紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き14日目の4(赤坂宿)

2度目の東海道14日目の4

5月22日(水)の4

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【関川神社と赤坂宿本陣跡】

15:10 関川神社
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鳥居脇に芭蕉句碑
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」
があります。

元々御油宿と赤坂宿は近いのですが、間に御油松並木があるため、二つの宿がまるでひとつのような印象を受けます。

古い酒屋の看板のある家。
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15:13 本陣跡
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案内板
「 本陣跡

本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることを許されていた。
赤坂宿の本陣は、宝栄八年(一七一一)の町並図によると、四軒あった。そのうち、松平彦十郎家は江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永八年の間取り図によると、間口十七間半、奥行二十八間、座敷通り四二二畳で、門・玄関付きの立派なものであった。

豊川市教育委員会


【高札場跡、尾崎屋、浄泉寺の蘇鉄】

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(関川神社から)5、6分で、高札場(レプリカ)のある公園。
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ここは名電赤坂駅から来た道が旧東海道と合流する、赤坂紅里交差点の脇の公園です。

右側に、曲げ物と民芸品の尾崎屋、
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左奥に浄泉寺。

浄泉寺境内には、赤坂薬師、百観音、広重が描いた大蘇鉄がありました。
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浄泉寺を出てきたところが、大橋屋旅館。

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10年前には、尾崎屋で箸を買いました。

また、今回は行きませんでしたが、10年前は浄泉寺に蘇鉄を見に行きました。


東海道ウォーカー憧れの大橋屋旅館】

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2009.1.14.

大橋屋芭蕉も泊まった、300年の歴史のある旅館。
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東海道ウォーカーの憧れの宿です。大橋屋着16:38。

大橋屋は一日に二組しか客をとらないそうで、今夜は私一人きりでした。

江戸時代そのままと聞いていたので、襖で仕切られた隣の部屋とのセキュリティは?…もしや女性同士なら相部屋もあり?…暖房は?…などの疑問がありましたが、襖で仕切られた隣の部屋が空いていても、隣には泊めない、だから一日二組まで、ということなのです。

また、私はトイレが近くにあり、エアコン付きの新館(と言っても十分に古いです)に泊まりましたが、江戸時代からの古い客室は、文化財だからエアコンを取り付けてはいけないため、旧館には、夏と冬には客を泊めないそうです。トイレも下まで行かないといけないし。

宿のご主人に、江戸時代からの二階に案内してもらいました。

今は3部屋ですが、昔は向こうにもう4部屋あったそうで、近所の火事の貰い火で4部屋を失いましたが、奇跡的にこちらの3部屋が無事だったそうです。


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【10年前の大橋屋旅館見学】

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2009.1.14.

ここの特徴は、二階の格子が、よくある千本格子或いは連子格子のような細かいものでなく、荒いこと。普通、格子を細かくするのは、外から中が見えないように、なのですが、大橋屋の格子が荒いのは、工夫があるのです。
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ひとつは、格子と部屋の障子の間に一段高い幅30センチぐらいの欅材の縁側があり、そのために、外から中が見えにくい。

街道沿いの旅籠は二階がなかったり、一階建てに見せかけた二階屋が多かったそうで、それは外を大名行列が通った時に、上から見下ろすのは失礼なので、二階を作らないところが多かったそうで…大橋屋は、一段高い縁側で奥まった分、外から中が見えない、また、縁側近くの天井が急傾斜で低くなっていて、それは外の軒に繋がっているのですが、軒が急傾斜で深いため、外から中が見えにくい。

だから、二階にいて仕事をしたままでも、大名行列をやりすごせたそうです。本来は下に下りて、土下座しなくてはならなかったのに。

その一段高い縁側ですが、実はこれは床の間代わりのもので、そのため、障子が両縁になっています。普通の障子は、片面縁(桟)で、もう片面は障子紙ですが…。外側の縁は取り外せます。そうじゃなければ、障子紙を貼れませんよね。

また、床の間らしい洒落で柱も太く、上がわざと切ってあって、柱と天井の間に柱のない壁の部分があります。でも、それでは柱としての役目を果たしていなくて、天井を支えられないのでは?と思うけれど、実は見えない内側に、三部屋通しの丸太が通っているそうです。

また、部屋が七畳間(縁側の方の二枚の畳が縦半分の半畳のため)という作りだし、その他にも面白いところが何点か。

玄関入ってすぐが二階までの吹き抜けになっていて、横に渡してある大きな木が、わざと曲がりくねった木を渡してある。それがおしゃれで格が高かったらしい。

ところが、その変則的な横木のせいで、ひずみが建物の端に現れる。二階の部屋の障子の幅が、狭かったり広かったり、それぞれの障子で大きさが違うのです。

先程の横木から、昔は鎖を吊るして、大きな囲炉裏があったそうで、囲炉裏の煤で、二階の天井もきれいに真っ黒になっています。

二階上がってすぐの天井が低いので、頭を打たないように言われましたが、いくら江戸時代の人は背が低かったとしても、これはあまりに低いのでは?なんだってこんなに低いのか?と質問してみました。

すると、階段上がって正面に、今は物置にしているけれど実は水屋があって、ここでお茶を点ててお客様にお出ししたそうで、茶室の「にじり」の作りで天井が低いのだそうです。

客室の一番奥の部屋も茶室仕立てで、奥行きの狭い床の間、壁障子、欄間の三点を備えています。

廊下は三部屋にしては広く、これは昔は七部屋あったからで、今の一番奥の部屋の壁側辺りが昔は中央で、今は屏風で隠してある壁に扉があって、今で言うリフトで料理を二階に上げて、ここから両方の部屋に料理を運んだため、廊下が広いのだそうです。

一階に下りて見上げると、壁の上の方に二台の籠が壁の棚に嵌め込まれていて、その横に食べ物リフトの箱がありました。

説明のお礼を言って、来た時はまだ宿に明かりが点っていなかったので、明かりがついた大橋屋はきれいだろうと思い、外に撮影に行きました。案の定、すごくきれい。
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来たとき、古い大きな提灯に何が書いてあるのか分かりませんでしたが、「御宿所」と書いてありました。

【赤坂の夜は更けゆく】

お風呂は檜の丸い桶の風呂で感激。
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夕食はとても美味しく、とくに山芋の味噌かけと、ムカゴをふかしたものが美味しかった。

部屋の床の間には、芭蕉の句の掛け軸が掛かっていました。

「夏の月御油より出でて赤坂や 芭蕉

亀山に比べて、愛知県東部は暖かい。と思ったのは夕方だけ、夜は冷え込みました。

部屋に宿に泊まった人たちが名前や所感を書き記したノートがあり、読んでいたら、共感したり、感動しました。

私も長い文章を書いてしまいました。イラストを二枚も入れて。

ついでに下手くそな俳句も書きました。

「唯一の客もてなしを受け寒の宿 ☆紗」

宿泊客、わたし一人、の大橋屋の一夜は静かに更けて行きました…


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大橋屋、公開?】


実は、御油宿に入った時、下のポスターをちらりと目にしました。
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しかし、歩いていたので、詳しくは見ないで通りすぎてしまいました。

もう一回あのポスターを見かけたら、立ち止まってよく読んでみよう、と思ったのですが、残念ながら再び目にすることはありませんでした。

前に通ったとき、大橋屋は廃墟のようだった。旅館業は廃業したと聞いた。

でも、真新しいポスターに、確か、「大橋屋」と書いてあった。

もしやもしや、期間限定公開とか?

ゴールデンウィークは終わってしまったけれど。

ゴールデンウィークだけで、今日は見られないのかなあ。

でも、もしかしたら見られるかもしれない。

尾崎屋を過ぎた辺りから、大橋屋を目で探していました。

どす黒いような大橋屋ではなく、なんだか綺麗な建物が建っている!

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そして、足下に、大橋屋と書いた石碑が立っていました。
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豊川市指定文化財 大橋屋(旧旅籠鯉屋)」

建物には、大橋屋のように提灯が下がっていて、最初、読めなかったのですが、「古以や」と書いてありました。

そして、公開されているようでした。

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【こいや(鯉屋)見学】

受付の女性らしい方が中にいたので、

「中を見学できますか?」

と聞いてみました。

「どうぞ」

と言われ、中に入ったら、年配の男性のボランティアガイドさんが案内してくれました。

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豊川市HPより

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大橋屋(旧旅籠鯉屋)

大橋屋外観

大橋屋建物は、文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられています。江戸時代の屋号は「鯉屋」で、一般の旅人が宿泊する旅籠屋(はたごや)でした。明治11年(1878)の明治天皇の東海北陸巡幸では行在所(あんざいしょ)として利用されたこともありました。その後、所有者は近藤家から高田家、青木家と変わり、屋号も「大橋屋」と改められました。平成27年(2015)に青木家より建物の寄付を受けたことを契機に、平成29・30年度で江戸時代の旅籠建物の姿を再現することを基本とした保存修理工事を行いました。

市指定文化財 大橋屋(旧旅籠鯉屋)
指定年月日:昭和52年3月1日
構造形式:木造2階建、切妻造、桟瓦葺
延床面積:1階 145.54平方メートル、2階 86.53平方メートル

大橋屋(旧旅籠鯉屋)の施設について
1階は板間と畳で、ナカミセは約8メートルの高さまで吹き抜けとなっており、太い梁(はり)と和小屋組(わごやぐみ)を見ることができます。建物正面西側の虹梁(こうりょう)には唐草文が彫刻され、曲線を描く框(かまち)が見つかったことから、これらを復原しました。
また、2階の座敷からは、格子越しに旧東海道を見下ろすことができます。

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この写真が、梁(はり)の和小屋組みです。
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鯉屋の二階。
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窓の障子が表も裏も表使用で、ではどうやって障子を張り替えるかというと、外して表と裏をまた半分に分けることができ、分けてから障子を張るわけです。

大橋屋が旅館を廃業する前に滑り込みで泊まりにきた、という大阪のご夫婦が、公開と聞いて見に来たそうです。

しかし、私のように、日本橋からずっと歩いている、という人は少ないそうです。

東海道ブームと聞いていますが、みんなスポットで歩いているのかな。

この写真は、一階の表の玄関。
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私が大橋屋に泊まった時は、この玄関はありませんでした。閉鎖されていたそうです。欄間に飾りなどが施されていたので、調べたら昔の玄関だったことがわかったそうです。

青木家が改造した、私が泊まったときの大橋屋ではなく、江戸時代の鯉屋を復元したため、大橋屋に泊まった私にはちょっと寂しい復元(私が泊まった新館は取り壊され、後ろの部分に広重が描いた蘇鉄と灯籠を復元しました)ですが、廃墟で閉鎖されているよりは、こうして豊川市が復元して無料公開してくれたことは嬉しいことです。


【10年前の大橋屋の朝】

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2009.1.15.

大橋屋の朝食は、一番早くても7時半。

寒かったので、温かい味噌汁と、温かい玉子豆腐に温かい甘味噌かけが美味しかった。

おかみさんに見送られて、8時過ぎに出ました。

朝の白い月が山の上に見えました。

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脇本陣輪違屋

15:42 脇本陣輪違屋(わちがいや)跡
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案内板
大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣輪違屋

大橋屋の江戸時代の屋号は『鯉屋』といい、一般の旅人が宿泊する旅籠屋を営んでいた。現存する主屋は文化六年(一八〇九)の赤坂宿の大火以降に建てられたものと考えられている。大橋屋に残されていた間取り図によると、間口が狭く奥行が長い宿場町の特有の敷地に、主屋、継の間、奥座敷、土蔵が並んで建っていた。江戸時代後期になると、庶民も社寺参詣や物見遊山の旅に出かけるようになり、鯉屋にも多くの旅人が宿泊したと思われる。明治以降も旅籠屋を続け、旅人が安心して利用できる旅宿組合の一つである一新講の定宿になっていた。明治十一年(一八七八)の東海北陸巡幸のときには、明治天皇の行在所(あんざいしょ)にもなった。
鯉屋の西隣には、脇本陣輪違屋(わちがいや)」があった。脇本陣は、大名や公家などの宿泊施設である本陣での宿泊が重なったときなどに利用された。本陣・脇本陣の軒数は時代によって異なるが、天保十四年(一八四三)の『東海道宿村大概帳』によると赤坂宿の本陣は三軒、脇本陣は一軒で、脇本陣の建坪は百三十六間余、門構、玄関はなかった。この頃の脇本陣は、輪違屋市三郎が務めていたと思われる。
元禄二年(一六八九)、三河国の幕府領の大半を支配していた赤坂代官所が、正法寺と浄泉寺の間(現赤坂保育園)に移転した。慶応元年(一八六五)の町並図には、東海道から代官所に出入りするための道路が描かれており、大橋屋保存整備工事に合わせて復元した。

豊川市教育委員会


【よらまいかん】

15:43 よらまいかん
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10年前のブログ

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少し先にお休み処があり、「よらまいかん」と書いてありました。

中に入ると、椅子とテーブルと自動販売機と洗面所と…でもトイレがない。壁に手作りの行灯がいくつかかけられ、屋号とあけびなどの絵が描いてありました。

外は整地された広場で、年輩の方たちがゲートボールをしていました。

また数分先に陣屋跡(代官所跡)。


【杉森八幡夫婦杉】

11:03に杉森八幡宮。夫婦楠が立派でした。
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そうそう、赤坂は家康の出身地の岡崎に近く、赤坂宿は家康のお膝元として栄え、各大名も、赤坂宿で泊まるのを遠慮したとか。

家康は、赤坂という地名を江戸にもっていったそうです。

現在の東京の、あの赤坂は、実はこの赤坂宿からとったのだそうです。

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今回は、杉森八幡宮は立ち寄りませんでした。


15:49 八幡社
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【一里山庚申堂道標と長沢一里塚跡】

16:06 一里山庚申堂道標
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高架下を抜けます。

16:11 長沢一里塚跡
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日本橋より77里目。



【道路工事と二地蔵】


その先、道が工事中で、神社の社標やお寺などもあったのですが、おちおち見て歩けませんでした。

でも、最初に歩行者も国道に出て迂回するように言われたのですが、タイミングがよかったみたいで、結局は気をつけて歩けば旧東海道を進めました。

しかし、工事が終わる辺りに立っていた人に、「ここを通ってきたんですか?」とびっくりされました。

歩行者も国道を迂回してもらうように指示されていたのに、工事も進んで歩行者が通れるようになったことの横の連絡が取れていなかったんでしょう。

ほぼ同じタイミングで通った歩行者の、一方が迂回させられて、一方が旧東海道を歩けたとなると、後でクレーム受けることもあるでしょうから。


16:22 巓(いただき)神社社標と常夜燈
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その後の2つの地蔵堂
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二つの地蔵堂については、10年前にこんなことを書いていました。


10年前のブログ

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その先に、常夜灯と、少し離れて鞘堂に入れられたお地蔵様が二つあったので、私は大榎橋の二地蔵と名付けました。

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常夜燈の隣の地蔵堂は蔦が巻き付いていました。

もうひとつの地蔵堂は、格子からお地蔵さまがよく見えたので、道中、旅の安全をお願いしました。


2度目の東海道14日目の5(藤川宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/27/084359