2度目の東海道18日目の7
6月14日(金)の7
【関の小万のもたれ松】
鈴鹿川沿いをずっと進んでいくと、車道の下を潜るのですが、そこの壁に、広重の絵が描かれています。
写真の辺りまでくると、大岡寺畷もそろそろ終わりです。
小野踏切を渡り、小野川橋東詰交差点で左に曲がると、関宿はもうすぐ。
国道1号線から右斜めにはいると、入ってすぐに関宿の標識があり、その先左側に小万のもたれ松があるのですが、見逃して通りすぎてしまいました。
写真は、10年前に撮った小万のもたれ松です。
案内板
「 関の小萬のもたれ松
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松 があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
平成6年2月吉日 関町教育委員会 」
いこーよ、ネットより
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福蔵寺
三重県亀山市にある福蔵寺は、織田信長の三男にあたる、織田信孝の菩提寺として開かれたものです。
この境内に「関の小万碑」があります。「関の小万が亀山通ひ、月に雪駄が二十五足」と詠まれ、鈴鹿峠を発祥の地として唄われた鈴鹿馬子唄です。関の小万は若い時に父の仇を討った気性が激しい女性と伝えられます。15才から雪・風にもめげず亀山の道場に通って修行につとめ、武を練り、天明三年八月本懐を遂げました。享和3年没、地蔵院前には小万の育った宿屋山田屋の跡が現存します。
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市民共同さくらネットより
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東海道の昔の話(1)
関の小万と鈴鹿馬子唄
愛知厚顔 70代 元会社員 2003/6/23投稿
関の町に入って地蔵院の手前、木崎町の左に少し入ったところに福蔵寺がある。織田信長の子、信孝の菩提寺として家臣が建立したもの。この境内に関の仇討ちで有名な小万の墓がある。小万の敵討は有名な割には、くわしい話が知られていないので、すこし調べてみた。
第十代将軍家治の時代、関宿の山田屋に止宿した身重の女が、玉のような一人の女の子を産んだ。しかし母親は難産のため助からなかった。この母親は九州久留米藩二十一万石、有馬家の家臣で牧藤左衛門の妻だった。藤左衛門はふとしたことから、同僚の小野元成と口論となり、あげくのはてに殺されてしまった。
その仇敵の小野元成は小林軍太夫と名前を変え、亀山藩に仕えているのが判明した。そこで身重の身体もかえりみず、みずから夫の仇討にでかけてきたのだが、関まできて病気に倒れてしまったのである。
宿の主人庄兵衛は苦しい息の下から聞いた身の上話にうたれ、その義侠心から小万に仇討ちの本懐を遂げさせるまで養育しようと決心した。
そして成長した小万に亀山の剣術師範、榊原権八郎の道場で修業させた。事情を知った師範も小万の意気にうたれ、くる日もくる日も必殺の「突き」の一手を教えた。やがて六年の歳月が経過した。
『もう大丈夫、小万、やってみよ』
師範に激励され、その翌日、亀山城下の辻で見事、小林軍太夫を討ったのである。天明三年(1783)八月、十八才のときであった。
小万は絶世の美人、仇討に成功した女性という物珍しさもあり、街道を上り下りする旅人は多くが心引かれて山田屋に宿泊し、そのため大いに宿は繁盛したという。享和三年(1803)三十八才で亡くなっている。関宿の東の入り口に「小万のもたれ松」というのがある。
剣術修行のため亀山に通うとき、土地の無頼漢のいたずらを逃れるため、この松の影に隠れたという。毎日亀山に通ったのは剣術を習うためもあるが、敵の動静を監視するためでもあったらしい。
この仇討はあっと云う間に全国に喧伝された。
有名な鈴鹿馬子唄にも小万のことが再三でてくる。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょというた
「手綱片手の浮雲ぐらし 馬の鼻唄通り雨
「与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨
「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足
「関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく
「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら
「昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする
この唄は小万の唄といってもいいほど小万のオンパレードである。
ところが仇討の方の小万は「亀山通い」のところだけで、他は別の「遊女の小万」だという学者がいる。二人の小万が歌の中にいたのである。
遊女の方は近松門左衛門の傑作「丹波与作待夜の小室節」、のちに別人の手で狂言に改作された「恋女房染分手綱」に登場する色男の与作の恋人、すなはち関宿の遊女の小万である。
学者の中には遊女のモデルは別の名で実在していたが、小万の名を近松の台本から拝借したという人もいる。しかし近松の「丹波与作」は宝永五年(1708)というし、その中にはすでに「与作思えば照る日も曇る、関の小万の涙雨」が出ている。そうなると仇討ちの天明三年(1783)よりかなり古くなり、鈴鹿馬子唄はすでに成立していたことになる。
単純に考えると、鈴鹿馬子唄はずっと古くからあり、遊女の小万の方が先に中で唄われており、それを近松も台本に取りいれた。
あとで仇討があったので、もう一人の亀山通いの小万を、地元の人々が馬子唄の中に追加して唄ったのではなかろうか。
二人の小万説は不思議な話だが、つぎの史料を見ても事実と納得できる。この遊女の小万の方は仇討の前後に、いろいろなところで登場する。
古里の小万も見えず田植歌 千那
寛政八年(1797) 柳多留
関も無いはず御二人で小百万
小万を寝せて実盛の物がたり
ところが、「亀山通い」の小万の方も、仇討のあった天明三年(1783)よりずっと前に「亀山通い」の言葉が唄われていたのがあった。それがつぎの唄である。いったいどうなっているのだろうか。
四季花笠踊
宝永七年(1711) 式亭三馬
関の小万は亀山かよひ
色を含むや冬ごもり
まず立春の祝いには
ぬふちょう鳥の花笠
夏は川瀬に網代笠
秋は踊に菅笠を
揃えてそれぞれ
小万おどりだぜ
小万でん手拍子もそん揃うた
そろたそろそろ月の笑顔に
照ったりゃ紅葉笠
そりゃ加賀笠よ~
仇討の七十三年も前のことである。江戸きっての流行作家、式亭三馬が全国から募集し編纂した笠踊り音頭の中にある。
しかしこれも変だ。三馬は江戸時代後期の安永八年(1776)から文政四年(1822)に生きた人。彼が宝永年間に生きているわけがない。この史料を載せている新群書類従が見間違いをしたのかも知れないし…。
私は歴史学者でも何でもない。これ以上は郷土歴史の先生方の領域であり、詮索は止めることにする。
小万の墓ははじめ町の北、丸山の共同墓地にあったが、明治四十年に改めて発見されいまの福蔵寺に移された。石碑の前には地蔵が彫刻され、側面には 〔妙證信女山田屋小萬 享保三年正月十六日〕とある。毎年七月十七日が命日で供養の回向が行われている。
参考文献 原志郎「三重放浪」 式亭三馬「松の落葉」
東海道の昔の話(1の補追)
関の小万と鈴鹿馬子唄の謎
愛知厚顔 2003/7/5投稿
前回の投稿で鈴鹿馬子唄と小万の関係について、かなり疑問を投げかけたところ、いろいろな方から反響があった。関の小万が仇討ちのため亀山に剣術修行に通ったことが、馬子唄では
「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」
と唄われていると、江戸時代からずっと教えられ、信じられてきたが、これがどうやら疑わしいと、この投稿で指摘したところである。
その根拠となった文献について、はっきりとさせないままでいたが、皆さまから問い合わせがあるので、改めて根拠となった文献を示したい。それは
【中興当流あずま浄瑠璃:増補、松の落葉】
宝永庚寅七年九月吉祥日
いつつや生兵衛 板
書林 萬木治兵衛 行
編者 静雲閑主人
これは小唄、端歌、浄瑠璃などの三味線歌曲の類を、主として元禄から宝永年間にかけて流行したものがまとめられている。そして「関の小万が亀山通い」の詞は、巻四第五十八に〔四季花笠踊〕として収録されている。原文は全部かな文字なので少し漢字を入れてみた。
元は小唄のかな文字では意味がわかりにくい。漢字を適当に入れると
『関の小万は亀山通ひ、いろをふくむや冬篭り
まず立春の祝いには、ぬふちょう鳥の花笠、夏は川瀬に
網代笠、秋は踊りに菅笠を揃えて、それそれ小万踊りだぜ。
小万てん手拍子も、そんそろた。
そろた、そろた、そろた、
そろそろ、そろそろ、
月の笑顔にったりゃ紅葉笠、
そりゃ加賀笠よ加賀笠よ
冬は雪見にかつ゛くひじ、
笠は名のみや、
この御所塗り笠は
笠はなり(姿)が良うて、
さてさてどっこい、きよござる』
と、ざっとこんな具合ではないかと思う。
なお編集者には式亭三馬は関係してないことが判明した。
この文献について、明治四十年に水谷不倒識という人がかなり研究をしているのでこれを紹介する。
『これははじめ「松の葉」元禄十六年版を秀松軒という人が
編纂した。三味線がわが国に伝来してから、世間で唄われた
小唄を集めたものである。しかし翌十七年(宝永元年)に
大木扇徳という人が「松の落葉」を編纂し「松の葉」に洩れた
のを拾い、宝永三年には静雲閑主人が「若緑」を出して、
前二書以来の新曲を集め、宝永七年に更に「増補、松の落葉」
が成立した。正徳三年には「続松の葉」という書を刊行した。
しかし仔細にこれらの書を対照すれば、「松の葉」の実態は
ただ三つの書に過ぎないことを見出した。(略)
これらはいずれも非常に貴重であり、この「増補、松の落葉」
もすこぶる稀本である。』
ここにあるように宝永七年(1711)に編纂収録された小唄なので実際はもっと以前から唄われていたと思う。そうすると関の小万が亀山に通ったのは、仇討ちがあった天明三年(1783)以降ではなく、七十二年以上も以前のことになる。
そうすると、鈴鹿馬子唄の小万はまったく仇討ちとは無関係となり、遊女の小万のほうとなる。これは近松門左衛門の台本でも証明される。
近松は仇討があったときはすでに物故していたのだらか、仇討の小万を知っているはずがない。
私の推理をめぐらせた結論を言うと、
1、鈴鹿馬子唄はかなり前からすでに成立していた
2、唄の中の小万は遊女の小万(近松の台本とも無関係)一人である
3.山田屋で生まれた女の子に馬子唄から名前を貰ってつけた
4、「亀山通い 月に雪駄がニ十五足」は小万が恋しい情人に逢いに通った情景
5、馬子唄はまったく仇討話とは無関係である。
以上のとおりです。皆様からの問い合わせに現在判明している材料でお答えしました。地元郷土歴史研究の先生方のご意見もたまわりたいと念願しています。
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このように、人々に愛された関の小万のもたれ松を見逃したとは、不覚でした!
【関宿東の追分】
16:22 関宿東追分
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関宿 東追分
東追分は関宿の東の入口にあたり、東海道と伊勢別 街道が分岐していました。今も残る大鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、20年に一度の神宮式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。鳥居の近くには、「これよりいせへ」「外宮(伊勢神宮)まで15里(60km)」と刻まれた石の道標が。おかげ参りや参勤交代で人々が行き交う関宿の道に明かりを灯した常夜灯なども、当時のまま残されており、現代の旅人の心に楽しみを灯してくれます。
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写真の案内板
「 関町関宿重要伝統的建物群保存地区 東の追分 昭和59年12月10日選定
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。
鳥居の裏手には、「関一里塚址」碑があります。
「常夜燈」ごしに関一里塚址が見えるらしいのですが、残念ながらわかりませんでした。江戸・日本橋から106里目の一里だそうです。
写真の案内板の両脇に、『関宿かるた』が書かれているのが印象的です。
関宿かるた
a.mausertinamigurashi.comより
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『関宿かるた』を作ろうとのアイデアは平成18年(2006)頃、「関宿まちなみ保存会」会員から出されました。関宿の歴史や文化を遊びの中で自然に学べるツールとして、そして関宿オリジナルなお土産物として、夢は膨らんでいきました。
平成20年(2008)には「亀山市協働事業提案制度」を活用して市民提案され、事業採択。平成21年度には関宿まちなみ保存会と亀山市との協働事業として『関宿かるた』の制作が実現しました。
『 関宿かるた』は”あ”から”ん”の46文字に“関”の字を加えた47札で作られています。この“47”という数は、関宿にとっては大切な数字です。関宿は江戸から数えて47番目の宿場町だからです。そして、47札とするために追加した1枚は、わが町”関”です。
”関”の札には次の句が書かれています。
「関宿を つなぐ今人 未来人」
(せきじゅくを つなぐいまびと みらいびと)
(以下略 )
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Life Home's PRESS より
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まちなみ保存会とは?
関宿ならではのおもてなし”をモットーに活動を行う住民団体
東海道五十三次の47番目の宿場町であり、国の『重要伝統的建造物群保存地区(※以降、重伝建地区)』に選定された三重県亀山市・関宿。
今回クローズアップするのは地元有志らによる住民団体『東海道関宿まちなみ保存会』の活動について。
『東海道関宿まちなみ保存会』は昭和55(1980)年に発足。町並み保存への取り組みの一環として公開講座を開催したり、小・中学生の社会見学の案内役として対応したりと、“関宿ならではのおもてなし”をモットーに活動をおこなっている。
関宿の『重要伝統的建造物群保存地区』は旧東海道沿いに東西約1.8km、約25haの面積に渡って広がっており、江戸側から木崎・中町・北裏・新所という4つの地域に分かれている。地域内に建つ多くの建物には個人宅であることがわかる表札が掲げられており、建物を保存するだけでなく、地元の人たちの生活が今もこの場所で続けられていることがわかる。
近年は、重伝建地区でも空き家問題を抱えている地域が多いと聞くが、関宿内では「なかなか空き家が出ない」ため、ここで商売をしたいと外部から移り住む移住者はまだ少ない。
『東海道関宿まちなみ保存会』事務局長・服部吉右衛門亜樹さん(53)は、「六本木のド真ん中にお地蔵さんが立っていたら目立つように、この町のなかでは近代的な建物が建っていると逆に目立ってしまいます(笑)。これは古い町並みの保存がうまくいっている証拠かもしれませんね。町の雰囲気全体がちゃんとした路線でつながるためには、住民の意識がとても大切です。重伝建地区に選定されて33年が経ちますが、この約30年のうちに一番変わったものは『住民たちの意識』だったと思います」と語る。
当初は町並み保存の推進派と反対派に分かれてたびたび議論が行われていたが、重伝建地区に選定されたことによって関宿がメディアから注目を集めるようになり、地元の人たちはその価値を再認識することができた。そのため、町並み保存に向けての意識が大きく高まったという。
「最初のうちは、地元の人間から発信してもなかなか理解が得られませんでした。でも、“外部からの高い評価”を改めて受けることで、自分たちが育った町への誇りを取り戻すことができたんです」(服部さん)
(以下略)
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そして、まちなみ保存会や、町のみなさんのおかげで、写真のような、素晴らしい江戸時代にタイムスリップしたみたいな町が残されているのです。
【江戸時代にタイムスリップしたような町】
10年前のブログ
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2009.01.14.
東海道五十三次 十九日目
関宿は江戸時代にタイムスリップしたような町ですが、車は結構通ります。
右側に御馳走場跡、その先5分ほどで左側に関まちなみ資料館。
その先にある旅籠玉屋と共通の入館券を買い、中へ。民家を公開したもの。蔵や二階も見ました。足裏から冷えてきて、寒い。10分ほど見て、先へ進むと、右側に問屋場跡
と祭の山車の倉
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まちなみ資料館はちょうど店仕舞いしていて看板すら撮影出来なかったので、10年前の写真です。
【川北本陣跡など】
16:29 浅原家
案内板
「 同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋、材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられる。
関町教育委員会 」
建物は木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、2階は白漆喰仕上げ虫籠窓、1階には下屋庇が設けられ軒先には幕板が下げられています。
16:31 雲林院家
案内板
「 同家は、昔はかいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。
街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。
関町教育委員会 」
16:36 川北本陣跡
川北本陣跡の裏手にトイレがあったのでお借りしました。
観光三重より
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関宿には川北本陣、伊藤本陣の二軒の本陣があった。本陣は参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設であり、両方とも東海道関宿の本陣として 栄えた。
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【明治時代の自転車】
時間が16:30を過ぎていたからか、まちなみ資料館も、その先の旅籠玉屋歴史資料館も閉まっていたため、確かめられなかったのですが、前回撮った資料の写真が、どれがまちなみ資料館の展示で、どれが旅籠玉屋歴史資料館の展示か分からなくなったので、ランダムに10年前に撮った写真を並べます。
明治時代の自転車
薬棚。(「千と千尋の神隠し」を思い出します。)
2階の格子。
【煎餅布団】
丁場に座る番頭。
襖を開ければ、ずっと奥へ続く座敷。
寝床。煎餅布団に高い枕。
【百六里庭 眺関亭】
16:41 百六里庭・眺関亭
観光三重より
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関宿の町並みの中に生まれた小公園。
関宿が江戸から106里余りあることから名付けられました。
通りに面した建物「眺関亭(ちょうかんてい)」からは、関宿の家並みが一望できます。
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この写真は今回撮ったもの。
こちらの写真は10年前に撮ったもの。
10年前の方がよく見えた気がします。展望台の位置が低くなった?
【伊藤本陣址】
絵手紙は、2009年1月26日に娘たちと3人で鈴鹿越えをしたときに関宿の町並みを眺めている絵です。
16:44 伊藤本陣阯
この写真は、伊藤本陣阯のもう少し先です。
【旅籠玉屋資料館】
16:45 旅籠玉屋歴史資料館
16:30で閉館してしまい、見ることは出来ませんでした。10年前には見ました。
入館料は300円。
今日はこの玉屋で引き返して駅に向かいます。
16:55 関駅着
17:03発の亀山行きに乗り、亀山で紀勢本線に乗り換え、津で近鉄に乗り換え、津新町へ。
ここから夜行バスに乗るのですが、乗り場が解りにくく、明るいうちに下見をしておいて正解でした。
津新町の駅の近くのお店で、写真のパスタを食べたのが19:20。
この店でなるぺく粘ったのですが、そうそう長居も出来ず、ネットカフェもマックもないので、時間潰し、苦労しました。
大雨になってしまい、津市役所の軒下で雨宿りしていました。
本日の歩数 43,290歩 26.44km
のですが、その前にインフォメーション【コーヒーブレイク】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/31/021705
2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738
2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/165621
2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/171837
2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026
東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457
東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405