紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道と五十三次歩き9日目の2(宇津ノ谷峠)

2度目の東海道9日目の2

4月26日(金)の2


宇津ノ谷宿から宇津ノ谷峠へ向かうには、御羽織屋の少し先にある、この階段をまず上ります。
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上っていくと、左が明治のトンネル、右が旧東海道、という道標があります。
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その辺りから見下ろした宇津ノ谷宿
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【明治のトンネルとトイレ】

宇津ノ谷峠に上り始める前に、明治のトンネルを見に行きました。

10:00 明治のトンネル
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10年前のブログ

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【明治のトンネル】

すぐに階段があり、その上の坂道を上っていくと、やはり一人で東海道を歩いているのではないかと思われる女性とすれ違い、挨拶しました。

その上の坂道に出て…旧東海道は右と出ていましたが、明治のトンネルというのが気になって、左に行ってみました。

明治のトンネルは伊豆の踊り子の映画に出てきたトンネルと似ているかなあ。見に来てよかった。このトンネルは全長203メートルだそうです。

また戻って、案内板を見ていたら、宇津ノ谷の町から来た女性に声をかけられました。

その人は、今日は東海道を歩いているわけではなく、なにかのウォーキング中のようでしたが、以前に東海道日本橋から京都、さらに大阪城まで、5年何ヵ月かかけて歩いたのだそうです。

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トンネルの近くのトイレが、10年前は木のチップを敷き詰めた、水洗ではないトイレでしたが、今日行ったら、水洗に変わっていました。
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また、このトイレの近くに、この近辺の立体模型がありました。
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【宇津ノ谷峠への道】

10:07 山道入り口
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旧東海道はいきなり、

「えっ、ここを登るの?」

と驚く山道に入りますが、10年前より道幅を広げたり、整備されていました。
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もっと鬱蒼として怖かったのに、明るい印象になっていました。

10:08 馬頭観音
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この付近の道
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10:15 雁山の墓
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案内板
「 雁山(がんざん)の墓
 俳人(はいじん)雁山は、山口素堂 に俳諧(はいかい)を学び、甲府駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めました。享保十二(一七ニ七)年頃旅に出て音信不通となったため、駿河文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。
 しかし、雁山はその後『有渡日記(うどにっき)』や『駿河百韻(するがひゃくいん)』等を著し、明和四(一七六七)年、八十二才で甲府に没しました。
 もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていましたが、山崩れで流れ、この位置に移されました。 」

10年前よりも、山道というよりハイキングコースのように整備された道。
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10:16 この辺り、地形変動、の案内板
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「 この辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。
階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今より山側上方を、幅2間(約3.6m)の道が通っていました。

静岡市教育委員会


【峠の地蔵堂跡】


10:17 峠の地蔵堂の石垣
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案内板

「 峠の地蔵堂跡の石垣

この石垣は、江戸時代中(十八世紀末)ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。
石垣は二段構えで総高約七メートル、最大幅約十二メートル。石材は、すべての箇所で横幅が縦幅より長い『平置き』の積み方を施しています。根石はやや大きい石材を用い、天端石(てんはいし)はやや小さい石材を用いているようです。
上段の石垣は、下方で膨らみ、上方で反る形状となり、勾配が一定でないばかりか、表面的に凹凸をもつ形状となっています。この積み方は、中世以前の城郭や近世城郭の高石垣に見られるような積み方とは異なりますが、石材一つ一つの加工度の高いことおよび石組みが丁寧な技法によっておこなわれていることが、石垣の安定をもたらしているといえます。

静岡市教育委員会


10:19 地蔵堂
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手前の案内板
地蔵堂

この奥の空き地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせる。

江戸時代末期の歌舞伎脚本作家 河竹黙阿弥 の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を題材とした『蔦紅葉宇都谷峠』というお芝居がある。


盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りをして用立てた百両を持って京に上る。
文弥は、道中、護麻の灰 提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。
一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意の内に江戸へ帰る途中、丸子に投宿する。

丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
文弥の百両欲しさに、十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、『文弥殺し』の舞台が、ここ延命地蔵堂前である。

延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は毎年八月二十三・二十四である。

平成十年八月 丸子路会 」
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案内板(先ほどのトイレの立体模型の脇にあった案内板)
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「 ■ 地蔵堂と地蔵の話

峠の地蔵堂は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また道しるべの役割も果たしていました。地獄の入り口で衆生(しゅじょう すべての生きもの)を救うという地蔵信仰は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り信仰することによって村や村人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰も流行します。
宇津ノ谷峠には静岡銀行側に峠の地蔵が、岡部町側に坂下の地蔵が祀られており、峠の両側に地蔵が祀られていたことがわかります。坂下の地蔵堂には寛文11(1671)年銘と元禄14(1701)年銘の石灯籠が奉納されていることから、江戸時代前期には坂下の地蔵が信仰されていたことがわかります。
峠の地蔵堂後で平成11年度に実施した発掘調査では、『東海道図屏風』に描かれている祠のものと思われる基壇(建物の下の石や土の壇)の跡と、18世紀末頃に建てられたと考えられる地蔵堂の雨落溝の一部、地蔵堂建築のために造成された石垣が確認されています。石造の地蔵像は明治42(1909)年に宇津ノ谷の慶龍寺に移されました。 」


shizuoka-kenkouin.comより

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<人食い鬼と十団子>

伝承によれば、天安年間(八五七-八五九)の頃、宇津ノ谷峠の奥に梅林院という寺があった。そこの住職に腫れ物ができ、時々小僧に血膿を吸わせていたところ、人の血肉の味を覚えた小僧は人を食う鬼になり、峠に住み着いて往来の人々を悩ますようになった。そのため、峠道を通る人も絶えてしまった。
 その後、貞観年間(八五九-八七七)に在原業平が東国下向の勅命を受けて、この峠道を通ることになった。そこで、業平は下野国(栃木県)の素麺谷の地蔵に祈願して、この鬼を退治してくれることを願った。すると、地蔵は旅の僧となって宇津ノ谷峠にやって来た。そして、人間の姿に化けた鬼に向かって「正体を現せ」と言うと、鬼は六メートル位の姿を現した。そこで、僧が「お前の神通力は大したものだ。では、小さくなることができるか」と言うと、鬼は小さな玉になって僧の手のひらに乗った。僧はそれを杖でたたき、「今、お前は成仏した」と言いながら、十粒に砕けた鬼を飲み干した。以後、街道に鬼は出なくなったという。
 一方、この地蔵は宇津ノ谷峠に移り、旅人の安全を見守ることになった。また、人々は昔の難事を忘れないために十団子を作り、それを食べたり、災難除けのお守りにしたりするようになったという。大永二年(一五二二)に連歌師の宗長が「むかしよりの名物十団子」と記していることからも、十団子の伝説と結び付いた峠の地蔵が、かなり古くから祀られていたことがうかがわれる。
 現在、十団子は縁起物として、縁日の八月二三日と二四日に慶竜寺で売られている。また、この日には初盆供養のために遠近から多くの人々が参詣に訪れる。かつては地元の青年団が念仏供養を行ったというが、今は僧侶による供養である。だが、子供たちが花や線香を売る風習は、昔から変わることなく続いている。

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さて。いよいよ宇津ノ谷峠です。


【宇津ノ谷峠のネッシー

10:24 宇津ノ谷峠
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10年前のブログ

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【 宇津ノ谷峠】

最高地点には特に峠の表示はありませんでしたが、ちょうど「し」の字を裏返したような木がニョキッと生えていて、私はその木に宇津ノ谷峠のネッシーと名付けました。
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私が「宇津ノ谷峠のネッシー」と名付けた木は切られていました。

10年前は、宇津ノ谷峠という表示はない、と書きましたが、今回はうっすら消えかけた表示がありました。
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【10年前の下り坂】

今回、道が整備されたこともあって、すんなり降りてしまったのですが、10年前は怖い思いをしました。

宇津ノ谷峠からの下りについて、10年前のブログを長くなりますが引用します。

10年前のブログ

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【宇津ノ谷峠を下る】

下り斜面に入った途端に風が強くなり、ひどく心細くなりました。上り坂はぐいぐい上れましたが、急な下りとなると足元もおぼつかない。斜滑降みたいにジグザグで下りたり、膝に付加が行かないように体重のかけ方を工夫しながら下りました。

これだけ心細いと、御羽織屋で買った十団子が心の支えになります。

おばあちゃんが、
「鬼除け、魔除けだけではなく、今の世の中、怖い事件がたくさんあるから、このお団子を持って歩くと、旅の安全を守ってくれますよ」
と言ってくれたのを心の支えに…。

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10年前には怖かった山道がすっかり歩きやすくなったことは既に書きましたが、10年前にはこんなことがありました。

10年前のブログ

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【鬼除け十団子の効用】

暫く下りていくと、反対側の林道の終点、ここまでは車が入れるところに、1台の車が停まっていて、PUFFYの「亜細亜の純情」を大音量で流していました。そのわりに車内に人の気配がない…

私が下りてきた山道のすぐ脇の林の中で、誰かが何かをしていました。

山菜採りの時期ではないし、林業従事者ではなさそう。

何をしているのか確かめるのは怖いし見ないフリをしてグングン下り、その場を離れて大分経ってからも、あとをつけてこないかとか、後ろを気にしていました。

暫くして人里が見えてきてホッとして、「♪お団子お団子嬉しいな~」と歌いながら下りました。

鬼除け団子を持っていてよかった。お守りって、心の支えなんですね。

十団子が本来の意味の鬼除けとしか思っていなかったら、挙動不審人物と山道で行き会った時に心のお守りの役をなしませんが、御羽織屋のおばあちゃんが、
「怖い事件がたくさんあるから、旅の安全のお守り」
と言ってくれたから、団子が私の心細さを支えてくれたのです。

団子を持っていようがいまいが、危険度は変わらないと言ってしまえばそれまでですが、風の吹く足元がおぼつかない急な山道に一人きりだった私の心細さを団子が支えてくれたのは本当です。

そして、誰とも行き合わなければ、そんなに怖くはなかったのです。誰かがそこにいたから怖かったのです。

あとで長男にこの様子を話したら、
「それは確かに怖いね」
と言ってました。臆病になっていた私だけの自意識過剰的反応ではなかったようです。

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鬱蒼として下るのが大変だった道は、今はすっかり歩きやすくなっていました。
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10:28 案内板
「 この付近は宇津ノ谷トンネルの管理道が出来たことにより道の様子が大きく変わっています。旧道は写真(赤色)に示す形状になっていました。
岡部町教育委員会

岡部町は2009年1月1日の市町村合併藤枝市編入されたので、この案内板はそれ以前に立てられたものです。

私が前回ここを歩いたのは2008年10月26日なので、当時は志太郡岡部町でした。


10年前のブログ

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【鬚題目碑】

途中、鬚題目碑がありました。東海道を歩いていると、髭題目碑に時々出会います。

ひげだいもく(髭題目)とは、大辞林によると…

日蓮宗で、題目の「南無妙法蓮華経」の七字のうち、「法」以外の六字の端の部分を長 くひげのようにのばして書いたもの。「法」の光に照らされ、万物がことごとく真理を体得して活動することを表したものという。跳ね題目とも言う。

この先に「蘿径記碑」があったそうですが、今は坂下地蔵堂に移されているそうです。


【蔦の細道】

峠道を下りきると、右側から明治のトンネルからの道と合流し、左側から蔦の細道からの道と合流し、その先の右に鼻取地蔵堂(坂下地蔵堂)がありました。

そして、そこに蘿径記碑がありました。

「蘿径」(らけい)とは、「蔦の細道」のことで、近世東海道の開通で忘れ去られ、荒廃したのを嘆いた駿府代官の羽倉簡堂が文政13年(1830)に建てたもの。

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今回の到着時刻は、

10:34 髭題目碑
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10:37 蘿径記碑跡
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蘿径記碑は文政13(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。
「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。

tokaido-kanaria-netより

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江戸期の宿場制度の制定とともに、旧東海道の整備が進み中世の官道「蔦の細道」は、寂れ忘れ去られていった。
この古道の存在を明らかにしたのが、旧東海道に建てられた「蘿径記(らけいき)の碑」であった。

この碑は、駿府代官の羽倉外記(げき)の撰文を彫り込んだ石碑で、当時廃道となっていた「蔦の細道」の記念碑である。

蘿径記の碑 蘿径記の碑跡

蘿径記の碑 旧東海道にあった碑の跡地
蘿径記(岡部町文化財保存協会の書き下し文)によれば
(前略)山南の小路、即ち蘿径の口たり、北行すれば崎嶇。穴を穿たば一千歩にして始めて峰の左草橋に達せん。而うして山椒正に不尽の峯を東面に見る。即ち、僧宗祇の記する所に方に合す。
径は当時の官道。親王、宗尊、参議、稚径の諸公、皆佳什あり。
然れども、豊公の相州を征するや、路、今の道に従う。即ち、古道の廃するや久し。(中略)
後のこの径を過ぎて、余とこの心を同じうする者、いずれか。即ち、一石を樹てて以って、その口を表すという。

(山の南に古道がある。その道は官道で、天皇の皇子らも通った。しかし秀吉公が東征して以来、官道が今の道(旧東海道)になり廃道となった。私は石碑を建てて道を明らかにする。)
文政13年(1830)8月の選文で名文といわれている。

当時「蔦の細道」は幻の道で、平安文学の上だけの幻影だった。

 
蘿径記碑の移築

「蘿径記の碑」は、その後、明治トンネルの開通によって「旧東海道」が寂れたため、トンネルの西出口に移された。

やがて新宇津ノ谷トンネルの工事開始に伴い、昭和34年、現在の坂下地蔵堂(鼻取地蔵)の境内に再び移築された。

しかし「幻の蔦の細道」の復元は、昭和40年代の春田鉄雄氏らの努力を待たなければならなかった。

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10:42 延命地蔵尊 坂下堂
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10:48 国道1号線に出ました。
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いよいよ岡部宿です。


2度目の東海道9日目の3(岡部宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/27/113122