2度目の東海道16日目の1
5月29日(水)の1
刈谷のホテルにて、朝5:25に起きて、6:00朝食、支度して7:50チェックアウト。
8:41 中京競馬場前着。
【桶狭間古戦場】
8:49 桶狭間古戦場址
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戦国大名は戦乱の中にあって互いに全国統一を目指し、しのぎを削っていた。相模の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河・遠江・三河の今川、尾張の織田等々が勢力を得て、常に領土の拡大、天下支配の野望に燃えていた。
今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。
この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人 ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事であった。
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今川義元の墓
案内板
「 今川治部大輔(じぶだゆう)義元の墓
駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六〇)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し、明治九年五月に、この墓を建てた。
七石表
案内板
「 七石表(一号碑)
桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。
明和八年(一七七一)、尾張藩士人見弥右衛門あつし(返還できませんでした。漆や膝の右側の字です)、赤林孫七郎信之により建てられた。
北面『今川上総介義元戦死所』
東面『桶狭七石表之一』
南面『明和八年辛卯十二月十八日造』
と刻まれている。
絵手紙は、10年前のブログ用に描いたものです。
桶狭弔古碑
案内文
「 弔古碑
文化六年五月(一八〇九)、津島の神官氷室京介豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ碑、裏面には建碑の趣旨が彫られている。
文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉉)碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中天満邸令)中西融の筆跡。
石工河内屋孫右衛門の手により刻されたものである。
香川景樹歌碑
案内板
「 あと問へば昔のときのこゑたてて
松に答ふる風のかなしさ
景樹
桂園派の巨匠、香川景樹(かがわかげき)が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄三年(一五六〇)五月十九日、信長のためにこの地に没した義元の気持をくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で『尾張名所図絵』に載っている。
香川景樹は、当時の歌壇としてはカゲキ(過激)な歌を歌い、そういう歌風
だからでしょうか、江戸では受け入れられず、失意でここまで戻ってきて、信長の夜襲で命を落とした今川義元に思い入れをしたのでしょう。
東海道を旅してきて、季節の移り変わり、土地土地の違いや植物、言葉、食べ物、よく手入れされた道や史跡、ほったらかしにされた道や史跡、町や市を上げて古いものを保存しようとしていたり、開発ですっかり変わってしまったり、いろいろと触れてきました。
寺や神社、その土地に生きてきた人々、暮らしの歴史もあれば、戦など、時の流れに翻弄された歴史もありました。
折々触れてくると、いままでそれほど昔の戦や武士などに深く思い入れはなかったけれど、古戦場にやってくると、芭蕉が平泉で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ、あの思いに至るのです。なんだか胸がいっぱいです。
正直、今まで今川義元にそんなに思い入れはなかったのですが、今までどんな俳優さんが今川義元を演じてきたか調べてみました。
抜粋ですが、新しい順に、
片岡愛之助 春風亭昇太 (声)関智一
生瀬勝久 篠井英介 三谷幸喜
谷原章介 江守徹 田村亮 中丸新将
米倉斉加年 柴田侊彦 森次晃嗣
松方弘樹 佐川満男 中村勘九郎(五代目)
神山繁 成田三樹夫 観世栄夫
花柳喜章 三国一朗 西村晃
なんだかすごいメンバーですね。渋い人が多いけど、谷原章介もやってるんですね。
俳優さんの名前を挙げてみると、今川義元の人物像が見えてくるような、身近な感じがしますね。
桶狭間古戦場を後にして旧東海道へ戻ると、ちょうど中京競馬場前駅から溢れ出てきた若者たちと合流してしまい、流れに巻き込まれたように一緒に進んでいきました。
大学生?仕事?みんなどこまで行くのかな?
8:55 分岐
この分岐で左に入ってからも、暫く若者たちの波と共に進んでいましたが、途中でみんな左の方に曲がっていきました。
9:02 大将ヶ根交差点で国道1号線の反対側に渡り、右斜めの細い道に入ります。
【間の宿有松入り口】
いよいよ間の宿有松だなあ、と思っていたら、歌碑がありました。
「 たちならぶ 花のにしきと家ごとに
かけ渡したる くくり染かな
鈴木朖 」
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明和元年(1764)~天保8年(1837)。名古屋の儒学者。名古屋西枇杷島の医者・山田重蔵の三男として生まれる。通称、常助。字、叔清。12歳で市川鶴鳴の門に学び、15歳で『張域人物誌』「文苑」に載る程の才であった。18歳で祖父の家督を継ぎ鈴木氏を名乗る。母屋から離れたところにいたので「離屋」と号す。晩年には、藩校明倫堂教授並となり、『日本書紀』や『古今集』を講じた。
天明5年(1785)には『てにをは紐鏡』を書写、また『詞の玉緒』の抄を作ったことからも知れるように、国学、特に国語学にも造詣が深かった。
寛政4年(1792)29歳の時、名古屋を訪れた宣長の門人となり、『馭戎慨言』序を執筆。
同6年には松坂に来訪する。あるいは名古屋から帰郷する宣長に従ったか。『遍照寺月次歌集』にその時の文を収める。著書には、『言語四種論』、『少女巻抄注』、『離屋学訓』などがある。
人物としても面白く、講義の謝礼は
「菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金」
と玄関に書いて貼っていたともいう。また次のような狂歌も残る。
味噌で飲む一ぱい酒に毒はなし煤けたかかにしゃくをとらせて
次はまじめな歌。記念館所蔵の懐紙の歌。
「二月廿四日 同詠山暮春歌/朖/暮て行春の名ごりは夏かけてゆふ日ににほふみねのふぢなみ」
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有松には、このような歌碑が7つあります。
有松まちづくりの会HPより
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有松東海道沿いに歌碑が設置されています。これは地元の人が街道を往来する人に詩情を提供したく
設置したものです。
1.『あり松の・・・』(梅屋 鶴壽 祇園寺前)
2.『そめそめて・・・』(糟谷 磯丸 唐子車山車庫横)
3.『上代より・・・』(加茂 季鷹 中濵商店前)
4.『立ちつづく・・・』(冷泉 為章 ありまつ公園)
5.『有松邨ヲ過ル』(頼 山陽 有松・鳴海絞会館前)
6.『有松や・・・』(松本 淡々 絞里堂前)
7.『たちならぶ・・・』(鈴木 朖 Le abbollire前)
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【有松絞りと弥次喜多】
絵手紙は、10年前のブログ用に描いたものです。
9:05 地蔵堂
有松の家々は、有松絞りの暖簾が掛かっている家が多いです。
有松絞りは昔から有名で膝栗毛の弥次喜多にも、こんなエピソードがあります。
膝栗毛の弥次喜多
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有松 に来て見ると、ここは名にしおう絞り染めが名物。いろいろな絞り染めの生地を家ごとに吊して商っている。
両側の店から、旅人を見かけると、
店の者「おはいり、おはいり、あなたおはいり。名物有松絞りをおめしなされ。サアサア これへ、これへ。おはいり、おはいり」
弥次「エ、やかましい奴らだ」
ほしいもの有松絞りよ 人の身の あぶら絞りし金にかえても
(人の身の汗と油を絞って稼いだ金に替えても、欲しいものは有松の絞り染だ。)
喜多「ナント弥次さん。浴衣でも買わねえか」
弥次「思いっきり値切り倒してやろうじやァねえか」
喜多「よかろう。たんと買うような面をして、慰んでやろう」
と、あちこち見回すうち、この町のとっぱずれに、小店だが染め生地を表通りにいろいろ吊してあるのを見つけて家の中に入り、
弥次「コレこの絞りはいくらします」
というと、この家の亭主と見えて、誰かと将棋をさしていたが、夢中になってお客に気がつかない。
亭主「サァしまった。時にお手はなんじゃいな」
と、将棋の相手に手の内の持ち駒を聞いている。
弥次「コレサ。いくらだというに」
と、すこし声高にいうと、やっと気がついた亭主は胆をつぶして、
亭主「ハイハイ。それかな」
弥次「いくら、いくら」
亭主「コウト。あなたはいくらだとおっしやる。そこでこの将棟、次の手はかようにいたそうかい」
弥次「エ、小じれってえ。コレ売らねえのか。値段はいくらだというに」
亭主「ハテさてやかましい人じゃ。そちらのはうへ引っ返して、布についている符丁を見なされ。そこに値段がつけてあるが、素人衆にはただは知れるものじやァないわいの。こちらに見せなせえ」
(符丁.売り物の布の瑞に付けてある値段を書いた紙切。隠語の記号で書いてあるから、お客にはわからない)
「こいつはとんだ商人だ。符丁にウの字とエの字が書いてある」
「オ、そうじゃろう。それはコウト、一尺が三分五厘の値段の布じゃ」
(布の長さ一尺について銀で三分五厘ということ。上方では銀貨が広く通用していた)
「高い高い。負けなせえ」
「ナニ負け。イや負けまい。…………
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負けさせようと、いろいろ着てみている内に、とうとう有松絞りを手拭いぶんだけ買って帰った弥次さんでした。
【有松の町並み】
有松の町並み
愛知NOW(愛知県公式観光ガイド)より
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有松のまちは、慶長13年(1608)に尾張藩の奨励によってつくられました。耕地も少なかったため、副業として絞染めを工夫したのが有松絞のはじまりです。
ところが天明4年(1784)、大火により村の大半が焼失するという災難に見舞われました。復興をはかるなか、建物は火災に備えて漆喰を厚く塗り込めた塗籠造とし、萱葺き屋根に替わって瓦葺が使用されました。今も当時の面影を残した町家が並び、有松地区ならではの風情を漂わせています。
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有松 wikipediaより
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桶狭間村[注 1]は南北朝時代の1340年(興国元年・暦応3年)、南朝の落武者によって開拓されたという。
桶狭間村と鳴海村の間は人家のない地域であったが、東海道を整備していた尾張藩が東海道沿いのこの地域に新たな村を開くことを計画。1608年(慶長13年)、知多郡全域に高札[注 2][注 3]を掲げこの地域への移住を呼びかけて開かれた村が有松村である。開村当初は桶狭間村の一部扱いであったが、江戸時代初期に有松村として分立している。
有松村は農作地が少ないこともあり、新たな産業として興されたのが有松・鳴海絞りである。これにより有松村は発展し裕福になったという。有松は東海道の間の宿としても知られるが実際には鳴海宿に近いため、宿場町よりは有松・鳴海絞りを製造販売する商工業の町として賑わったという。
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写真の右半分は、橋爪合資会社
有松絞りを行い、繊維製造元、卸を行う会社です。
写真の左半分は有松山車会館
愛知県の山車まつりポータルサイトより)
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有松にある3台の山車のうち、1台を定期的に展示しています。
豪華な飾り付けをした山車を、身近にゆっくり見ることができます。
春季大祭(3月第3日曜日)、秋季大祭(10月第1日曜)の歴史資料等も展示されています。
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【寿限無茶屋と有松・鳴海絞り会館】
こちらは、 めん処 寿限無茶屋
寿限無茶屋 築後100年以上の古民家の店を利用しているそうです。
有松・鳴海絞り会館
10年前のブログ
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2009.1.27.
有松は昔ながらの町並みがよく保存されている町です。
また、有松絞りの街。あちこちの軒先に、「ありまつ」という絞りの暖簾がかかっていました。
有松鳴海絞会館に、いろいろな絞りが展示されていて、ベテランの女性数人が実演していました。
人によって、絞りのやり方が違うのだそうです。
手拭いや暖簾だけでなく、浴衣も展示されていました。
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有松・鳴海絞り会館
名古屋市緑区HPより
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有松・鳴海絞会館
ここでは展示と実演が行われている。
現在も昔ながらの伝統と技法で作られているが、その技法は70種余りもあり、奥が深い。有松は分業制で、模様は絵付屋、括り職人はひたすら布を括る。
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【服部家住宅と蔵】
服部家住宅と蔵
服部家の説明の前に、有松の家屋について。
名古屋市緑区HPより
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有松の歴史と沿革
有松は、慶長13年(1608年)に鳴海・池鯉鮒(知立)両宿の間宿(あいのしゅく)としてつくられました。耕地も少なく、茶屋集落としての営みにも限界があったため、尾張藩の奨励によって副業として絞染を工夫しました。この有松絞は、東海道の旅人にもてはやされ、有松は繁栄を誇りました。
天明4年(1784年)の大火からの復興の際、火災に備えて漆喰による塗籠造(ぬりごめづくり)や卯建(うだつ)が取り入れられた建物がつくられました。今も当時の面影を残した豪壮な町屋がたち並ぶ、全国的にも有名な歴史的魅力あふれるまちです。
建築意匠用語の説明
1 塗篭造り(ぬりごめづくり)
壁や軒裏を土で厚く縫って、防火構造としたもの。
2 海鼠壁(なまこかべ)
土蔵造りの建物の外壁仕上の一つ。方形の瓦を並べ四隅を釘止めとし、目地に漆喰を塗り上げてその断面を海鼠形にしたもの。耐火性の強さから民家の土蔵造りの腰壁に使われるようになった。
3 虫籠窓(むしこまど)
町屋の厨子2階に開けられている窓で虫籠格子を持っているもの。通気孔と。して開けられたのが、その発生と考えられる。虫籠格子とは、窓枠や格子木の4寸角の材を6つ割にしたものを心にして縄を巻きつけたものを格子として土を塗って作る。後に、漆喰塗りとして防火構造にした。
4 卯建(うだつ)
近世民家、特に町屋において、建物の妻側に設けられた小屋根付の袖壁。隣家と互に接して立ち並ぶ町屋では、卯建をあげることで屋根のけら場を隣家に出すことなく収め、狭い土地を有効に利用することが出来た。また、壁面を土で厚く塗って小屋根を瓦葺きにすれば、防火の効果もあった。
5 土庇(どびさし)
絞の店頭販売のための庇の巾は半間あり、下が土間であるため「土庇」と呼ばれている。
6 懸魚(げぎょ)
破風(はふ)の拝(おがみ)の下又はその左右に取り付ける装飾
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▲ 服部家住宅(県指定有形文化財)
▲服部幸平家住宅、倉(県指定有形文化財)
緑区HPより
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服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、井桁屋を屋号とする。屋敷地は、東海道に面して広い間口を有し、中央部に二階建ての主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など合わせて11棟が指定文化財となっている。 有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として価値のある遺構となっている
土蔵も文化財である。連子格子・なまこ壁・虫籠窓・塗ごめ造り・卯達と当時の防火対策を今に残している。
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【竹田家と庄九郎バル】
写真の町並の左端に「庄九郎」の看板が見えますが、拡大した写真がこちら。
庄九郎 カフェ&バル で、市指定有形文化財の竹田家の離れを利用しています。
▲竹田家住宅(市指定有形文化財)
緑区HPより
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竹田嘉平衛商店~竹田邸 市指定文化財
知多郡から移住した竹田庄九郎が、慶長年間(1596~58)に築城工事に来ていた豊後の人が着用していた絞り染から九々利染めを考案したのが始まりとされる。
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【加茂季鷹歌碑と唐子山車庫】
こちらの写真は、 有松まちづくりの会のHPに書いてあった歌碑のひとつです。
「 上代より千世の契りや
有松の 千しほ八千しほ
くくり染けむ
加茂季鷹 」
加茂季鷹
デジタル大辞泉より
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かも‐の‐すえたか〔‐すゑたか〕【加茂季鷹】
[1754~1841]江戸後期の国学者・歌人。京都の人。本姓は山本。号、雲錦。上賀茂神社の神官。著「万葉集類句」など。
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唐子山車庫
有松まちづくりの会HPより
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有松には、「布袋車(東町)」、「唐子車(中町)」、「神功皇后車(西町)」の3台の山車があります。
これらは、有松の氏神、有松天満社の秋季大祭(10月第1日曜日)に曳き出されます。昔の町並みを残す有松東海道を曳行される姿は、誠に勇壮で風情があります。道中の随所でからくり人形の演技が披露されます。
3台の山車は、昭和48年(1973年)名古屋市の有形民俗文化財の指定を受けていましたが、平成26年、祭り全体が名古屋市指定無形民俗文化財となりました。
有松山車会館では山車1台を毎年交代に展示をし、土、日、祝日に公開をしております。
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この写真は 松柏苑
デイサービスなど、介護施設 です。
【河竹小路とアイコ16歳】
案内板
「河竹小路 かわたけこうじ
―町屋の間を抜ける趣のある道―
絞り商河村竹次郎に因んで名付けられ、小路の両側には、今もその子孫が住んでいます。
映画『アイコ十六歳』の撮影現場。小路の中ほどから眺める東海道は、いにしえの風情。 」
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『 1980アイコ十六歳』(1980あいこじゅうろくさい)は、堀田あけみの小説。名古屋を舞台に、弓道部に所属する高校生三田アイコの学園生活を描いた物語。堀田は愛知県立中村高校在学中の1981年、本作により当時史上最年少の17歳で文藝賞を受賞した。単行本は同年12月に河出書房新社より出版されている。
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映画は、富田靖子、松下由樹のデビュー作だそうです。有松でもロケが行われています。
【岡家 小塚家】
岡家住宅
岡家住宅(市指定有形文化財)
緑区HPより
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岡邸 市指定文化財
江戸末期の建造で重厚な建築物で、一棟の建物としては有松で一番大きなものである。主屋1棟・作業場1棟・蔵2棟の構成で、連子格子・なまこ壁・虫籠窓・塗ごめ造りが残る。2階のひさし下の塗ごめ造りが波状になっているのがこの家の特徴。
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名古屋市HPより
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有松の東海道沿いに位置する岡家住宅は、かつて絞商を営んでいた建物です。
主屋は有松でも最大級の規模を誇り、改造も少なく、江戸時代末期の重厚な有松の絞商の建築形態をよく残しており、市指定有形文化財に指定されています。
所有者から名古屋市が借用し、令和元年6月1日から建物公開を行っています。
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今年の6月1日から岡家は建物公開しているんですね。
私が有松を訪れたのは5月29日。いやあ、惜しかった。
神功皇后車(西町)山車庫
小塚家住宅(市指定有形文化財)
緑区HPより
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小塚家 市指定文化財
1784年の天明の大火後に建造された。主屋1棟・蔵2棟・茶室1棟の構成で、連子格子・なまこ壁・虫籠窓・塗ごめ造り・卯達が見事なまでに整った建物である。
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【東海道二代目松と梅屋鶴寿】
9:22 東海道二代目松の碑
村に最初から生えていたといわれる樹齢300年の松の古木があったが、初代の松が枯れて現在二代目が植えられている。
梅屋鶴寿の歌碑
「あり松の
柳しぼりの
見世にこそ
しはしと人の
立ちとまりけれ
梅屋鶴寿 」
梅屋鶴寿
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うめのや かくじゅ、享和元年(1801年) - 元治2年1月12日(1865年2月7日))とは江戸時代末期の狂歌師、秣商。
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【地元の人達で復元した有松一里塚】
9:24 有松一里塚跡
これは、2012年3月に、地元の人々の手によって復元されたものだそうです。
「中日旅行ナビぶらっ人」より
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2012年2月
有松絞で知られる名古屋市緑区有松の旧東海道に大正時代まで残っていた「一里塚」の復元が進んでいる。3月末の完成を控えて3日、地元の住民団体によるオカメザサの記念植栽があった。
【この記事に関連する旅】
「愛知」の旅だより
江戸時代に東海道の目印として一里(3.9キロ)ごとに置かれた一里塚の一つ。地元有志が国土交通省に要望し、有松の西端に開通した名古屋第二環状自動車道(名二環)の高架橋下の空き地に、90年ぶりに復元されることになった。
古地図の絵を基に設計した一里塚は直径9メートル。記念植栽には住民50人が参加し、斜面に100本の苗を植えた。
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9:33 名残の松
9:35 神明社
室町時代の創建で伊勢神宮の分祀社。
大昔は鳴海潟が展望できた景勝の地で伊勢遙拝の好適地だったそうです。
2度目の東海道16日目の2(鳴海宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/27/083653