばれる地区で、間の宿でした。


【福正寺木造地蔵立像】

12:50 六地蔵
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かつて六地蔵が揃っていた頃は国宝だったのでしょうか。
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今は六地蔵のひとつ、木造地蔵菩薩立像(国の重要文化財指定)のみが安置されています。

門前の案内板
重要文化財 木造地蔵菩薩立像

明治33年4月7日指定
福正寺(法界寺)

福正寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼、閉口し、衲衣(のうえ)の端を右肩に懸け、偏衫 (へんさん)と裳(も)を着けて直立する。現状では右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を執る(とる)。像高95.5cm ヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作と思われる。
ここ六地蔵の地名由来となった六躯(く)の地蔵像の一躯であると伝わる。

平成16年3月 栗東市教育委員会

境内は全体的に白っぽい砂が敷き詰められ、砂紋というのでしょうか、熊手か箒で綺麗に線をつけてあってとてもきれいでした。

年配の男性がしゃがみこんでずっと作業をしていました。

寺男というよりは、普段着だけれど、もしかして住職かもしれない、なんて思いました。よく、会社の面接試験の日に挨拶した清掃員さんが社長さんだった、なんて話があります。

重要文化財の木造地蔵立像を一目見られないかなあ、と、本堂に近づいてみると、木の階段の真ん中に賽銭箱が置いてあり、賽銭箱をぐるりと囲むように敷物が敷いてあり、その敷物の上なら土足で上がってよいとのこと。

歩く旅をしていると、見学で靴を脱ぐのが億劫で、それで外から見るだけであまり上がって見学をしなかったのですが、土足のままどうぞ、となれば上がらせていただきます。

木の格子から覗いてみたら、想像していたのとかなり違いました。

黒光りしていて、思ったより曲線的で、思ったより柔和でした。優しい感じでした。そうですねえ、広隆寺弥勒菩薩像をもう少し豊満にしたイメージ。

お姿を見させていただいたので、階段を下りてから手を合わせて、「いつもありがとうございます。旅の安全をお守りください」
と囁いて、出口へ向かいはじめたら、作業をしていた男の人に呼び止められました。

「大きな音で叩かないと、お地蔵さまに聞こえませんよ」

賽銭箱の上から下がっている紅白の紐。私はてっきり鈴のようなものが付いているのかと思っていましたが、見上げてみると、木の板のようなものが上の方にあって、紅白の紐の上の方に木槌がついていて、紅白の紐を揺らして木槌で木の板を叩いて音を出すようになっていました。

お寺の方、曰く、

「お地蔵さまは自分の目の前の高さにいらっしゃるわけではなく、高いところにいらっしゃる。だから大きな音を出して、自分は何県から来た何々です、と名前を言って、それからお願い事を言うのです」

せっかく声をかけてくださったので、もう一度紅白の紐の前に戻って、紐をいっぱい揺らして叩いて、県と名前を名乗って、旅の安全をもう一度お願いしました。

すると、お寺の方に、

「良い縁が結ばれましたよ」

と言われ、何だかとても幸せな気持ちになりました。
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この前の草津から大津への旅の日に、親鸞上人に出会ったのと同じくらい幸せな気持ちになりました。
(この話は時系列的にはこの日以前の出来事なのですが、歩く順番的に、この後のアップとなります。)

鎌倉時代の多層塔】

12:56 福正寺の石造多層塔
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町指定文化財(現在は市指定文化財)の多層塔と書いてあるのが気になって、福正寺の境内に入ってみました。

案内板
「 市指定文化財 石造多層塔 福正寺
昭和43年8月10日
栗東市指定第34号

当寺は真宗寺院であるが、元は金勝寺二十五別院の一つ多喜寺の一院で六地蔵を安置していたと言われ、寛正二年(1461)僧正善のときに本願寺蓮如の教化に帰して真宗道場となり、後に、親鸞の弟子円鸞の開いた松原興敬寺の配下に入ったと伝えられる。
当寺にある層塔は、塔身四方に仏を配し本来九層塔であったと思われ、笠の第四・六・七層と相輪部が失われているものの、鎌倉時代末期の美を今に伝える貴重なものである。

平成元年三月
栗東市教育委員会

境内に入ってみると、写真の松がまず目に入り、
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松に隠れるようにして其の奥に鎌倉時代の多層塔がありました。
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福正寺はここですよね。

5分ほど前に見てきた木造地蔵立像のあった場所、門などには寺の名前が書いてありませんでしたが、門前の案内板に福正寺(法界寺)と書いてあったので、タイトルにも福正寺の木造地蔵立像と書きました。

ここ福正寺に本来六地蔵があったのが、今はあの木造地蔵立像しか残っていないので、あちらも福正寺が管理しているのかな。それとも、飛び地というか、別館があそこなのかな。


【旧和中散本舗跡】

12:59 旧和中散本舗跡
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絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。

道中薬の「和中散」のぜさい本舗でしたが、間の宿梅ノ木本陣としての役割も果たしていました。

大角家住宅及び旧和中散本舗、としてひとまとめに国指定重要文化財として紹介されていて分かりづらかったのですが、東から西に歩いている場合、道の左側の、ここに挙げた2枚の写真が旧和中散本舗、道の右側が大角家住宅です。
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滋賀県博物館協会HPより

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大角家住宅及び旧和中散本舗

製薬機械が残る「旧和中散本舗」は梅ノ木本陣でもあった


旧東海道街道沿い、栗東市六地蔵に現存する間口の広い大きな商家が、「旧和中散本舗」建物は国の重要文化財の指定を受け、数少ない商家の様相を伝えている。 街道名物としてその名が知られた「和中散」は、腹痛や暑気あたりに良く効くとの評判であった。 当家では薬の製造・販売だけでなく、草津と石部との間の小休息所としての間の宿として参勤交代の大名たちに利用されており、江戸時代後期に隣接して書院が増築されている。 屋敷の奥には池泉式庭園があり、国の指定(大角氏庭園)名勝となっている。

 店舗の東に並ぶ本陣正面は、欅造りの藥医門があり、その奥玄関には松竹梅鶴亀の豪華な欄間がある。 奥書院には、明治天皇ご使用済みの遺品、蜀山人大田南畝)真筆の掛軸、および曽我蕭白筆の襖や天袋の小襖、狩野永納筆の屏風など絢爛豪華な調度品があり、立ち寄った文人の深さが感じられる。 江戸時代に多くの有名人が当家を訪れた記録が残り、ケンペルやシーボルトも和中散を買い求めたと言われる。

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文化遺産オンラインより

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旧東海道草津宿と石部宿との間にあり、薬種和中散を製造販賣したところで、建物は東海道を挾んで南北の二部に分たれる。南部は主要部であつて、その向つて右は店舗、仕事場及び住居に充てられ、店舗には看板、湯沸釜等旧時のまま存し、土間を隔てた仕事場には木製の動輪、歯車によつて操作される製薬用の石臼がある。これに連つて左側には正門、玄関を設けた座敷構の部分が、街道向側には馬繋ぎ、薬師堂、控家がある。
当家は慶長年間この地に来住したと傳えられるが、主屋は略々その項の建物と称せられ、座敷構の部分及び控家はこれに後れて建てられたものと認められる。
一に中の本陣とも言はれ、東海道名所図会にも描かれている程著名で、その堂々たる建物は今なお街道の偉観と称することが出来、産業史、又交通史の遺跡として極めて貴重である

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【旧大角家住宅】

(旧和中散本舗向かい側の)大角家住宅

案内板
重要文化財 大角家住宅隠居所
栗東市大字六地蔵

桁行111.9メートル、梁間7.0メートル、入母屋造、四面庇付、
南面突出部 桁行5.9メートル、梁間6.9メートル、入母屋造、南面、東面及び西面庇付、東面玄関、南面押入附属、玄関千鳥破風付、本瓦葺 江戸時代中期

隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。
その後、所蔵文庫より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和四十六年、半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分が復原整備された。
建物は床と付書院を備えた六畳の座敷の南に四畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の四室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。
この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。
平成七年三月
滋賀県教育委員会

薬師堂。
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大角家の井戸。
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薬師堂と井戸には本瓦葺きの屋根が見えていますが、次の写真の門については触れられていないので、この門は新しいものなんでしょう。
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六地蔵の一里塚跡】

13:03 六地蔵の一里塚跡
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その横に、東海道名所図絵「梅の木」をはめ込んだ石碑がありました。
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上の写真の拡大です。
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絵の下の説明にはこう書いてあります。
「 江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)が置かれ、梅木(うめのき)立場と称された。『ぜさい』を名のる道中薬、腹薬の『和中散』を商う店があることで、京・大阪・江戸まで知れ渡っていた。」


【高念寺(浄土真宗)】

さてさて、歩く旅で大変なのがトイレ問題。

夏看〜針付近はあちこちトイレマークが出ていたのですが、栗東市になってからかなあ、トイレマークを見ない。コンビニもない。

浄土真宗のお寺でトイレをお借りしたことがあるので、今回もとにかく、浄土真宗のお寺に入ってみましょう。

13:15 高念寺
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ありました。浄土真宗のお寺。

高念寺の門。
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うーん、トイレはないかなあ。

見渡したら、左奥にトイレらしきもの。

鍵がかかっていませんように。

鍵は開いていました。

入ってすぐのトイレは男性専用。

女性用は靴を脱いでスリッパに履き替えて階段を上がったところ。

つまり、トイレは独立棟ではなく、本堂か母屋かに属した建物の中。

お寺の方に挨拶もせずに上がり込むのは心苦しい雰囲気ですが、もう緊急事態!

まずは用を済ませ、もし、どなたかにお会いしたら、緊急事態ゆえに挨拶しなかったお詫びとお礼を言おう、と、ともかくも用を済ませました。

結局はどなたにもお会いしなかったので、親鸞上人によくよくお礼を言って立ち去りました。
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これも、先ほどのお地蔵さまに結んでいただいたよいご縁と、感謝いたしました。


【小野村 肩違えの松】

13:20 東海道小野村 五葉の松
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「葉山東街つくり」と左に書いてある木札が掛かった素敵な門。

こちらの家にも「東海道 小野村 飴屋 葉山東街つくり 」という札が掛かっているので、五葉の松も屋号なのかなあ。植木屋さんだった?
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13:24 肩かえの松
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案内石碑文
「小野村は慶長年間の東海道整備によって、この地に移る。
旅人足等がこの松の木の下で休憩し、荷物を担う肩をかえたところである。」


【里内呉服店と手原醤油店】

13:31 行者堂
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文政3年1820年、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像を背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まりだそうです。

次に紹介する里内呉服店のご先祖でしょうか。

13:33 国登録文化財 里内呉服店
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文化遺産オンラインより

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里内家住宅主屋(しゅおく)

呉服商を営んだ家で,旧東海道に面して屋敷を構える。主屋は,接道して建つ町家で,2階を低く押さえた外観など,明治初期の町家の特徴をよくそなえる。庇を正面から西側面に矩の手にまわし,上部に雨除けの小庇を設けるなど妻の意匠に工夫がみられる。

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そして、そのすぐ左隣に、塩屋藤五郎 手原醤油店顕彰碑がありました。
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碑文(前面)
「 手原醤油店 顕彰碑

三代目藤五郎 幼名長之助

弘化三年(一八四六)旗本竹中主水家(代官職)生れ。明治維新後、二十七才で栗太第四区長に、明治十二年初の県会議員に当選、明治三十年、栗太銀行を創設、頭取として経済・郷土の隆盛の礎を築く。醤油醸造では家訓を守り、勤倹節約を旨としながら、慈善事業や公共工事には多大の資金を投じられた。明治三五年没。

四代目藤五郎 幼名菅次郎

文久元年(一八六二)生れ、三代目の弟。家業を引き継ぎ、ますますの隆盛を極める。原料の研究に取り組まれた。
大正十二年に開業された手原駅には、多大な協力をされた。昭和二年生没。栗太銀行最後の頭取。 」


碑文(右側面)
「 創業寛政二年(一七九〇)

手原醤油歌
あまりにもおいしく、たいへん評判がよいので、長文の歌が詠まれた。(その一部)

色如葡萄紫而滑
人問百食益佳良
王侯饌差美如玉
色はブドウの如く紫にして滑らかなり
人が食べるすべて益々おいしくなる
王様のご馳走もおいしくなること玉の
ごとし 」


【手原地名由来と手孕ベンチ】

13:36 稲荷神社
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稲荷神社の前に、手孕(てはらみ)ベンチと、
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赤い三角の石が山のように連なる石碑がありました。
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手孕ベンチ石碑案内文
「 手孕ベンチ

伝説が歌舞伎『源平布引滝』に…

子どもを守るため、産んだのは手だけだと偽り助けた。
(善平の戦いで有名な後の木曽義仲)

子どもを守り育てるベンチ

(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照) 」

手原駅には行きませんでしたが、手原駅の駅前の案内板の文章を調べました。


手原 駅前の案内板

「 手原(てはら)地名由来

白鳳時代斉明天皇の頃(655)、
名代村造布佐が伊弉諾イザナギ)命、伊弉冉イザナミ)命の祭神を勧請して
女の腹に毎夜手を置いて唱名したところ男児が生まれた。手孕児といい、後、
安産の神さまとして多くの参詣をみた。(天満社記)
この手孕説話が後に変形、表記の手を産んだ手孕村として伝奇話がひろまった。」

この「手孕伝説」がアレンジされて『源平布引滝』に挿入されています。

歌舞伎演目案内より

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平家全盛の世に、次第に追い詰められる源氏の木曽義賢。孤独な戦いの末に壮絶な最期を遂げるが、義賢から源氏の白旗を託された女の腕が奇跡を引き起こす。
木曽義賢は死の間際に、身重の夫人と源氏の白旗を、琵琶湖の百姓一家に託した。一家の家で夫人は無事に男の子(のちの木曽義仲)を産むのだが、平家の追手が迫る。必死に守ろうとする一家は、湖で網にかかった女の腕を差し出し、夫人が産んだのはこの腕だと言い逃れようとする…。

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手原稲荷前の赤い三角の石碑
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右側の碑

「ここは東海道です

往来のまち手原

人車馬 情報 」

真ん中の碑

「粟太八景
手原行人

旅路 雨寒塵路手原辺
客袂涙濡萬里天
終日著鞭馳痩馬
往来有故幾年々
寛延三年十二月 素月作 」


左側の碑

「 手原を通る旅人

雨は寒く塵の路手原辺り
客の袂は涙に濡れる万里夫(長旅路の途上)
終日鞭著(つ)け痩せ馬は馳せ
往来故(ふる)くから有り幾年々(いくとしも未来へつづく)

歴史と文化のまちつくり  手原自治会」


【代官邸跡と謎の立派な家】

13:39 代官屋敷跡
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旗本渡辺領代官猪飼邸。現猪飼時計店。とガイド本にありましたが、眼鏡屋さんみたいでした。

その先、ガイド本にも記述はなく、現地にも看板や説明が何もないので、一般のお宅なのかもしれませんが、二軒の立派な家が斜向かいに建っていて壮観でした。
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【すずめ茶屋跡】

13:43 すずめ茶屋跡
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菜飯と豆腐の田楽が名物だった立場茶屋で、雀が集まる木があったことから、この名前がついたそうです。


【 義尚「鈎の陣」】

13:47 足利義尚「鈎の陣」の碑
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碑文にはこう書いてあります。

「九代将軍
足利義尚(よしひさ)公
鈎(まがり)の陣所ゆかりの地
文明十九年(一四八七年) 」


wikipediaより

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応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われた。

(中略)

長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時)、近江鈎の陣中で病死した。享年25(満23歳没)。死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある。

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写真に写っている5つの石碑の歌は、左から、

「 父、 八代将軍義政公へ
坂本のはまちを過てなみ安くうやしなふ寺に住とこたへよ
義尚長享元年十月四日 義尚着陣の時


義政公の返歌
やがてはや國治まりて民安くやしなう寺も立ちそかへらん
義政長享元年 都より


中納言入道宋世 義尚へ
かへりねと志賀の浦浪たたぬ日も君を都にまたぬ日はなし
中納言入道宋世鈎へ陣かへ 霜月廿日


中納言へ義尚の返歌
思ひとけは浮世なり見しかの蜑の業もしつへき旅の日数を
義尚霜月廿日陣所


陣中の歌会で義尚
三冬つきはるきにけらし乙女子か袖ふる山にかすみたな引
義尚長享二年正月十五日 」

この他にもあと幾つか歌碑がありました。

陣中で歌のやり取りをしていた、ということは、戦国時代に比べて、この頃はのんびりしていた、とも取れるし、若くして将軍になったものの、父義政や母日野富子が実質的な権力を握っていて、この近江の地に縛り付けられて動けなかった悲運の若き将軍の悲しみを感じます。

アル中で脳溢血で亡くなったにせよ、荒淫で、今で言えば性病で亡くなったということでしょうか、どちらにしても、父と母にいいように操られていた義尚の哀れが草に埋もれかけた石碑群の木陰に、凄まじさすら呼び起こします。

義尚は一方、容姿が美しかったとも伝えられているそうです。

それを聞くと、なおさら哀れですね。


やせうま坂】

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鈎(まがり)の陣を後にして、写真のような綺麗な塀を眺めて歩いていたら、

14:02 交差点名の「川辺」は「かわづら」と読む、というのに驚きました。地名は難しいし奥が深い。

14:04 川の堤防に突き当たるT字路。
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道標に従って右へ。

この時、写真の道標がありました。
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東海道 やせうま坂」

左側は「金勝寺 こんせ」

と書いてあるのかな。


【地蔵院と目川一里塚跡】

14:07 地蔵院
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14:09 クリリンの飛び出し君
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実は水口宿で、赤い忍者装束の女の子の飛び出し君の写真を捕らなかったことが未だに悔やまれています。

14:12 目川一里塚跡
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日本橋から118里目。

道の両脇のお宅の庭先にそれぞれ案内板を立ててくださっていて、文面はほぼ同じです。塚木は椋木だったそうです。


【目川ひょうたん】

順番が前後してしまいました。目川一里塚跡の少し手前に、手作り感満載の馬と牛がいて、
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瓢箪がぶら下がっていたので、さすが栗東、馬の町!ここは居酒屋?と思ったら、瓢箪屋さんらしいです。


目川(めがわ)ひょうたん

滋賀・びわ湖観光情報サイトより

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栗東市の目川は、東海道五十三次草津の宿に接する立場(旅人の休憩所)として栄えたところで、旅人の必需品を売るいろんな店や茶店がありました。その中でも瓢箪(ひょうたん)は旅人がお茶やお酒などを入れる容器として売られていたものと思われ、江戸時代中期以降明治の頃まで当地方の農家の副業的地場産業でした。
 その後、近現代に至り、需要が減り生産量は落ちましたが、栽培は今も続けられ、縁起物として各地で販売しています。
 市内市外でのイベント時に出店し販売しているほか、一部についてはJR手原駅2階の栗東観光案内所にて常時販売しています。

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瓢箪の写真は目川ひょうたん生産組合より
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貼り紙によれば、インターネット販売しているようです。
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川寅こばたけ商店は、目川ひょうたんだけではなく、栗東市の名産や健康食品、雑貨も売っているようで、面白いのは、現役サラブレッドの蹄鉄お守り!

店長さん、女性の方でした。


【専光寺】

14:15 素敵な鐘があるなあ、と思ったら
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山門も素敵でした。専光寺。
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そして境内には立派な銀杏の木。樹齢350年だそうです。
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【三軒の田楽茶屋跡】

さて、この先、田楽発祥の地と、昔の三軒の田楽茶屋跡があるので、ここで、 石部宿でランチを食べた田楽茶屋(伊勢屋の復元らしい)のところで田楽について書きましたが、もう一度おさらい。


ニッポニカより

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田楽

豆腐 、サトイモ、こんにゃくなどに調味みそをつけて焼いた料理。田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。

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食べ物の田楽の元となった田楽舞い、再現して描いてみました。
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14:19 田楽発祥の地碑
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立場だった元伊勢屋跡です。

一緒に「従是西膳所領」という領界石もありますね。

14:20 古志ま屋跡
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14:22 京伊勢屋跡
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案内板
「 名代 田楽茶屋 京伊勢屋

東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで共された食事は地元産の食材による菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)の三軒を言い、すべてが岡の地で店を構えた。
当家には当時からの藤棚がある。

治田学区心をつなぐふるさと
創生事業実行委員会 」


【ほっこり湯と老牛馬養生所】

14:24 ほっこり湯
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道が大きく右にカーブする曲がり角に、清酒「菊の水」のヤマキ酒店と、ヤマキ酒店が経営する足湯「ほっこり湯」がありました。

14:31 「従是東膳所領」領界石
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14:32 史蹟老牛馬養生所跡
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案内板
「 この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老朽馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」

14:33 高札場跡
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草津市に入る】

14:35 草津市に入る。
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14:36 いろはモミジ碑
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かつてここに、樹齢150年のいろはモミジが植わっていましたが、今は小さな木が植えられています。

真ん前に喫茶店「いろはモミジ」がありました。

14:47 高野地蔵尊
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14:47 常夜燈
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「右 金勝寺志がらき道 」
「左 東海道いせ道 」と書かれている。草津宿の東の入り口。


草津追分】

14:54 追分道標
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「右 東海道いせ道」
「左 中仙道みのぢ」

とうとう、東海道中山道合流の宿場町にやって来ました。

先日、草津宿〜大津宿は歩いたので、本日はその間は電車でワープ!

2度目の東海道五十三次歩き21日目の後半は、大津駅から終点京都三条大橋まで歩きます。

15:05 草津駅
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電車で大津駅へ。


エキストラ順番ですが、次は、

2度目の東海道20日目の1(草津宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/07/185022



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
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東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457

東海道五十三次の絵手紙後半へ
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