紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き14日目の3(御油宿)

2度目の東海道14日目の3

5月22日(水)の3

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御油一里塚跡と姫街道分岐】

14:33 御油一里塚跡
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10年前のブログ

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10時少し前に、御油(ごゆ)一里塚跡。

日本橋から76番目の一里塚だそうで、順調なら、私は一里塚跡の写真を今までに76枚撮ったはずだけれど、見逃したり分からなかったりも結構あったし、一里塚跡の案内がいっぱい出ていて、一ヶ所に何枚も費やした一里塚跡もありました。

その先に、姫街道の分岐がありました。見付宿で別れて以来(新居関所を回避する道)、久々の再会です。

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一里塚跡は私が見逃したものもありますが、大体この辺り、というだけで一里塚跡の無印はでていないところもあれば、今はどこかわからないから何も書かれていないところもあります。

姫街道分岐には、
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次の写真では、2つの道標も立っています。
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秋葉山三尺坊大権現道」(左側)

「國弊都廉神社是ヨリ凡二里卅町」(右側)


御油宿と花・ベルツ】


御油橋を渡ると御油(ごゆ)宿。
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若宮八幡宮
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花・ベルツゆかりの地
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案内板
「 花・ベルツゆかりの地

花・ベルツ(一八六四〜一九三七)は明治政府がドイツから招いた医師ベルツの妻となった女性です。日本での近代いがくの普及に尽力したベルツを支え、明治三十九年(一九〇五)に任期を終えたベルツとともにどいつに渡りました。国際結婚の先駆けとして、ベルツ死後もどいつに残りましたが、第一次世界大戦の勃発などがあり、大正十一年(一九二二)に帰国しました。当地は、花の父親熊吉の生家で、江戸時代に旅籠を営んでいた戸田屋のあった場所です。戸田家の菩提寺である西明寺には、花が建てたベルツの供養塔があります。

豊川市教育委員会

ベルツ博士は明治初期に内科医として多大な貢献をしたドイツ人だそうです。


【高札場跡・問屋場跡】

14:45 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

高札場とは、江戸時代に幕府や領主の法令・禁令などを墨書した板札を掲示した施設で、城下町や宿場など人目につきやすい場所に設置されました。御油宿の高札場は、この場所にありました。

豊川市教育委員会


14:47 問屋場
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案内板
問屋場

問屋場には馬や人足が常備され、旅行者や荷物などを、次の宿場へ継ぎ送る業務が行われていました。御油宿の問屋場は、この場所にありました。

豊川市教育委員会


【10年前の松並木資料館】

今回は松並木資料館には行きませんでしたが、10年前には立ち寄りました。

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高札場跡の角を右に折れると郵便局の前に出て、旧東海道はここを左折するのですが、左折せずにまっすぐ行くと御油松並木資料館があるとのことで、入っていってみると、右に公民館があり、公民館に沿って右に曲がり、さらに右に曲がったところに御油松並木資料館がありました。

入り口脇に太い松の幹の一部が展示されていました。
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樹齢280年の切り株。慶長9(604)年に家康が東海道に松を植えた最初のものだそうです。松の木肌の亀甲型が、三河黒松の特徴だそうです。

資料館の中は無料で見学できます。入り口で記帳して入っていくと、先客が4名。私より5~10歳上かな、と思いました。みんな熱心に東海道関連の展示を見ていましたが、私は東海道関連の展示は今までにたくさん見てきたので、適当に見て回りました。先を急ぎたい気持ちもあったし。

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【御関礼立札場】


「寬文元年十一月二十一日
松平丹波守宿 」

御関礼立札場
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案内板
「 御関礼立札場

御関礼とは諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)の宿場の本陣や問屋(役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入口に縦三尺半(約1メートル)横一尺半(約四十五センチ)の板に宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長澤三間半(約六メートル)の太い竹竿に取り付け、立て掛けられた看板を言います。
御関礼は大名の権力を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のないよう通行するように注意を促す目的をもって立て掛けられた看板と云われています。
この御関礼案内板は、当時御油宿問屋役人井上與左衛門の『御定宿之控』の記録より作成したものです。 」


御油松並木】

14:55 御油の松並木
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豊川市HPより

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更新日 2013年1月14日

東海道中膝栗毛の中で、弥次さん喜多さんがキツネに化かされたという松並木。旧東海道御油宿から赤坂宿の間は延々600メートルにわたって松の大木が立ち並びます。この松は慶長9年(1604年)徳川幕府の道路対策として徳川 家康の命を受けた奉行の大久保 石見守 長安が植えたもので、幕府によって厳しく管理されていました。

御油宿のあった御油町には現在も昔ながらの街並みが残り、情緒たっぷりの散策が楽しめます。音羽川のたもとに位置する「御油の松並木資料館」には、地元に残る貴重な資料100点余が展示されています。

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絵手紙は、2013年11月に豊川にB-1グランプリに行った時、1日目の帰りに足を伸ばして御油の松並木と赤坂の大橋屋に行った時に描いたもの。


つまり私は、御油の松並木を歩くのは今回で三度目です。


御油松並木の変化】


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いよいよ憧れていた、御油の松並木。
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とにかく素晴らしい松並木です。

ガイド本に載っていた写真の松並木とはイメージが違うのは、幸か不幸か舗装をやり直す工事中で、アスファルトがはがされ、砂利道になっていたこと。今なら暴れん坊将軍や、水戸黄門のロケ、録り放題!さらに工事車以外は通行止めなので、ひとりの世界を満喫。

しかし、問題点もありまして、埃っぽいこと、赤いカラーコーンや、場所によってはトラックやショベルカーもいるので、写真を撮るのに少しでも東海道らしい写真を撮ろうと苦心しました。

松並木を通り抜けるのに、6分ぐらいかかりました。

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2013年に来たときには、舗装がされていたのでちょっとがっかりしましたが、でも、素晴らしい松並木でした。

今回来てみたら、車通りが案外多く、車の速度を押さえるために、何ヵ所か緑の杭を両端に打った間の道が狭くなっていて、道にギザギザを付けて車の速度が下がるように工夫されていて、それ自体はいいアイディアなのですが、ギザギザでタイヤの摩擦音がゴーッと、うるさいのが残念でした。

後は、ところどころ若い松の木を植えて、将来のために育成をしていました。

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2度目の東海道14日目のか4(赤坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/27/075811