2度目の東海道16日目の3
5月29日(水)の3
10:21 鉾ノ木貝塚
鉾ノ木貝塚
案内板
「 鉾ノ木貝塚
縄文時代 早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の型式をとらえ『鉾ノ木式』と呼称されている。野村三郎 氏により発見された。
なごやの文化財サイトより
千鳥塚
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芭蕉の生前に建てられ、本人直筆の文字が刻まれた碑はここだけ。
この碑は貞享4年(1687)の冬、寺島安信宅でひらいた歌仙「星崎の 闇を見よとや なく千鳥」の巻が満尾した記念にこの丘陵に建てられたものである。各地に芭蕉の碑は数多くあるが、芭蕉存命中に建てられたのは、この翁塚一基のみである。
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天白橋
を渡り、赤坪町交差点を越えると、左手の笠寺精治寮病院前の歩道に知多郡道道標が建っている。
道標には 「知多郡道この先50m南へ」 と刻まれており、道標の先の歩道上には、東海道分間延絵図が設置されている。
【笠寺一里塚跡】
10:41 笠寺一里塚跡
絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。
10年前のブログより
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笠寺一里塚は大きな榎の存在感が凄い。(絵手紙)
実はこの榎は以前枯れかかり、平成6年に200万円かけて、幹に空いた穴を塞いだところ、蘇ったのだそうです。
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笠寺一里塚跡の脇にベンチがあって、地元のご老人たちがベンチに座っていました。
私が一里塚の写真を撮っていたら、老人たちがこんなことを言っていました。
「ここは有名な所らしいね。近くにいると知らなかったけれど、みんな来て写真を撮っていく。」
笠寺一里塚跡
「ニッポン旅マガジン」より
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愛知県内に現在も残る5つの一里塚のひとつで、名古屋市内では唯一残っているもの。一里塚は1604(慶長9)年に徳川幕府が街道を整備し、一里(約4km)ごとに塚を築き、その上に木を植えて道しるべとしたもの。笠寺一里塚は、東海道の江戸から88里目にあたり、塚の上にエノキの大木が植えられています。
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名古屋市南区HPより
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笠寺一里塚
慶長9年(1604年)徳川幕府が主要街道を整備したとき、一里(約4km)ごとに塚を築き、その上に木を植えて道しるべとしました。この一里塚は市内に残存する唯一のもので、土を盛った上にエノキが大樹となって残り東海道をしのぶにふさわしいものです。かつては、一対の塚でした。他の一基はムクノキが植わり、道を隔てた南側に大正時代まで残っていました。
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笠寺観音は、ぐるりが広いので、写真1の天林山笠覆寺の標柱を見てから境内に入るまでかなり時間がかかりました。
写真道から見える多宝塔の写真を撮ったのが10:53
10年前も、同じ場所から全く同じアングルで撮りました。
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笠覆寺(りゅうふくじ)は、愛知県名古屋市南区笠寺町上新町83番地にある十一面観音を本尊とする真言宗智山派の寺院。山号は天林山。一般には笠寺観音(かさでらかんのん)の通称で知られる。尾張四観音の一つで、その他尾張三十三観音、名古屋二十一大師やなごや七福神などの霊場の札所である。
歴史
寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。
鎌倉時代には塔頭寺院が派生し、僧・阿願によって境内には鐘楼が造られ、尾張三名鐘に 数えられる梵鐘が鋳造された。この鐘は建長3年(1251年)の銘があり、愛知県の有形文化財に指定されているが、大晦日には除夜の鐘として参拝者も撞くことができる。
明治時代初期の廃仏毀釈その他の影響で一時期荒廃が進むが、昭和時代に住職らの努力で隆盛を取り戻し、現在に至っている。厄よけや藤原兼平と姫の故事にちなんで、縁結びを祈る参拝者も多いという。
尾張三十三観音、名古屋二十一大師の札所であり、また昭和30年頃には名古屋市観光協会の後援により大名古屋十二支恵当寺で巳年の護り本尊の普賢菩薩の霊場になり、昭和62年にはなごや七福神の恵比寿の霊場になった。
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【呼続界隈】
11:02
11:15 鎌倉街道の道標と地蔵院
名古屋市南区HPより
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地蔵院(呼続三丁目11-27)
京都醍醐寺の末寺で室町中期建立と伝えられる地蔵院は、東海道と鎌倉街道の交差する北東部にある。ここに安置されている2.3mの珍しい地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代に鋳造されたもの。人びとが湯を浴びせて祈願したことから「湯浴( ゆあみ) 地蔵( または鉄地蔵)」と呼ばれている。戦災と伊勢湾台風の被害に遭ったため、今では仏頭と両掌だけが旧形をとどめている。
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11:19 熊野三社
名古屋市南区役所前HPより
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熊野三社(呼続二丁目6-33)
境内には樹齢500 年といわれるクスノキの神木や、古くから神社に伝わる手水鉢がある。
この手水鉢は、明治期の合祀の際に、何らかの理由で境内に埋められ、1960 年頃に掘り出されたもの。表には「松巨嶋」と刻まれ、この地域が松巨嶋と称されていたことを伝えている。
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この辺りの地名は「呼続(よびつぎ)」と言いますが、10年前に来たとき、この辺りに地名由来の看板が出ていた気がしたのですが、見当たりませんでした。
「目からウロコの地名由来」より
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「呼続(よびつぎ)」の地名由来
名古屋市南区呼続(よびつぎ)の地名由来は、人が大声で何か呼び続けたり、呼び続いだわけではない。相変わらず伊勢湾の「潮がきたぞー」とか、東海道の七里の渡しの「船がでるぞー」とか呼び続いだなどという荒唐無稽の地名由来説があるのが情けない。杖をつくほど険しい「杖突峠」(長野県高遠)とか、膝が折れるほど急な「膝折」(埼玉県朝霞市や愛知県東海市)だとかもそうだが、人の動作を地名にすることは絶対にありません。
ある地形を表す言葉に、後から適当な漢字をあてていかにもの地名に仕立てたのだ。漢字は後につけたもの、漢字の意味をそのまま地名由来にしてはいけません。第一、「続」は「つづく」意味で、繋(つな)ぐ意味はない。
「よびつぎ」は「よび・つぎ」で、よぼよぼ(よびよび)の傾斜地と平地とのつぎ目(継ぎ目)を表す地形地名で、現地はかつて「呼続浜」と呼ばれた海岸で、丘陵状の土地が平地に落ちる所につけられた地名だ。 佐賀県唐津市呼子(よぶこ)も「よぶ・こ(処)」で海岸に落ちていく傾斜地をそう呼んだのだ。 「よび」「ゆび」「ゆぶ」「よぼ」等の言葉を地名にした所は、傾斜地の他に川べり等にも多い。
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【山崎橋】
11:25 山崎川を山崎橋で渡りました。
11:26 秋葉神社
今まで静かな道を歩いてきましたが、ついに大きな道に出ました。
11:33 向こう側に見えている歩道橋を渡ります。
2度目の東海道16日目の4(宮宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/040127