2度目の東海道15日目の6
5月28日(火)の6
【 一里山と洞隣寺の怪奇といもかわうどん】
15:08 刈谷市に入りました。
この歩道橋の足元に、一里塚跡がありました。
案内板
「 一里塚
慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松などを植えて一里塚を築かせた。この地は松であったと言われる。国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。
ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。
15:35 洞隣寺
洞隣寺(とうりんじ)
案内板
「 洞隣寺
曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山と言われ、開基は刈谷藩主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り口にある常夜灯は、寛政8年(1796)の年号がが刻まれている。
墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある。
「めったいくやしいの墓」とは?
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ぐるり東海(6) 【旧東海道通信簿】
刈谷・今川地区の洞隣(とう・りん)寺には「めったいくやしいの墓」がある。寺の言い伝えによると、昔、洞隣寺の下働きに不美人だが気立ての良いよく働く娘がいた。別の寺の青年僧に恋をしたものの相手にされず、娘は片思いのまま食が進まず、亡くなってしまった。洞隣寺に葬られたが、墓石から青い火の玉が出て「めったいくやしい」という声とともに青年僧の寺に飛んでいったという。
「めったいくやしい」というのが、本当に悔しそうだ。墓は小さな石で、名前も何も彫られていないのがかえって哀れを感じさせる。
隣には、中津藩(今の大分県中津市)の藩士2人の墓もある。帰国途中にけんかをして斬り合い、亡くなったという。生前の恨みから二つの墓は互いに反対側に傾いたが、村人が手厚く葬り直してから傾かなくなったという。
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15:36 いもかわうどん発祥地
いもかわうどん
案内板
「 いもかわうどん
江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの話がよく出てくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
芋川うどん wikipediaより
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芋川うどん(いもかわうどん)は、三河国芋川(現愛知県刈谷市)で名物だった、平打ちのうどん。
『東海道名所記』(浅井了意)に三河の芋川の名ひらうどんについて記述が見られ、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)には今岡村のいもかわに名物の麺類がある旨の記述があり、『好色一代男』(井原西鶴)にも芋川という里に平打ちうどんという名物がある旨の記述がある。『嬉遊笑覧』(喜多村信節)では江戸の「紐革うどん」は芋川うどんが訛ったものと推測されている。芋川の場所については、現刈谷市の今川町、今岡町、一里山町と諸説がある。
愛知県名古屋市名物きしめんの起源は、この芋川うどんであるという説が有力である。『守貞謾稿』(喜田川守貞)にも、江戸で平打ちうどんを「ひもかわ」と呼ぶのは紐革ではなく芋川の訛ったもので、名古屋ではきしめんと呼ぶ旨の記述がある。また、群馬県桐生市名物ひもかわうどんは、芋川うどんが訛ったものとも伝えられている。
芋川うどんは明治時代に途絶えていたが、刈谷市の地域おこしグループが、試行錯誤の末の2007年に復活に成功した。
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【乗願寺】
15:40 乗願寺
乗願寺
案内板
「 天正15年(1587)の創建で、はじめ地蔵寺といった。当初は真宗を内に、表向きは浄土宗としていたが、後に真宗木辺派に改めた。本堂に刈谷城主〇〇〇〇(名前が消されている)の位牌がまつられている。
15:43 きれいな格子の家
15:50 今川歩道橋
今川歩道橋渡ります。
【境橋】
16:05 境橋
境橋
案内板
「 境橋
慶長六年(一六〇一)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋が架けられた。
この橋は中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。
やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって、欄干つきになった。」
土橋
浮世絵の土橋の説明
江戸時代の土橋の例 - 歌川広重『名所江戸百景』より「小梅堤」。曳舟川にいくつもの橋がかかっている。手前の橋に土橋の構造が見てとれる。こうした小規模の橋はたいていこうした造りであった。
土橋 wikipediaより
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土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には木の橋の一種で、橋面に土をかけてならした橋である。城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤である。
[解説]
丸太を隙間なく並べて橋面を作った場合、橋面が凹凸になる。そのままでは歩きにくいので、そこに土をかけて踏み固めると、へこんだ部分に土が詰まって平らになる。これが土橋である。江戸時代まで日本の川にかかる橋の圧倒多数は土橋で、かなり長い橋もこの方式で作られた。板を橋面にした板橋は重要な少数に限られ、石橋はごく僅少であった。木橋が激減した現代では、一般の道で土橋をみかけることはないが、山の中や自然公園の中には名もない小さな土橋が作られることが多い。また、地名として土橋が日本全国に多数残る。
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16:11 伊勢湾岸自動車道の高架をくぐりました。この頃、雨は結構降ってました。
【阿野一里塚跡】
16:29 阿野一里塚跡
こちらは道の左右両側の一里塚を一緒に入れて撮った写真です。
コトバンクより
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あのいちりづか【阿野一里塚】
愛知県豊明市阿野町にある一里塚。東海道交通の要衝を担う鳴海(なるみ)、池鯉鮒(ちりゅう)間の街道両側に2基残っており、日本橋から86番目の一里塚。1604年(慶長9)、徳川家康が永井白元と本田光重に命じて街道両側に築かせたもので、往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以後、次第にその価値を失った。右塚と左塚の両塚が現存する例は珍しいことから、1936年(昭和11)に国の史跡に指定された。池鯉鮒宿は江戸時代に東海道の宿場町として発展し、かつて馬市が立つ宿としてにぎわい、カキツバタの群生地としても知られた。鳴海宿は城下町ではなかったが、宿場中央で街道が急角度に屈曲しているのが特徴だった。現在は柵で囲まれて小さな公園のようになっている。
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東海道の一里塚跡で、国指定史跡になっているのは4つだけ。
■大平一里塚:愛知県 岡崎市 南塚のみ
■阿野一里塚:愛知県 豊明市 両塚残る
このように、両塚ともに残っているのは、三島市(箱根西坂)の錦田一里塚と、この阿野一里塚のみです。
阿野一里塚跡は昔から塚ではなく平らだったのかなあ。
それから、何の木が植えられていたのかなあ。
この2つが疑問です。
ネットで写真をいろいろ見たら、桜が咲いている写真がありましたが、それなら桜と書かれるだろうから、昔ながらの木は今はもうなく、今は公園なので桜を植えたのかなあ。
中山道の御代田の一里塚は垂れ桜だったなあ。
【東海道道筋道標】
16:45 旧東海道筋道標
道標刻字
案内板
「●道標刻字
東面 南無阿弥陀佛
西面 文化四丁卯年
南面 是 ゟ くつかけ 祐福寺
さなけ ふくた原 道 」
「西面の刻字は、読み取りにくい状態ですが豊明市史では『文化四丁卯(ひのとう)』と記されてきます。文化四は、一八〇七年になります。
南面の刻字は、『 是ゟ(これより) くつかけ、祐福寺、さなけ、福田原 道 』とあります。ふくた原は現在のみよし市です。
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ゟは、平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた平仮名のひとつ。「より」と発音される。 近世から近代の日本で使用されており、主に手紙の差出人の末尾に使用される。
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東面「南無阿弥陀佛」
西面「文化四丁卯」
南面「 是ゟ くつかけ 祐福寺
さなけ ふくた原 道」
「くつかけ」は、豊明市沓掛町。
「祐福寺」は、愛知県愛知郡東郷町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。
「ふくた原」は、みよし市。
「さなけ」は、猿投(さなげ)かな?
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猿投町(さなげちょう)は、かつて愛知県西加茂郡にあった町。現在の豊田市の一部である。
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【交通安全祈願の札】
16:46 旧家
「左の屋根に注意 交通安全祈願」
という看板を立て、問題の左の屋根の箇所に「安全祈願」の札が貼ってあります。ユーモアなのか、本当に安全を願ってなのか。
古い家は、壊れたり崩れたり、危険な箇所も出てくるでしょう。その時、ただ壊したり新しくするのではなく、このように工夫して残していってほしいと思うのは、当事者ではないただの旅人の我が儘なのかな。
でも、残していってほしい。
16:51 常夜燈
17:05 中京競馬場入り口
この後、17:06に中京競馬場前浴に着き、全身濡れていたのでトイレで着替え、電車で刈谷に行き、パークホテル苅安QSに泊まりました。
本日の歩数 51,866歩 31.6km
東海道五十三次歩き第16日目(桶狭間古戦場と間の宿有松)に続く
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