紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き15日目の1(藤川から岡崎松並木)

2度目の東海道15日目の1

5月28日(火)の1 雨

本日の行程
藤川〜岡崎〜知立中京競馬場前

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【藤川の十王堂など】

夜行バスで、朝4:30、豊橋着。暖かいので漫画喫茶には行かずに、トイレで着替えて、ベンチで持参のパンで朝食。

5:53 豊橋発 → 名鉄で6:02国府6:05→名鉄→6:11本宿6:16→名鉄→6:21藤川

前回(5月22日)の終点、十王堂には6:24着。

6:25 藤川の一里塚跡
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案内板
「 藤川宿の一里塚

『一里塚』は街道の一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて道しるべとした塚のことである。
慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。
種目は普通、榎(えのき)であった。
ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると、
『一、此宿より、岡崎宿迄之間、壱里塚弐ヵ所
壱ヵ所、木立、左無之、右 榎
但、左右の塚共、藤川宿地内』
と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎を植えてあったらしいが、天保年間(一八三〇〜)頃には南側はすでになくなり、北側の榎は、昭和初期には枯れてなくなってしまった。

藤川宿まちづくり研究会 」


6:31吉良道(きらみち)道標(みちしるべ)
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案内板

「 吉良道道標(きらみち・みちしるべ)

 東海道 は、藤川宿 の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を『吉良道』と呼んでいて、その分岐点に『吉良道道しるべ』が立っている。
 道しるべ石は、高さ一四三センチ、幅ニ〇センチの四角柱で、彫られている文字は、
〈右面〉『文化十一年申戌五月吉日建
〈正面〉『西尾、平坂、土呂、吉良道』
〈左面〉『東都小石川住
と書いてある。
 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという『茶壺のなみだ雨』の話も残っている。

藤川宿まちづくり研究会 」

茶壺道中とは

国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所HPより

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Q.お茶壺道中って、なんのことですか?
A.江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中、あるいは宇治茶壺道中といいました。
幕府が宇治茶の上納を命じる宇治採茶師をはじめて派遣したのは慶長18年(1613)とされ、茶壺道中が制度化されるのは寛永10年(1633)のことです。
毎年4月下旬か5月上旬になると、宇治から茶葉の生育状況の報告を受け、茶壺付添人ら(8人から14人)が茶壺ともに江戸を出発します。茶詰めは採茶師が宇治に到着してから9日目より茶道頭立ち会いのもとで始まり、茶詰めを終えると茶壺は封印され、羽二重で包み、さらにその上を綿入れの帛紗で包み、長棒駕籠の中に箱ができていて、それをその中に納めるというもので、その取り扱いには細心の注意が払われました。
茶壺道中は五摂家や宮門跡に準じる権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名らも駕籠を降りなければならず、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどです。
「ズイズイ ズッコロバシ ごまみそズイ 茶壺におわれて ドッピンシャン ぬけたら ドンドコショ」――このわらべうたは、田植えで忙しい百姓たちが、この茶壺道中を風刺した歌ともいわれています。

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名鉄踏切を渡ると、藤川の松並木です。
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松並木というと、茅ヶ崎、大磯、三島、舞坂、袋井、御油の松並木がすぐ浮かびますが、藤川の松並木は10年前に通ったのに忘れていました。

こんなに素敵な松並木なのに。

なんだろう?お腹が痛かったのかな?トイレに行きたかったのかな?

なんで覚えていないか、不思議です。

10年前のブログを読んでみましょう。

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踏切を渡ると藤川松並木。通り抜けるのに7分ほどかかりました。

国道に出て、暫く歩き、また左へ国道からそれると、時々松並木がありました。

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ちゃんと書いている。ただし、ずいぶん簡単ですね。

今日は藤川から歩き始めて元気だけど、10年前はこの頃もう疲れていたのかなあ。

ちょっと調べてみたら、なるほど、2009年1月21日の事情が判明しました。

当時私は日本料理屋に勤めていて、日本料理屋は年末年始がとても忙しいため、1月20日から三連休となり、その第一日目は、社員全員の慰安旅行で、早朝に職場に集まって、バスで伊豆高原、大室山を歩き、稲取で豪華昼食、天城越えをして三嶋大社にお参りし、ここで皆さんとお別れして、私だけ三島の水辺の道を歩いて三島駅まで行き、豊橋まで移動して、その晩は豊橋に泊まりました。

たぶん、その疲れが残っていたんでしょう。

藤川の松並木案内板

岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木

 慶長9年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約1キロメートルの間の90本あまりからなり、クロマツが植えられている。松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。
 松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。
 歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。

  昭和38年5月8日指定
    岡崎市教育委員会 」 


【国道1号線と別れて】

6:38 常夜燈
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この先で、国道1号線と合流。

6:51 左へ分岐。
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7:05 高橋を渡ると………

【麦の秋】

高橋を渡ると左右が麦畑。きれいなきつね色。
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俳句では麦の秋、と言います。

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星の王子さまのキツネとかくれんぼの幻想しながら進むと、旧東海道は右へ大きく見えるしカーブする道と分かれて、まっすぐ進んでいくと、大平川に突き当たります。
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昔はまっすぐ進んだようですが、こういうところによくある、渡し場跡、の碑もなく、昔はここに橋がかかっていたのかな?


【乙川の河邊に立つ馬】

大平川(乙川)川辺に、一頭の馬がいる!
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草を食んでいるのかな。

雨がポツポツ降っていて、寂しい光景です。

7:12 国道1号線の大平橋を渡ります。
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橋からさっきの馬が見えないか眺めたら、見えました。
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遠目の川邉の馬は、なおさら寂しい。


大平町 つくて道】

大平橋を渡ってすぐに左に曲がり、旧道の続きに戻ります。

左に大平水神社があるのを見ながら、右斜めの道を進むと、大平町東の交差点で国道1号線に再び出会いますが、この交差点で国道を突っ切って進みます。

7:21 大平町東交差点
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7:23 常夜燈
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文化四年(1807)建立だそうです。

7:25 道標
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右面「東海道
左面「つくて道」

ここから30キロほど北東にある作手村(現・新城市)への道標だそうです。


【大平陣屋跡と大平一里塚跡】

今回はパスしましたが、10年前は東海道から少し北側に行ったところにある、西大平陣屋跡に行きました。

10年前のブログ

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12時過ぎに西大平陣屋(大岡越前守陣屋)跡(絵手紙)に到着。外見は寺のようですが、中は、小さな神社以外建物がない広い空間、公園風でした。
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7:29 大平一里塚
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岡崎市HPより

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国指定史跡 大平一里塚

慶長9年(1604)、江戸幕府によって五街道の制が定められ、江戸日本橋を起点として、街道の両側に一里(約4キロメートル)毎に榎を植えた塚が築かれました。東海道の一里塚は永井弥右衛門自元、本多佐太夫光重が奉行となり、公領は代官、私領は領主に造築を命じました。この大平一里塚は、当時西大平を領していた本多重次の嗣子成重が築いたとされています。市内では他に東より、本宿(本宿町一里山)、藤川(藤川町一里山)、矢作(矢作町矢作橋西詰)にもありましたが、この内、現存するものは大平の一か所のみとなり、かつ、この大平一里塚も昭和3年(1928)道路改修の際北側が破壊され、南側の塚のみが保存されています。当時、塚の大きさは五間四方(一間は約1.8m)ありましたが、現在は高さ2.4m、底部縦7.6m、横8.5mとなっています。塚の中央には樹齢350年の榎が茂り、代表的な一里塚の景観を残していましたが、昭和28年(1953)の台風にあって倒れてしまい、現在はその後植えられた若榎が樹勢よく伸びて、風情を保っています。

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東海道の一里塚で、国指定史跡は四ヶ所だけなので、保存状態がよい貴重な一里塚です。

東海道の一里塚で国指定史跡


■錦田一里塚 :静岡県 三島市錦町         

■阿野一里塚 :愛知県 豊明市阿野町
 
■野村一里塚 :三重県 亀山市野村         

■大平一里塚 :愛知県 岡崎市


大平一里塚跡のすぐ横には、常夜燈と南無子安地蔵尊馬頭観音があります。
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写真の、どれが子安地蔵尊でどれが馬頭観音なのかわからないのですが、多分向かって右が子安地蔵で、左が馬頭観音でしょう。


岡崎市ボラ協の東海道道標】

家の塀など、所々に写真のような東海道道標がありました。
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岡崎市ボランティア協議会25周年記念、とあります。

7:35 村社八幡宮
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ファミマでトイレをお借りして、イートインで、こんがり焼きプリンと青汁で休憩。
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【ガード下と松並木公園】

ファミマのすぐ先にダイソーがあり、そのダイソーを目印に右斜めの細い道に入っていくと、自動車道のガード下を3回目潜ります。最初に潜るのが岡崎14、
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それから、岡崎12、岡崎13と潜ります。たまに自転車が結構な勢いで走り抜けます。

この潜ったガード下は雨に濡れないので、リュックを下ろして、レインコートと、レインズボンを着用。朝、歩き始めた時は小雨だったのに、かなりの降りになってしまいました。

リュックにカバーをかけるのは、電車の中でやっておいてよかった。

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国道1号線沿いの松並木を歩いていたら、右側に松並木の公園があり、あっちが旧東海道だったんじゃないかと思ってしまうのですが、ガイド本によれば、ここは国道を歩くのが正解のようです。
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2度目の東海道15日目の2(岡崎宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/25/230956