紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き21日目後半の1(大津宿 大津駅から大津と京都の境まで)

2度目の東海道21日目後半の1

7月10日(水)の4

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【大津の老舗と露國皇太子遭難と札の辻での選択 】

草津駅から電車で移動。

15:23 大津駅

中央通りの坂を下り、旧東海道と中央通りの交差点には交差点名が付いていない。案内地図がちょうどあったので、よくよく眺めて間違えないように旧東海道に入りました。

道幅が、落ち着く狭さ。

右側に御饅頭処「餅兵(もちひょう)」がありました。15:29
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看板には梅村商店と書いてあり、店主は梅村さんなのですが、正式店名は「餅兵」。

宝暦年間(1751年ごろ)、餅屋兵祐(もちやひょうすけ)の創業だそうで、餅屋兵祐から「餅兵」と付けられたそうです。
江戸時代東海道を旅する旅人の憩いの場だったそうで、当時は店の前に床几を出していたそうです。

「餅兵」のほぼ向かい側に、森野すだれ店 よし工芸品の店がありました。
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帰ってから調べたら、森野すだれ店は近江八幡産のよしを使った簾の老舗なんですが、本店は大津市際川二丁目、最寄り駅南滋賀駅で、私が見た京町店は、なんと閉店!

写真で見ると、引き戸が少し開いていて、籠などを売っているように見えるのですが。

15:31 此附近露國皇太子遭難之地碑
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此附近露国皇太子遭難之地

(説明板)

「 露国皇太子遭難地の碑

明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた『大津事件』の発端となった場所。
当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。
大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、『司法権の独立』を貫き通しました。

   大津まちなか元気回復委員会 」


津田巡査を死刑にしようとする政府と、法律は曲げられないと言う司法の争いがありましたが、法律は国家の精神なりと、児島大審院長が司法を守ったことに意義があるそうです。


当時小国だった日本は、大国ロシアからの報復を恐れ、いち早く明治天皇が京都へ緊急行幸してロシア皇太子を見舞うなどの誠意を見せたことや、ロシア側が日本に友好的だったことなどから、ロシアからの報復措置はなかったそうです。

犯人の津田三蔵の動機、津田が死刑ではなく無期懲役刑になった経緯など、気になる方は、大津事件で検索してみてください。

さて、京町一丁目の交差点。ここは札の辻跡でもあります。

ここで、私は思わぬ選択に迫られました。

10年前の東海道歩きの時も、9年前の中山道歩きのときも、そんなこと書いていなかった気がするし、私が気づかなかっただけなのか、なんと、東海道は札の辻から二方向に分かれているではありませんか!

小関峠越え。そんな道があったんだ。

今まで歩いた逢坂の関越えの道がやはり本道で、小関越えは裏街道みたいですが、でも、もっと早く気づけば下調べもしたのに、札の辻でその選択に迫られるとは!

でも、知らない初めての峠越えで薄暗くなると危険だから、今日は本道の逢坂の関に行きましょう。

石部の先の五軒茶屋道と、この小関越え、また歩きに来たいな。

よく知っている、逢坂の関に向かって坂道を上りましょう。


【蝉丸神社下社と安養寺】

15:46 蝉丸神社下社
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写真のように、線路を渡った向こうに蝉丸神社下社があります。
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蝉丸神社は、ここ下社と、もう少し行った先にある上社と分社、三ヶ所から成ります。写真1の右側に、「音曲芸道祖神」とありますが、盲目の琵琶法師蝉丸は、音曲芸の祖神としてあがめられています。

蝉丸神社については、この先にある分社に説明板がありましたので、そこで改めて書きたいと思います。

15:48 安養寺
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安養寺の前には、安養寺の説明板と、逢坂の説明碑文と、蓮如上人旧跡碑があります。
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案内板
「 関寺旧址

逢坂山 安養寺

本堂には重要文化財阿弥陀如来坐像が安置されている。
また同寺は、蓮如上人の旧跡で、「上人身代わり名号石」が残っている。
なお、境内の「立聞観音」は古く東海道名所図絵等に記載されて有名である。

大津市産業観光部観光振興課 」


石碑案内文
「 逢坂 (おうさか)

日本書紀』によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのうちのすくね)がこの地で忍熊王(おしくまおう)とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝(ようしょう)で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。 」

蓮如上人身代名号石は、本願寺大谷廟を訪れた蓮如上人は焼き討ちに遭い、逃げる途中、逢坂山を越え、安養寺まで来た時、追手に長刀を振りかざされ、やむなく安養寺門前の石の陰に隠れたところ、石は長刀の振り下ろされる角度に合わせて右、左と動き、蓮如上人の命を救ったと言われています。後に蓮如上人が、この石に「無礙光如来(むげこうにょらい)」と刻んだそうです。

帰命尽十方無礙光如来 とは、南無阿弥陀仏と同じで、阿弥陀如来のことだそうで、南無阿弥陀仏は六字名号、 帰命尽十方無礙光如来は十字名号と云うそうです。 (因みに、南無不可思議光如来を九字名号と言うそうです。)

立聞観音は、蝉丸の琵琶の音色に毎夜聞き惚れる僧侶の後をつけていくと、安養寺の観音堂の中に姿を消してしまった、(観音様が毎夜僧侶の姿で蝉丸琵琶を聞いていた)という話が伝わっているそうです。


【逢坂一丁目横断歩道と蝉丸神社上社】

今、進んでいる道は、国道161号線から国道1号線に入って、交通量も激しく排気ガスも臭くて、しまった、小関越えだったら、もっと静かな道だったのかな?と思いました。さらに、今までちゃんとした歩道があったのですが、ここに来て、歩道がなくなり、危ない。
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というわけで、必然的に歩行者用信号押しボタンを押して、暫く待って、逢坂一丁目の横断歩道を渡って国道1号線の左側の歩道に移りました。
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次の横断歩道の右側に、蝉丸神社上社が見え、ここでまた押しボタンを押して右側に渡りました。
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左側を歩いていたのは8分間ぐらいでした。


弘法大師堂 常夜燈】

15:59 弘法大師
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なぜここに弘法大師堂があるのかの由来はわかりませんでした。

16:00 逢坂常夜燈
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【逢坂山関址】

16:04 逢坂山関址
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絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。

子どもの頃、お正月と言えば母方の祖母の家で過ごし、大人が話し込んでいる間、暇潰しと言えば百人一首でした。主に坊主めくりでしたけどね。

たまにみんなで百人一首でかるた取りをしましたが、大人にはとても歯が立ちませんでした。

それでも、いくつかの歌は覚えました。

そんなわけで、逢坂の関と言えば、清少納言や蝉丸の歌で耳慣れていて、だから、10年前初めてここに立った時は感動しました。


滋賀・びわ湖観光情報より

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京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立っています。
 逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道東山道北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。
 古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集古今集に多く残っています。中でも「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」という蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられて広く親しまれています。また、大津八景「関寺(せきでら)の晩鐘(ばんしょう)」「逢坂(おうさか)の暮雪(ぼせつ)」では、厳しかった逢坂越での美しい景観がうかがえます。
 実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近であったのではないかといわれています。
平成21年春、逢坂の関記念公園が完成し、現代に旧東海道を旅する人々の憩いの場となっています

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【逢坂の関の歌碑と大津絵販売之地碑】

逢坂山関址には、3つの歌碑があります。


右端は清少納言の歌碑
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「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」

『後拾遺集』夜がまだ明けないうちに、鶏の泣き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)


真ん中は三条右大臣の歌碑
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「名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」

後撰集』恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」、その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。


左は蝉丸の歌碑のはずなんですが、今回は草に埋もれて見ることが出来ませんでした。10年前には見ました。

「是れやこの行くもかへるも別れては知るもしらぬも逢坂の関」

後撰集』これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うという有名な逢坂の関。

三つの歌碑の隣にはトイレも設置されています。

少し進むと右側に「大津絵販売之地」碑。
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大津絵販売之地(碑文)

「此の附近(逢坂関跡)
大津絵販売之地 浜大津ハン六 二代目六兵衛(絵)

平成二十五年(巳歳)正月建之 」


大津絵 wikipediaより

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大津絵(おおつ-え)とは、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。

大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。

歴史

東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。

松尾芭蕉の俳句「 大津絵の筆のはじめは何佛」には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れている。また、江戸時代初期のキリシタン弾圧に際して「自分は仏教徒である」という隠れ蓑的役割も有していたと言われる。

江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。

特徴

神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。

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【「かねよ」と蝉丸神社分社】

16:07 かねよ
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今は鰻店ですが、昔は峠の茶屋だったそうです。

16:08 蝉丸神社分社
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こちらに蝉丸神社の説明板の碑がありました。
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案内板(石碑)
「 蝉丸神社の由緒

当社は天慶九年(九四六年) 蝉丸を主神として祠られています。
蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され当宮の免許により興行したものです。その後、万治三年(一一六〇年)現在の社が建立され街道の守護神猿田彦豊玉姫命を合祀してお祠りしてあります。

これやこのゆくもかへるも
わかれてはしるも
しらぬもあふさかの
せき 蝉丸 」

【大津算盤と走井の茶屋と一里塚跡】

16:15 大津算盤の始祖碑
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碑文
「 大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

江戸時代、東海道筋のこの辺りで売られていた大津算盤は、慶長十七年前は(一六一二) 片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の両方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお、昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。 」


そして、この先に月心寺があったのですが、何かのお店かな、と勘違いして写真を採らずに通りすぎてしまいました。

月心寺

月心寺は、現在は臨済宗の寺院ですが、かっては走井の茶屋として繁盛していたそうです。歌川広重の「東海道五十三次」にも走井の茶屋で旅人が休憩している様子が描かれています。月心寺の境内には今も枯れることなく名水が湧き出ているということです。国道1号線や東海道本線の開通により街道が寂れ、茶屋も廃れますが、それを惜しんだ日本画家の橋本関雪が別邸とし、その後現在の寺院になったということです。

貼り付けた浮世絵は広重の大津の絵ですが、走井の茶屋と、荷物を運ぶ牛車が描かれています。
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16:16 道標
「右 一理丁 左 大谷町」
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この辺りに、大谷の一里塚があったそうです。日本橋から123里目。


大津市と京都の狭間で 綾亀との出逢い】

16:25頃、藤尾交番(大津市)を目印に、交番の左側の道に入りました。

この時、私と同方向に向かう車線、つまり、大津側から山科側に向かう車線が渋滞中。

と、この時は思ったのですが、この後、その感覚が間違っていたことを知りました。

この時は、そんなに重要と思っていなかったので、交番の写真を撮らなかったのですが、撮っておけばよかった!

この交番が結構キーなので、藤尾交番の写真、探してきました。

大津市藤尾交番の画像は、
4travel 「 どうなってんの? 京都市大津市のややこしい境 」というブログからお借りしました。
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ちょうど、このブログでも、この界隈の大津市京都市の境がややこしい、という話題だってので、お借りします。

実は私、この先の追分までは、大津市だと思っていました。

ところがところが、違ったんです。

歩いていたら、私よりはお姉さま、の女性から、

「どこからいらしたんですか?」と声を掛けられました。

「神奈川県からです。今日は水口から歩き始めましたけど」

「そんな、遠くから、よくいらっしゃいましたね。」

と、手招きされました。

10年前の、白須賀の潮見坂下のHappyおばあちゃんを思い出しました。

手作りの旅のお守りをくださる、というのです。組紐の綾亀。
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実はお店で買ったら高いものなんです。でも、ご好意で、いただきました。リュックに付けてくださいました。
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あのお地蔵さまのよいご縁が結ばれたから、と思いました。

組み紐のお姉様の家は道の左側。この時、このお姉さまから教えていただきました。さっきの交番から、道の右側(北側)は大津市、道の左側(南側)は京都市

お姉さまのお宅は京都市なんです。

この道を通るのは3回目なのに、初めて知りました。

旅のお守りをせっかくいただいたのに、東海道五十三次歩き旅は今日で終わりです。

でも、Happyおばあちゃんの草鞋が10年経った今もお守りであるように、この綾亀も、この先ずっと私を守ってくれると思います。


2度目の東海道21日目後半の2(京都三条大橋まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/09/212222



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/165621

2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/171837

2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026


東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457

東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405