2度目の東海道13日目の4
5月21日(火)の4
【風炉の井】
12:20 風炉の井
10年前のブログ
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棒鼻のところで左に曲がり、少しまっすぐ行くと、国道1号線に出るので、国道1号を右へ。
少し行くと、「夢舞台 東海道」の道標に「加宿 橋本」がありました。
国道の左側に風炉(ふうろ)の井。
源頼朝が茶湯として使ったと言われているそうです。
風炉の井の、道を挟んで向かい側に教恩寺。楼門が立派でした。
教恩寺の角から、国道と別れて、右側に旧街道があります。こういう分かれ道の入り口に来ると、旧東海道らしい家々との出会いの予感に、いつもワクワクします。
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先ほどの、棒鼻跡から国道1号線に出るところに地下歩道の入り口があったので、ポンチョを脱いで、リュックにしまいこんであった帽子を出しました。
晴れてきたのですが、まだいつ降りださないと限らないので、レインズボンはまだ履いていました。傘も、丸めましたが、いつでも使えるように手に持って歩きました。
【紅葉寺跡】
松並木の中を歩いていくと、左に紅葉寺跡の案内道標がありました。
この辺りでレインズボンを脱ぎました。
10年前に来た時は、紅葉寺跡の案内は右側にありました。
10年前のブログ
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右奥に紅葉寺跡。
石段の上らしい。
石段を上っていくと、昔の紅葉寺の名残の紅葉が散り残っていました。
室町時代の将軍、足利義教が紅葉狩りをした場所だそうです。残っているお地蔵の回りに、大分変色してチリチリに丸まっている散り紅葉のカーペットが敷き詰められていました。
境内から、家々の屋根が「甍の波」状に見下ろせました。
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【松並木の中に碑がちらほら】
12:49 歌碑
10年前のブログ
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松並木の中に、石碑があり、歩道側だと石碑の裏側なので、前に回ってみたら、前大納言為家「風わたる濱名の松の夕しほにさされてのぼるあまの釣舟」、阿仏尼「わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで」、二首の歌が書いてありました。
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12:54 立場跡
案内板
「 立場跡
旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。
この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。
立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が、「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。
13:01 明治天皇御野立所跡
案内板
「 明治天皇御野立所址
明治元年(一八六八)九月二十日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が十月一日、豊橋から新居へRA-際に休憩した所。
明治天皇はその後、新居宿の飯田本陣に宿泊、十月十三日に東京に到着した。 」
【高札場跡、一里塚跡】
13:20 高札場・一里塚跡
10年前のブログ
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新居から白須賀へと向かっていると、元町という地区があり、そこは昔の白須賀宿(元白須賀)があったところ。
元白須賀は高波で壊滅してしまい、今の高台へ移ったのだそうです。
元町には、火鎮(ほづみ)神社があり、山の麓にはキャベツや白菜畑が広がっていました。
また暫く行くと、右側に一里塚跡と高札場跡がありました。
元白須賀と後の白須賀宿を分ける坂を潮見坂といい、元白須賀は潮見坂下ですが、潮見坂下にある蔵法寺の汐見観音のお告げにより、高波の難を逃れたというエピソードもあるそうです。
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【内藤家長屋門】
13:21 内藤家長屋門
日本大百科全書(ニッポニカ)より
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長屋門(ながやもん)とは
門の扉口の両側に部屋が連なる形式の門。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まったもので、あたかも長屋の中ほどに門があるようにみえるところからこの名があり、各部屋には家臣たちが分宿した。武家屋敷の門としては薬医(やくい)門・屏中(へいちゅう)門なども用いられたが、長屋門は門の両わきに突出する番所(ばんしょ)を設けるのが特徴で、大名や旗本の家格によってその形や構造が定められていた。
やがて武家屋敷のほか、庄屋(しょうや)・名主を勤めた農家や、町年寄などの町家や寺院にも、長屋門形式をとるものが現れる。これらには番所はなく、扉口両わきの部屋は男部屋、伴部屋(ともべや)、納屋(なや)、厩(うまや)などに利用された。明治維新以後は一般農家にも普及した。
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2度目の東海道13日目の5(白須賀宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/25/083339