岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の東海道五十三次歩き13日目の3(新居宿)

2度目の東海道13日目の3

5月21日(金)の3

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新居関所を塀の外から】

新居までの国道1号線の道は、道の右側を歩いている限り、歩道が広くて歩きやすい道です。

右側にJRの線路があって、保安区の方々が点検作業をしていたり、その向こうを時々新幹線が駆け抜けていきます。

雨はまだ上がりませんが、風はほとんどなくなったし、雨足もだいぶん弱まり、時々傘を閉じたり、また開いたり。

新居町駅には、学校帰りの高校生がたくさんいました。

新居町駅山頭火の句碑があったのですが、見当たりませんでした。

やがて、右側に見覚えがある堀割が見えてきました。

船場跡の復元です。
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新居関所前に着いたのは11:43

今回は塀の外から眺めるだけで見学はしませんでした。

こちらの2枚の写真は、新居町駅側ではなく、反対側にある門側からの写真です。
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【10年前の新居関所見学】

今回は外からし新居関所を見ませんでしたが、10年前には見学しました。

10年前のブログ

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新居町駅を過ぎ、新居関所前まで来たのが16:27。入り口に、入場受け付け16:30まで、とあったので、ヤバい、あと3分だ、と急いで入場券300円を買いました。

係の方たちも早く帰りたいだろうなあ、と思い、さささっと見学しました。

新居関所は、どこまでが現存でどこまでが復元か分かりませんが、箱根関所は埋もれていたのを発掘して全面的に復元したのに対し、新居関所は唯一現存する関所ということで、感動しました。

今日は、現存するものに幾つか出会えたこと、遠州は風が強いことが印象的でした。

番所の役人の人形
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離れた部屋のあらため女の人形
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箱根では、人見女と呼んでいたなあ。

本当は、面番所と繋がった部屋ではなく、別棟の女改長屋があったようですが、それは今後復元するようです。版画によると、あらため女が調べている女性は、少年のようななりをしていました。

時代劇で女性の旅人は女性らしい格好をしていますが、実際には少年風の格好をしていたのかなあ。


【渡船場など】

資料館はそそくさと飛ばして見て、関所を出ました。

入り口近くにある、池のようなお堀のようなものは、渡船場の復元だそうです。

船場から直に関所に入るということは、それは女性は姫街道を行きたいだろうなあ。

版画によると、あらため女の前で、女性の旅人は、着物をまくしあげて、下まで見せていましたからねえ。それはつらいです。

中庭の荷物石。
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【本陣跡など】

旅籠紀伊国屋資料館。
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じゃらん観光ガイドより

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紀伊国屋は新居宿にあった、紀州(和歌山)藩の御用宿です。建物は明治初めの再建ですが、随所に江戸期の建築様式を色濃く残し、平成13年(2001)に解体修理を行い、当時の風情を体感できる施設として公開しています。【湖西市指定有形文化財

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疋田八郎兵衛本陣跡(11:50)
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案内板
「 疋田八郎兵衛本陣跡

新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪百九十三坪で、門と玄関を備えていた。
八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約百二十家が利用した。
疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。
平成二十二年三月
湖西市教育委員会

飯田武兵衛本陣跡。
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案内板
飯田武兵衛本陣跡

飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え玄関を備えていた。
飯田本陣には、小浜、桑名、岸和田藩など約七十家が利用した。
明治元年(一八六八)の天皇行幸(ぎょうこう)の際に行在所(あんざいしょ)となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治十一年(一八七八)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治十八年(一八八五)、奥山方広寺に移築された。

平成二十二年三月
湖西市教育委員会


【寄馬跡、一里塚跡】

11:53 寄馬跡
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案内板
「 寄馬跡

江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と百匹の馬を用意した。
しかし交通量が多い場合には助郷(すけごう)制度といって、近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
この場所は、寄せ集められた人馬の溜まり場になったところである。

平成二十二年三月
湖西市教育委員会

そこから5分ほど歩いた右側に常夜燈
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さらに4分ほど歩くと道の左側に一里塚跡
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一里塚跡案内板
「 (前略)

ここには左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。 」

日本橋から69里目です。


【棒鼻跡】

12:06 棒鼻跡
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棒鼻跡との説明、10年前のブログがわかりやすいので載せます。

10年前のブログ

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説明板によると…ここが新居宿の西境で、棒鼻は一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て桝形をなしていました。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味ですが、大名行列が宿場に入るとき、この場所で先頭(棒鼻)を整えたので、棒鼻と呼ばれるようになったとも言われているそうです。

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2度目の東海道13日目の4(加宿橋本と元白須賀)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/25/061649