2度目の東海道18日目の3
6月14日(金)の3
【石薬師宿を離れ、庄野宿へ】
人家を離れ、いかにも田舎道を歩きます。
10:44 庄野宿→
石薬師宿↓
この道標、素敵です。
先 ほどの素敵な道標を右に曲がってこちらの写真の道を歩いている頃、雨がやみました。
歩きやすい緑の道が、さらに輝いていました。
10:56 shell(ガソリンスタンド)で国道1号線に出ました。
【個室感のある歩道】
歩道と車道の間に緑の分離帯があって、写真2のように歩道というよりは田舎道を歩いているような感覚。居酒屋の、個室ではないのに個室感のある席みたいな。
上の写真をよく見ると、ちょうど中央辺りには車の屋根が見えていて、田舎道ではなく、緑の分離帯の向こうは国道であることがわかります。
11:12 庄野町北交差点
ここを右折して、庄野宿に向かいます。
【庄野宿入り口】
庄野資料館→ の道標
11:14 庄野宿 案内板
案内板
「 庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿に比べ宿立ては遅く、寛永元年(一六二四)といわれている。
この宿は、『草分け三十六戸、宿立て七十戸』といわれて、鈴鹿川東の古庄野から移った人たちを合わせ、七十戸で宿立てをした。南北八丁で宿八口の加茂町中町上町からなる。
歌川広重の描く『庄野の白雨』は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。 」
案内板の左側に、広重の『庄野の白雨』です。
庄野宿の道標
この辺りで中学生に挨拶されました。やはり嬉しいです。
中学で道で行き合った人にはあいさつするように指導しているのでしょうが、恥ずかしいかもしれないけど頑張って挨拶してくれて感動します。
大人も見習わなくちゃね。
東海道を歩いていると、普段よりも、道ですれ違う人に挨拶します。
【庄野の白雨】
広重の「庄野の白雨」を私風に描いたのが1枚目の絵手紙。
庄野の町を歩いていると、10年前に来たときは、風花が舞っていたなあ、と思い出します。
11:17 筧口山(けんこうざん)善照寺
善照寺HPより
善照寺の歴史
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
長禄年間(1457~1460)に平田地内筧口と称する所に、善正法師(大永3年入滅)が善照寺を開基した。初めは天台宗であったが、高田派第十世 真慧上人の化導によって真宗高田派に改宗し、今日に至っている。
庄野町は東海道五十三次の一駅として発展した。宿駅の繁昌と関連して、九間四間、入母屋造りの本堂は寛政年間(1795年頃)に建立された。
第十二世 智丈 第十三世 秀泰は学僧として有名であり、鈴鹿市の無形文化財である大念仏踊の歌詞『一ツとかしょ ひとり生まれて ひとりゆく さても はかなき この世かな』以下略。は智丈、又は秀泰の作と伝えられていて、昭和9年 第十六世 蓮橋が訂正して現在の歌詞となっている。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
【庄野宿資料館】
11:19 旧小林家住宅(庄野宿資料館)
案内板
「 庄野宿
資料館
開館時間
午前十時〜
午後四時
休館日
月・火曜日
第三水曜日・年末・始
入館料 無料
庄野宿資料館
運営委員会 」
トイレに行きたかったので、資料館のトイレを借りようと思ったら、閉まっていて借りられませんでした。
10年前も閉まっていました。
今日は休館日じゃなかったんどけど。雨だったから、誰も来ないと思ったのかな。
【問屋場跡と本陣跡】
11:21 問屋場跡
案内板
「 問屋場跡
問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。
問屋二名 年寄四・五名が半数ずつ交替で詰めた。
主な任務は公用書状の継立(つぎたて)
往来者の要望に応じて人足 馬の割振り
助郷村村への人場の割当て 沈錢 会計であった。 」
この案内板の最後の方、「助郷村村への人場の割当て」は、「人場」ではなくて「人馬」ではないかと私は思うのですが、特別な言葉でそれでいいのかもしれないので、「ママ」で出します。
11:23 本陣跡
[ふ]
本陣跡のある、庄野町集会所には、「距津市元標九里拾九町」の石標もありました。
【高札場跡、郷会所跡】
11:23 高札場跡
案内板
「 高札場跡
高札場は法度(はっと) 掟書(おきてがき)などを書いた『高札』を掲示した場所で各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた
庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった
庄野宿資料館には人馬金錢の規定 人倫の奨励 その他禁制など実物五枚が展示されている 」
10年前のブログ(2009.1.13.)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
暫く行くと、高札場跡の古い看板。他の案内や碑が、東海道制定400年記念に平成16年に作られた中で、この高札場跡の看板だけが字が読みにくくなるほど古いものでした。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
とありますが、さらにその後、すべてを新しくしたみたいですね。
11:24 郷会所跡
案内板
「 郷会所跡
郷会所は助郷の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎〔きもいり〕)が集会する場所であった
江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり 減免陳情のための会合が繰り返された
庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている 」
東海道を歩いている方々のブログを見ていると、庄野宿は昔の面影が残っていない、と書いている方が多いんですが、写真のような昔ながらの家も残っています。
【川俣神社と樹齢300年のスダジイ】
11:26 川俣神社
庄野宿資料館からずっとトイレに行きたかったので、川俣神社にトイレがないか探したらありました。トイレをお借りしてから、ゆっくりスダジイ見物。
案内板(上側)
「 川俣神社のスダジイ
昭和四十四年三月二十八日
三重県指定天然記念物
スダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。
葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒でかたい。
この樹は高さ約十一メートル、地上の幹周り約五メートルの巨木である。
案内板(下側)
「 スダジイ 椎の木
樹齢推定・三百年
昭和44年県天然記念物指定
川俣神社 東海道庄野宿 」
10年前のブログ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
庄野には三つの式内川俣神社があります。
ひとつめの川俣神社には、県指定天然木のスダジイがありました。樹齢300年。立派です。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
11:32 写真の提灯のかかったお宅の前にベンチがあり、そこに荷物を置いて雨具を脱いで、リュックに入れました。傘だけは出しておきました。
【分かりにくい看板】
11:40頃、今は昔の東海道が失われてしまったため、進み方が複雑な場所にでました。
写真の進み方の看板を写真に撮って、見ながら進んだのですが、この看板は分かりにくくて、ガイド本(「ちゃんと歩ける東海道五十三次」)に書いてあるように、高架下は信号通りに歩きました。
10年前はもっと複雑でした。
10年前のブログ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
2009.1.13.
宿外れまで、15分で来てしまいました。
その先で国道に出て、前を横切る車道の橋への上り坂の下をくぐり、すぐ右に曲がります。
しかし、JUSCOの看板の立つ小さな空き地を巻くようにした、冗談みたいなカーブで国道に戻るみたいで、本当に「何の冗談?」と思いきや、国道をくぐるトンネルに入って、国道の向こう側に出る、という寸法。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
11:54 右側に「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)の碑。そして、その右隣に山の神もありました。
先ほどの 「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)の碑と山の神の道の反対側(進行方向から言うと道の左側)
に、神戸領界石がありました。
その奥にも写っていますが、正面から見たのがこちらの写真。女人堤防碑。
【女人堤防碑】
11:54 女人堤防碑
案内板
「 女人堤防碑文
この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、完全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人命を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。
この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による救罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。
茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ
篆額 三重県知事 田中覚 書 出撰並書 水谷潔
昭和三十三年四月 」
天晴れな女性たちの身を犠牲にしての働き。菊女ひとりが犠牲になっただけですんだと考えるか、もう一日あれば、菊女もしなずにすんだと考えるか。でもそれも、家老松野清邦が死をもってイサメタおかげ。
誰も死なずにはすまなかった出来事ではあったけれど、女性だけで夜中に六年をかけて堤防作りをした、その偉大さに手を合わせずにはいられませんでした。
その少し先、田んぼに白鷺が飛んでいました。
【中冨田一里塚跡】
12:03 二つ目の川俣神社のところに、中冨田一里塚跡があります。
中冨田一里塚の案内板はメタリックみたいな地の案内板(仮にこちらを案内板1とします)と、黒地の石板っぽい案内板(仮にこにらを案内板2とします)、ふたつの案内板が立っていました。
中冨田一里塚
案内板1
「 一里塚は 慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
江戸 日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
享和三年(1803年)に作成された『東海道亀山宿分間絵図』によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
その近くに『御馳走場』と書かれた家があり、当時 東海道を往来する大名行列を接待する場所であったと考えられ、現在も『東百里屋(ともりや)』という屋号で呼ばれている家がある。
この地から江戸へ約百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられる。
平成十三年十月
中冨田一里塚保存会
(東海道宿場伝馬制度四百周年記念)」
案内板2
「 中冨田一里塚
中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。
享和三年(1803年)に作成された
『東海道亀山領分間絵図』には、中冨田村川俣神社東隣に街道を挟んで『一里塚』が描かれている。大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成十三年十月
中冨田一里塚保存会
(東海道宿場・伝馬制度制定四百周年記念) 」
【常念寺、福萬寺、ひろせ道】
12:06 常念寺
案内板
「 冨光山 常念寺
天台真盛宗総本山西教寺末寺
承応年間(一六五二〜五四)智詮和尚の開祖とされ、本尊は阿弥陀如来である。
当時は現在地にはなく別の場所にあったが、安政元年(一八一八)の大地震により倒壊した。その結果、同じ村内にあって倒壊をまぬがれた平建寺を買収して現在地へ移転した。平建寺は山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺であった。
本尊は延命地蔵尊であり中冨田町の氏仏として信仰され、地蔵堂に祀られている。
毎年地蔵盆には町民が集い、初盆灯籠焼きなど盛大な会式が執行されている。
平建寺から伝わる『不許魚肉五辛入門内』『白浪山平建寺』の石柱が残っている。
明治三十二年宇田川妙教上人の発願により鐘楼堂が建立されたが太平洋戦争の時代に軍の命令による供出を余儀なくされ、永年むらびとに親しまれた鐘の音は止んだ。
梵鐘のなくなった鐘楼堂は、昭和十九年の東南海地震で倒壊し、土台石を残すのみとなった。現在地は麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受け、拡大されたが、その功績を後世に伝承するため境内に『麻生はつ屋敷跡』の碑が建っている。
昭和四十八年、壇信徒の熱意により誓吽上人代に現在の本堂が新築され、また平成三年には、地蔵堂と山門が新築され、現在に至っている。
平成十三年中十月
常念寺現住 大僧都 真章 誠 」
12:14 福萬寺
浄土真宗高田派金光山だそうです。
12:16 道標 ひろせ道
広瀬道への分岐の道標だそうです。
12:18 三つ目の川俣神社
鬱蒼とした感じでした。
2度目の東海道18日目の4(亀山宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/30/001805