紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き9日目の3(岡部宿)

2度目の東海道9日目の3

4月26日(金)の3

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10:52 歩道橋 廻沢口
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11:14 十石坂観音堂
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一瞬上るのをためらうような急な石段を上ると、市指定文化財の江戸時代末期に 建てられた入母屋造り瓦葺きの観音堂があります。 案内板によると、立派な厨子が二基 、安置されているようですが、中は暗くて見ることは出来ません。境内には、河野蓀園碑文と萬霊塔などの石塔群もありました。
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河野蓀園顕彰碑は、 町奉行服部久工門貞勝が、 駿府地誌の編纂を行った際に、 岡部の属する益頭郡を担当した河野蓀園の顕彰碑を 友人が建立したものだそうです。

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案内板
「 十石坂観音堂

市指定文化財
昭和四十八年四月一日指定

入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は、非常に細かい技巧がほどこされている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。

厨子

中央にある厨子で、宮殿造り、屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木(たるき)、妻入(つまいり)である。彩色がほどこされていて、江戸もやや末期の作品と思われる。

厨子

観音堂の向かって右側にある。宝形、板葺き屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが、品格の高いものである。
江戸も中期以降の作品と思われる。

藤枝市教育委員会

河野孫園碑文
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案内板
「 河野孫園碑文
市指定文化財
昭和四十一年四月一日指定

河野孫園は、駿府町奉行服部久工門貞勝が駿府地誌の編さんを山梨稲川(江戸時代の漢学者としてその名を知られた)に依頼したときに、 岡部の属する益頭郡を担当した人である。 岡部本町に住し(屋号・河野屋)、文化十二年正月十八日四十六歳で没した。
孫園の墓碑は、稲川の撰文と書が刻まれたものである。 その撰文の要旨は、孫園の資性と業績が立派であったことを顕彰したものである。建碑については、孫園の友人で岡部宿駅の漢学者・杉山佐十、本間春策等の 友情によって立石されたものである。

藤枝市教育委員会

十石坂観音堂の案内板も、河野孫園の案内板も、「藤枝市教育委員会」の「藤枝市」の部分が下の字を白で塗って訂正してあるので、2009年1月1日の市町村合併以前に立てられた案内板を、そこだけ訂正したものと思われます。白塗りで消された文字は、恐らく「岡部町」でしょうね。

11:20 桝形跡
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案内板
「 桝形跡

曲尺手(かねんて)とも言います。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっています。
また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツ(あけむつ)に開け、暮六ツ(くれむつ)に閉じました。」

明六ツは日の出の時刻、暮六ツは日の入りの時刻で、季節によって変わる、とコトバンクなどにも書いてありますが、正確には、明六ツは日の出の35分前、手の甲の筋が三本見える頃、暮六ツは日の入りの35分後だそうです。(「暦と時の事典」〔内田正男著〕より)

11:24 トイショップトライ
スーパーマリオのいる店。
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11:25 小祠
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10年前のブログ

【恋は水色】

ガイド本にはガソリンスタンドの先を右に曲がる、とあったので、ガソリンスタンドを探して歩いていたら、右に入る道を先に見付け、振り返るとその角が廃墟となった元ガソリンスタンドでした。

その曲がり角でちょうど正午。町に流れる正午を告げる音楽は、「恋は水色」でした。正午は「野ばら」が多いと勝手に思っていたのですが…それにしても「恋は水色」とは珍しい。

「恋は水色」は、中高生の頃、一番好きな曲でした。

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このガソリンスタンド廃墟、10年経ってもまだ廃墟でした。

正午ではないのて、「恋は水色」は聞けませんでした。10年経っても「恋は水色」が採用されているかどうかも分かりませんが。


【笠懸の松】

11:28 西往 笠懸の松の上り口
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案内板
「 笠懸松と西住墓

『...やがて西行駿河国岡部の宿にさしかかった。荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後ろを振り返ってみると、戸に古い檜笠が懸かっていた。胸騒ぎがしてよくよく見ると、過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。

笠はありその身はいかになりぬらむ
あはれはかなき天の下かな...』
(『西行物語』より)

ここは、歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。『笠懸松』は右手、西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には『西住墓』と伝えられる古びた破塔があっ○○」

(○○は、板が欠けていて、解読不能)

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【 笠懸の松】

岡部宿入り口を曲がってすぐに、笠懸の松の標識があり、ちょっと脇道に入ってみましたが、どうやらかなり上らなければならないみたいなので、時間が気になる私はパスしました。

今夜は江古田までお芝居を見に行くので、14時12分藤枝発に乗りたいのですが、岡部入り口で正午ということは、かなりヤバいので、寄り道で山に上っている時間はありません。

案内板には昭和49年当時の松の写真がありましたが、その後、松喰い虫の害で枯れてしまったそうです。

謡曲にもなった「西行西住」所縁の地。悲しい話です。

西行と西住は伴に修行した仲間なのですが、どこの時点からそうなったのか、西住は西行の弟子になっていました。

天竜川の渡し舟で西行はある武士に杖で叩かれるという仕打ちに合いますが、後に西住が武士に仕返しをしたところ、西行はそれを出家の身にあるまじき行為として西住を破門します。その時、西行は別れの形見として、笠と筆跡を西住に渡したのですが…

西住は西行の後を追い岡部で倒れて亡くなりました。

東国からの帰り道、西行は岡部で西住の死を知り、嘆き悲しんで、「笠はありそのみはいかになりならんあはれはかなき天の下かな」の歌を笠に書き付け、松に掛けて立ち去ったのだそうです。

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上っても、肝心の松がマツクイムシの害でもうないのなら、上っても仕方がないのて、今回も上りませんでした。

説明板に載っている、昭和49年当時の松
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【大旅籠柏屋と岡部おでん】

玉露の里、岡部。また、山間の小さな宿場と言われているそうです。


11:40 大旅籠柏屋
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大旅籠柏屋の見学は、10年前にじっくりやったので、今日はパス。

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【柏屋資料館】

その先すぐに、つた街道(国道1号線)に戻り、道の左側に柏屋歴史資料館がありました。
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昔の大旅籠が最近まで住居として残っていて、90何歳のおばあさんが9年前?に亡くなってから岡部町が買い取り、補修して一般公開されています。

リュックを預かってくれて、1階部分の主な説明をしてくれました。

入って右が身分の高い人が泊まる部屋で、奥の間、次の間、中の間があり、縁付きの畳を使っていました。
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向かって左が庶民が泊まる部屋で、野郎畳という縁もなく荒くガサガサの畳でしたが、今は復元のために作られた野郎畳は目が細かくて、却って普通の畳より高級になってしまったそうです。
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二階などは詰められるだけ詰める雑魚寝状態。二階への階段は二ヶ所あり、今は見学者のために手すりを付けてありますが、往時は手すりもなく急で段も狭く、この階段をお運びさんは着物を着て料理を持って上がり下がりしていたそうで…日本料理屋で中居をしている私は、着物を着て料理を持って階段を…とリアルに想像できて驚きました。入り口でリュックを預かってくれたわけだ。すごい階段です。

旅の七つ道具や柳こおりも展示されていて、興味深いです。弁当箱、小田原提灯、旅用燭台、算盤、書くための道具など。
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台所の土間の中に井戸があって珍しいと思ったら、補修前は庭にあった井戸で、建物が道路側、歩道まで出ていたため、全体を庭側に引いたため、井戸が建物内に入ってしまったのだそうです。

旅籠をやめてからは質屋をしていたため、庭には大きな蔵が二つあり、左側はギャラリー、右側は和食処になっています。
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【水琴窟とシュール赤富士】

中庭に出るとすぐ右に水琴窟があり、きれいな音色をたてていました。
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左手前にトイレ、その奥が土産物売店、正面左の蔵のギャラリーでは、浦田周社(かねたか)展をやっていました。浦田周社は六代目版隈。江戸時代の浮世絵の技術を受け継いで、シュールな赤富士などが展示されていました。
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右の蔵の和食処の前まで行ってみましたが、松花堂弁当や特別膳などかなり高めで、自然薯のとろろ御膳は11~4月の季節限定のようです。そばなど、手軽に食べられるものもありましたが、それなら売店のところで売っている岡部おでんを食べることにしました。

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【岡部おでん】

10年前と同じく、敷地内の売店の岡部おでんを今日も食べました。
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静岡おでんに似ていますが、静岡おでんではかけない、甘味噌を上からかけます。

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【岡部おでん】

岡部おでんは普通に煮てあるおでんに味噌ダレをかけて、細かい鰹節をかけたもので、私はかなり好きです。けっこうたくさん入っていて、おなかも満たされました。
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【大名駕篭と本陣跡】

庭の右側、私がおでんを食べている売店の正面側は何かの体験工房。その手前の左角に、昔の身分の高い人用の駕籠が置いてありました。

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こちらは、今回撮った大名駕篭です。
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その他、柏屋資料館前で今回撮った写真。
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11:56 本陣跡
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柏屋を出て、すぐ先、左側に本陣跡がありました。
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その横は公園になっていました。

少し歩くと、右側に素敵な酒造があり、初亀という銘柄を売っているようでした。
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11:58 初亀醸造株式会社
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初亀醸造㈱ による説明

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"創業1636年(寛永13年)駿府城から程近い場所(現在の静岡市葵区中町)で屋号を「足名屋」とし、酒造業をはじめました。明治初期に岡部町に蔵を移し、現在に至ります。 銘柄の初亀は「初日のように光輝き、亀のように末長く栄える」ことを願い命名。 初亀のフラッグシップ「純米大吟醸 亀」は昭和52年(1977年)に1升瓶10,000円(当時)で発売開始。「日本でいちばん高額な日本酒」として、清酒業界に衝撃を与えました。同時に、現在では珍しくなくなりましたが、氷温の貯蔵庫でじっくりと熟成させる「長期低温熟成酒」の先駆けでもあります。 蔵に湧き出る「南アルプスの伏流水」を仕込み水とし、ワインで言う「グラン・クリュ(特急畑)」に相当する兵庫県特A地区「東条山田錦」を筆頭に、静岡県オリジナルの酒米「誉富士」など、原料米を厳選。酵母は静岡酵母を中心に「伝統型酵母」のみを使用。程よい吟醸香とキレのある味わいが特徴で、食中酒に最適です。 日常生活に寄り添う晩酌酒からハレの日を祝う高級酒まで、原料処理・麹づくり・発酵と全てのお酒を同じ製法で醸します。「透明感と品格を備え、心地よい吟醸香と程よい余韻で料理を引き立てる優しい酒」を理想に掲げ、380余年に渡り継承してきた伝統の技と、データに基づいた最新の醸造技術で「時代を生きる酒」を目指し、酒造りに情熱を燃やして参ります。"

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12:00 小野小町姿見の橋
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案内板
小野小町(おののこまち)の姿見(すがたみ)の橋(はし)

 小野小町(おののこまち)は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国(あずまのくに)へ下る途中この岡部宿に泊ったという。
 小町(こまち)はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山(にしのやま)の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。
 こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を『小野小町(おののこまち)の姿見(すがたみ)の橋(はし)』と名づけたという。 」

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小野小町姿見の橋】

酒造のすぐ先を左に入り、静かな宿場の町並みを進むと、小さな流れの小さな橋に、「小野小町姿見の橋」がありました。

歌人であり美女として有名な小野小町が晩年旅の途中で岡部宿に泊まったそうです。この橋を通りかかった時、夕日に映える西山の美しさに目を止め、ふと足元の水に自分の姿が映っているのをみて、長旅で疲れ、かつての面影の失われた自分の老いた姿に嘆いた、という話が残っています。

ガイド本には、小町は絶世の美女だったからこそ嘆きが強かったのだろうと書いてありましたが…それは男性の意見だと思いました。女性なら誰でも、疲れてボロボロの自分と対面するとショックなもんですよ。針の先で突いた小さな傷だって痛いのと同じです。

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その先の道
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【サッカー手まり】

その先、何軒かの家の軒先にサッカーボールの手鞠が吊るされていました。
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新名物として売り出しているみたいです。

12:07 「サッカーロード 藤枝手まり工房」と書いた家があったのですが、その工房の手前の家の軒先にはサッカー手まりが飾ってあったのに、その先の家には飾ってなかったので、そこが境界線で町内が違うのかな。
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藤枝市HPより

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サッカー手まり

サッカーのまち藤枝のまちを、華やかに飾るのが「サッカー手まり」。サッカーボール型のスチールの土台まりに、布を木目込んで作るサッカー手まりは、誰でも簡単に作ることができます。

サッカー手まりの他にも、グリーンとお茶の花がかわいらしい「お茶手まり」などもあります。

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12:07 光泰寺入口(木喰仏 聖徳太子像)
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案内板
「 瑠璃山(るりさん) 光泰寺(こうたいじ)

木喰五行菩薩(もくじきごぎょうぼさつ)
木喰仏(もくじきぶつ) 聖徳太子

五行菩薩 はこの聖徳太子 像を三日間で完成させている。丸みに満ち、おだやかな表情をもった像からは、日本廻国の大願成就を間近にし、八十三歳にしてますます円熟味を増していく五行菩薩自身の心の表れが感じられる。
 現在、光泰寺本堂本尊脇に准胝(じゅんてい)観音菩薩 像とともに安置されている。
 五行菩薩は、享保三年(一、七一八年)山梨県下部町丸畑の百姓家に生まれる。
 元文四年(一、七三九年)二十一歳のときに神奈川大山で真言宗の仏門に入った。そして宝暦十二年(一、七六二年)木喰 観海上人(かんかいしょうにん)によって木喰戒を授かる。
 五十六歳の時に「日本廻国(かいこく)」「千体造仏(ぞうぶつ)」「国分寺への納経(のうきょう)」の願いを持ち、以来四十年余り全国を歩き渡った。
 岡部には、寛政十二年(一、八〇〇年)六月十三日から八月十三日の二ヶ月間滞在し、六体の仏像と数点の書画を残している。
 木喰仏は、別称「微笑仏(びしょうぶつ)」といわれており、大きな団子鼻、山なりにまがる太い眉、大きな弧をえがく目、鼻のすぐ下の口などが特徴であり、不思議とやさしい笑いをたたえた表情が独特である。
 岡部に残る六体のうち、光泰寺には二体ありそのうち一体が聖徳太子像である。 」

12:14 常夜燈
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12:27 五智如来
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案内板
五智如来像(ごちにょらいぞう)
 市指定文化財
 昭和四十八年四月一日指定
 
 誓願寺(せいがんじ)の境内で街道に面して安置されていましたが、寺が移転したため現在の場所に移されました。
 地元産の三輪石で作られ、石造の五智如来像としては大きなもので、二組あります。一組は宝永二年(一七〇五)に陸奥棚倉(むつたなくら)城から駿河田中城に移られた内藤豊前守弌信(ぶぜんのかみかずのぶ)の家老脇田次郎左衛門正明 が同年に寄進したもの。もう一組は、明治の中頃、鬼島の森川重蔵 と静岡市寺町の藤田権三郎 が作ったものです。
 宝永二年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方にとっては、このことが大きな悩みになっておりある日、静岡の宝台院(ほうだいいん)で徳川家の奥方にこのことを話すと奥方は「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。
 そこで早速、奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。お参りを続けた満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。殿様はこのことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を、家老の脇田次郎左衛門正明は五智如来像を寄進しました。
 向かって右から
阿弥陀(あみだ)如来 釈迦(しゃか)如来 大日(だいにち)如来 阿閦(あしゅく)如来 宝生(ほうしょう)如来
藤枝市教育委員会


12:32 かど万米店
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静岡県商工会HPより

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かど万米店(岡部町商工会)

大正元年、初代万吉は、ここ岡部町東海道沿いに商店を構え、米、調味料、タバコなどを扱う食料品店として地域に根付きました。そして、万吉の“万”と“通りの角(かど)”に店があることから屋号を「かど万」へ。昭和11年に糀製造を始め、米の販売を中心としながら各家庭の味噌・金山寺味噌作りを支えてきました。 現在、味噌作り教室や塩糀・金山寺味噌教室の開催を通して、生きている発酵食品の美味しさや魅力をお伝えしています。

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ちょっと覗いたHPに素敵なことが書いてあったので紹介します。

かど万米店HPより

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〜糀を作り続けて106年〜

[私たちの想い]

かど万は小さな店です。 これからもずっと小さな店でありたいと思います。 手作りの意義を大切にし、お客様と長いお付き合いができるのも、地域の小さな店だからできること と、考えています。

(中略)

心を込めて手間をかけなければ到達できない本物の領域を、私達は守っていきたいと思います。 毎日繰り返される単調な作業こそが、長い年月に耐えて残ってきた証です。五感が感じる能力と、心身の健康は大変に関係が深いです。 四季に触れ、その季節ごとを味わう。日本人に生まれてよかった~。

「自然のサイクルにあった身体にやさしい食べ物を継いで残していく、そのお手伝いをしたい。」

私達に課せられた使命であると考えています。

ありがとうございます。

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かど万米店の店先に飾られていた道具類
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12:36 松並木
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ふじのくに文化資源データベースより

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岡部宿の松並木

新旧の顔がある松並木

岡部支所前より藤枝方面へ少し歩いたところにある松並木です。
北側のみに残された松並木ですが、岡部の工業団地と並び、新旧の顔を覗かせてくれる場所です。

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12:46 岡部宿碑と常夜燈
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これより岡部宿の碑。つまり、岡部宿京方見付ですね。


2度目の東海道9日目の4(岡部宿から藤枝宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/28/003849