2度目の東海道14日目の6
5月22日(水)の6
【藤川宿入口】
国道1号線の市場町の信号を通りすぎ、その少し先で左斜めへの道。
18:19 藤川宿入り口
【藤川宿東棒鼻】
18:21 藤川宿東棒鼻
案内板
「 東棒鼻
『棒鼻』とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。
藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである。
絵の中には、八朔(八月一日)の御馬進献(おんましんけん)の行列がちょうど 藤川宿の棒鼻に差しかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭(ぼうじくい)、道の両側に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。
最近、明治20年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。
現在、藤川宿と言えば、『棒鼻』と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。
藤川宿まちづくり研究会 」
絵手紙は10年前のプログ用に描きました。
こちらの写真は今回撮った東棒鼻の写真です。
この棒鼻は広重の絵をもとに復元したものなので、広重の絵も挙げておきます。
18:22 市場改耕碑
【茶屋かどや跡】
18:24 常夜燈
寛政7(1795)年建立。ここには、茶屋かどや佐七があったそうです。
【連子格子の家】
案内板
「 市場町格子戸の屋並
藤川宿でも往時を偲ぶ町家造りは市場町が一番です。格子作りの静かな佇まい、そして町民が町を愛する気持ちが伝わる町。総代始め町民が一体となり、日本の歴史の足跡を残す町として現在も何軒か残っております。加宿一場は、本来伝馬荷役、助郷の手配など参勤交代の補助協力を主体とし、昔は倉町と呼ばれ五十一年前には三十本位の蔵が残っていました。そのよすがはなく、偲ぶことはできませんが、残った財産権を大切に修理保存に心掛け、伝えるよう、努力しています。 」
格子戸の家
18:27 津島神社社標と常夜燈
本殿は国道一号を渡った先にあります。
【問屋場跡】
18:33 問屋場跡
案内板
「 藤川宿問屋場跡
藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。「問屋場」は宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿では、ここを「御天馬所」とも称していた。
この問屋場については、記録によると
「一、人馬継ぎ問屋場 壱ヶ所 字中町
問屋 弐人 年寄 五人
帳付 四人 飛脚番 六人
人馬差 六人 小使 六人」
とある。
また当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に、現在地に専用の建物を設けて、業務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。
藤川宿まちづくり研究会 」
夕日に染まる連子格子戸の家
【本陣跡・脇本陣跡】
18:35 本陣跡・高札場跡
18:36 脇本陣跡・資料館
10年前のブログ
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右側に本陣跡。第二資料館の札が出ていましたが、鍵がかかっていました。
すぐ隣に無人の資料館(脇本陣跡)。自由に見学してよく、扉を開けて靴を脱いで、スリッパを借りて、自分で電気のスイッチを入れます。藤川宿の模型と、名物の土産物である、からむし草で作ったハンカチ、材料のからむし草の展示が印象的でした。
10分ほど見学して、電気を消してスリッパを戻して靴を履き、扉を閉め、先に進もうとしかけていたのですが、脇本陣跡の門を違う角度で撮ろうと振り返ったら、本陣石垣が脇本陣裏から見られるらしく、矢印が出ていたので裏に回ってみると、本陣石垣(絵手紙)とからむし草の自生地、今は生えていませんが(5月頃見られるらしい)藤川名物のむらさき麦を栽培している場所がありました。
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その後改修したのでしょうか。本陣跡は立派な駐車場になっていて、脇本陣跡が資料館になっていました。
脇本陣跡には字が見えにくくなってきた古い案内板と、ピカピカの真新しい案内板がありました。
藤川宿脇本陣跡
案内板(古い案内板)
「 藤川宿脇本陣跡
藤川宿の脇本陣跡(わきほんじんあと)
「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。
「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜大夫」で、橘屋と呼ばれていた。入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。
明治になって宿場の制度が廃止となり、その後藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和五十三年十月に岡崎市の文化財に指定された。
藤川宿まちづくり研究会 』
案内板(新品の案内板)
史跡 藤川宿脇本陣跡 99.17㎡
藤川宿は江戸時代の東海道の宿場の内、品川宿から数えて第三十七番目の宿場町であり、伝馬朱印状が慶長六年(一六〇一)に発給された。そのため、本陣・脇本陣・問屋場などが置かれ、東海道の交通を担った。
脇本陣は、本陣の予備に当てた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、その家老や奉行の止宿にあてられた。
平常は一般の旅行者にも使用が許された。その経営については、本陣に次ぐ宿内有数の名望化家があてられ、その敷地も、現在の敷地の四倍、約一三〇坪(約四五〇㎡)程の敷地を有していた。
現存する門は、関ヶ原の戦いの後に藤川に居住したといわれる大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されているが、昔日の名残をよく留めている。
【西棒鼻】
18:43 西棒鼻跡
ここがイコール藤川宿西口見付なので、「従是東 藤川宿」の標柱も建っています。
案内板
「 西棒鼻
『棒鼻(ぼうはな)』とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを『棒鼻』と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。
藤川に再現された『棒鼻』は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵『棒鼻ノ図』を参考にして復元した『修景(しゅうけい)・棒鼻』である。牓示杭(ぼうじぐい/境界を示す杭)と宿囲(しゅくがこい)石垣が、その景観を際立たせている。
また、隣にある歌碑には、広重の師匠の歌川豊広の描いた浮世絵の中の狂歌で
『藤川のしゅくの棒はなみわたせば
杉のしるしとうで蛸のあし』
とかいてある。この歌のなかで、傍示杭を杉のしるしとし、ぶらりとぶらさがる『うで蛸のあし』と藤の花がぶら下がって咲いているようすをかけていて面白い。
【藤川まちづくり研究会】 」
西棒鼻には、歌川豊広歌碑もあります。
案内板
「 歌川豊広
藤川の
しゅくの
棒ばな
みわた
せば
杉の
しるしと
うで蛸の
あし
『藤川宿の棒鼻を見渡すと。杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでたこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。』
※歌川豊広:一七七四〜一八二九、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。 」
【十王堂・芭蕉句碑】
18:45 十王堂
18:45 芭蕉句碑
aichi-tabi.comより
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十王堂(岡崎市・藤川)
)概要: 十王堂の創建年は不詳ですが祀られている十王像の台座の裏に宝永7年(1710)の記載がある為、同年かそれ以前からあったと思われます。藤川宿の西端に位置し秦江王・初江王・宗帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王を祀る十王信仰であると共に結界鎮護の意味合いもあると思われます。建物は桁行3間、梁間1.5間、切妻、桟瓦葺の簡素なものですが民俗的には貴重なものとされます。境内には「爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせを」の句が刻まれた芭蕉句碑が建立されています。
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『芭蕉句碑』は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を石を刻んで建立したものである。
『爰も(ここも)三河 むらさき麦の かきつばた はせを』
碑の裏に
『寛政五歳次癸丑冬十月
当国雪門月亭其雄并連中
以高隆山川之石再建 』
と、建碑の書誌的事項が彫られている。
この碑の高さは1.65メートル 幅1.07メートル 厚さ約0.2メートル 花崗岩の自然石てこの付近の芭蕉句碑では最大級と言われている。
その傍らに高さ0.9メートル 幅0.5メートルほどの自然石が立っているいる。これも芭蕉句碑で、この碑は元、別なところにあったが、大正初期に現在地に移された。
藤川宿まちづくり研究会 」
18:45 焔魔堂
宝永7(1710)年建立。
今日の歩きはここまで。
藤川駅18:52の電車で東岡崎へ行って、東岡崎から夜行バスで帰りました。
本日の歩数 52,179歩 31.9km
2度目の東海道15日目の1(藤川宿から岡崎松並木)に続く
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