2度目の東海道14日目の1
5月22日(水)の1
【クロマツ跡の碑】
鷲津のホテルで6:30朝食。鷲津から東海道線で二川に戻ったのが8:38
昨日考えた歩き方、朝から速く歩くと午後になって膝が痛くなって歩けなくなるから、ゆっくりたくさん歩くことを目標に歩きます。
火打坂
右奥に見える理容店チャームを目印に左折。
東三河環状線という道を歩いています。昔はクロマツの松並木だったそうです。
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東海道の松並木保存会が昔の松の切り株を記念に残し、新しい若い松も育てています。
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10年前は松の切り株が保存されていましたが、今はクロマツ跡の碑だけです。8:57
【寿泉禅寺】
国道1号線に出てからは、退屈な道かなと思っていましたが、三ノ輪町、伝馬町、瓦町など、昔を偲ばせる町名がありました。
9:37 寿泉禅寺
まず、大きな石門が目を惹きます。
門前に延命地蔵碑
境内には三重の塔もありました。
なんと、10年前もここの三重の塔の写真を撮っていました。
【東惣門】
9:50 大きな歩道橋(東八町歩道橋)を航ります。
9:52 東惣門
案内板
「 東惣門(ひがしそうもん)
東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。
門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。
惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時 )まで開けられおり、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。
東惣門の真ん前にある、「もちや」
【曲がり角と目印】
この先は、曲がり角が多いので、目印をよく見ながら歩きます。
目印の青い看板、東京海上日動の看板。
その先の曲がり角。
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二つ目の十字路は大きな道を信号で渡りますが、その大きな道の真ん中の中央分離帯のような公園のようなところに曲尺手(かねんて)門史跡の碑がありました。
その先、最初の角、そば屋のところを左折。すぐ先を右折して広い通りに出ますが、そこにも「東海道」の道標がありました。
豊橋の町を歩いていて思ったことは、書道の文房具(筆、硯、紙など)を売っている店が多いこと。書の盛んな町なのかな。
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ここに書いてある目印の蕎麦屋、閉店していました。
閉店してしまうと看板も下ろしているので、何度も前を行ったり来たりして確かめました。
よく見たら、シャッターに閉店のお知らせの貼り紙があり、おかげでそこが目印とわかりましたが、これからここへ来る人たち、曲がるところ、わかるかな?
【吉田本陣跡】
10:14 吉田宿問屋場跡
10:15 本陣跡(鰻の「丸よ」前)
吉田宿本陣跡
案内板
「ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の赤かった人達が宿泊した施設です。享和二年(一八〇二年)の書上によると吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心としてもっともにぎわったところでした。 」
10年前は丸よで鰻、食べました!
【西惣門】
10:27 ファミマで休憩。こんがり焼きプリンと青汁。
10:38 西惣門
地面の案内
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吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。
西惣門は、湖西市鷲津の本興寺の惣門を参考にして作成したもの。本興寺惣門は吉田城大手門を1674年に移築したもので、湖西市指定文化財となっています。
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【芭蕉句碑ととよばし】
10:40 芭蕉句碑
写真の右の句
ごを焼いて手ぬぐいあぶる寒さかな
「下地町 聖眼寺」
「松尾芭蕉吉田宿の宿の旅籠の記」
貞享4年(1687年)11月11日、芭蕉と越人が渥美郡保美にの杜国を訪れ途次この地の旅籠屋で一夜を明かしました。
こちらの写真の左の句
寒けれど二人旅寝のたのもしき
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松葉公園交差点を右折すると、二つ目の十字路が国道23号線。
渡った右側に西惣門がありました。
西惣門から進んで二つ目の十字路を左折して少し行くと、右側に神明社。
天照大御神を祀る神社で、境内の池の中の築島神社に芭蕉句碑がありました。
「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」という句で、「旅寝塚」と呼ばれているそうです。
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10:44 とよばし
10年前のブログ
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道に戻って右折すると豊橋(とよばし)が見えてきます。
今、豊橋と呼ばれている町は、鎌倉時代、この豊川に今橋がかけられ、町の名も今橋となりましたが、戦国時代には今橋は「忌まわしい」を連想させ、縁起が悪いということで、縁起のいい「吉」に因んで「吉田」と改名。明治になってから、豊川にかかる豊橋の名をとって、三度改名したのだそうです。
さて、豊橋を渡ると、すぐに左折。暫くは川沿いを歩きます。
右に郵便局があり、その先に幼稚園を併設した大きなお寺があり、聖眼寺という寺で、ここにも芭蕉句碑がありました。
「こを焼て手拭あぶる寒さかな」
「松葉塚」と呼ばれていますが、注意書がしてありました。
「昭和二十年戦災にあい、句碑がいたんだので、拓本をとることを禁じます」
歴史的な価値のあるものから拓本をとったりする人がいたんでしょうか。
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2度目の東海道14日目の2(豊橋郊外から御油宿へ)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/26/085028