2度目の東海道21日目後半の2
7月10日(水)の5
【追分道標工事中】
14:35 追分道標
「右は京都 左 伏見」
脇には「蓮如上人道標」
この右側(京都入口)で工事をしていて、交通規制しているため、道が渋滞していたのでした。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたもの。
工事していたため、道標より真ん前で写真が撮れなくて、拡大して撮っているため、道標の字が潰れて残念。
【車石・車道】
16:36 車石・車道 案内板
閑栖寺の門前に案内板が立っています。
案内板
「 車石・車道(くるまいし・くるまみち)
大津・京都間三里(約12km)の道には、物資を運送する牛車の運行を楽にするため、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって擦り削られて、出来たものである。
文化二(一八〇五)年には、画期的な車石敷設工事が行われ、歩車道分離が整備された。この付近は、京に向かって右側が車石が敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道だった。人馬道は旅人の安全確保のために、一段高く設けられていた。
境内には、当時の状況を一部復元して保存している。
放光山 閑栖寺(かんせいじ) 」
門前から境内を撮った写真
両脇に車石が集められているのが見えます。
車道は見ることが出来なかったので、画像を「アートプラス京都めぐり」というサイトからお借りしました。
【歩道橋と山科地蔵と人康親王】
16:48 歩道橋があって、貼り紙がありました。
「 旧東海道をお歩きの皆様
この歩道橋をお渡りください。
渡り終えましたら
五十メートル先の三叉路を
右に進んでください。
旧三条街道(横木)です。 」
その、渡る歩道橋
歩道橋を渡って横木に入りました。
17:02 地蔵堂・徳林庵
山科地蔵と徳林庵
京都観光Naviより
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山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口6箇所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(しのみやさねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。
境内 には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。山科区四ノ宮泉水町
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京都じっくり観光より
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正式には、臨済宗南禅寺派 柳谷山 徳林禅庵といいます。室町時代の1550年に、人康(さねやす)親王の末葉、雲英正怡禅師が人康親王の菩提を弔うため開創しました。境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜があります。地蔵堂に安置している地蔵菩薩像は、平安時代初めに、小野篁(おののたかむら)が、一度冥土へ行った際に生身の地蔵尊を拝んだことで蘇った後、一木から六体の地蔵を彫りだしたうちのひとつという伝説があります。初めは大善寺に六体の地蔵尊が安置されていましたが、平安時代末期の保元年間(1156~59)になり、平清盛が西光法師に命じて、大善寺も含め京へ出入りする街道口の6ヶ所に分けて安置するようになり、ここ山科の地に分祀されたものと伝えられています。
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人康親王(さねやすしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。仁明天皇の第四皇子。光孝天皇の同母弟。官位は四品・弾正尹。山科宮と号す。
(中略)
貞観元年(859年)に病気を理由に出家して、法性と号した(最終官位は四品守弾正尹兼行常陸太守)。少年の頃より大乗道に帰依したいとの意志を持っていたという。出家後は諸羽山の麓、現在の京都府京都市山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科宮と称した。この山荘は川を走らせ滝を造るなど趣深く造られていたという。なお、四ノ宮の地名も親王が仁明天皇の第四皇子であった事に因むとする説がある。
(中略)
人康親王は琵琶の名手で、隠棲理由の病気は両目を患った事を意味するとされる。江戸時代には座頭・琵琶法師等の祖とされた。当時検校の位にある琵琶法師が毎年当地に集まり琵琶を演奏し親王の霊を慰めた。
(中略)
山科区四ノ宮には人康親王に纏わる史跡が残っている。柳山町の諸羽神社の境内には、親王の山荘跡とされる場所があり、石碑が設けられている。泉水町の十禅寺の東北隅には墓が、四宮地蔵の脇には「人康親王蝉丸供養塔」と書かれた石碑が建っている。
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「蝉丸:人康親王供養塔」というのは、蝉丸は同時代同じ盲目の琵琶法師だと云う事から混同されたようです。
山科駅の近くの案内板
「 旧東海道(旧三条街道)
この地を東西に貫く街道は、古代から都と東国を結ぶ日本の台大動脈であった。
関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、支配確立の一策として道路制度の改革と整備に乗り出した。
この時整備した五街道の一つが東海道である。起点である江戸の日本橋から終点の京都三条大橋の間に宿場が五十三箇所あったことから、これらを総称して東海道五十三次といい、葛飾北斎や歌川(安藤)広重の浮世絵や、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』など、絵画や文学の題材ともなった。
五街道では幕末まで車の往来を禁止したが、都に近い大津・京都間は例外で、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道には雨後のぬかるみに車輪が取られなよう、車石と呼ばれる石が敷き並べられた。今の山科駅前にはかつて奴茶屋と呼ばれる茶店があり、近世の地誌に紹介されるほど著名であったが、平成二十一年に惜しくも廃業した。また、当地の西方、日ノ岡峠の麓には東海道では市内唯一の一里塚が設けられていたが、残念ながら残っていない。
京都市 」
【日ノ岡峠への入り口】
東海道は正確には多分、御陵交番がある角まで行ってから左に曲がるのですが、10年前に近道をして、陵ヶ岡みどりの径を通ったら気持ちよかったので、9年前の中山道の時も陵ヶ岡みどりの径を通り、今回も陵ヶ岡みどりの径を通りました。
17:21 陵ヶ岡みどりの径
そしていよいよ、東海道最後の難所、日ノ岡峠への道へと入ります。
【亀の水不動尊】
17:33 亀の水不動尊が閉鎖!?
坂道を上っていたら、左側に紫の旗昇が数本並んでいるのが見えました。
あれ?
旅人が喉を潤したという亀の水不動尊がフェンスに囲まれて閉鎖されている。私有地につき、立ち入り禁止!?
フェンスの上まで行ったら、「亀の水不動尊」への矢印があって、ご自由に御参拝ください。と、ありました。
よかったよかった。
今は水を飲むことは出来ないけれど、一番坂のきついところで、
「東海道最終日にこんなきつい坂があるって聞いてなかったよ。でも、京都は盆地で山に囲まれているから、京都に入るためには峠越えがあって当たり前か」
などとへこたれている時に出会う亀の水不動尊は救いでした。
亀の水不動尊にお参りできたのは嬉しいけれど、きつい坂の果てにあった亀の水不動尊に入るのに、逆に階段を下りていくのは不思議な感覚です。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。
【日ノ岡峠を抜けて】
亀の水不動尊辺りまでが一番きつく、その後はどこが峠だったんだろうと拍子抜けするぐらい、いつの間にか緩やかな下り坂。
芝生の庭のある家もありました。
小さな地蔵祠がたくさんありました。
そうこうするうちに、
17:45 府道143号線と合流。
【車石広場】
17:46 車石広場
案内板
車石モニュメント説明板
「平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通りの舗石として敷設されてきた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。
平成十六年一月 京都市 」
ここからは、どんどん下って行きます。
【粟田口刑場跡】
17:51 粟田口刑場跡
案内文ですが、【 】で囲ってあるところは木の葉で読めない箇所です。
案内板
「 粟田口刑場跡
この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠から続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
元文元(1736)年には五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間には、車道(くるまみち)に車石(くるまいし)舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶応3(1867)年には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。
また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられいました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者よって、何基もの供養塔が建てられました。明治5(1872)年には、この刑場後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の【発展に】寄与した場所でもあります。
【 】明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や現代にいたる開発によって供養【 】経王塔が破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8〜10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6〜8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁璧には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。
九条峠町町内会・京都市 」
そして、蹴上浄水所前。
絵手紙は10年前のブログ用に描いたものです。
【三条大橋到着】
蹴上から終点三条大橋までは、ひたすら歩き、写真を撮りませんでした。
歩きながら見たもの。
・都ホテルは外装工事中。
・粟田神社
・坂本龍馬、お龍「結婚式場」跡碑
・東山三条交差点
・花見小路
・三条京阪駅
・高山彦九郎正之像
18:26 三条大橋
18:27 弥次喜多像
【生ビール!】
生ビール飲みたい。生ビール!
18:40 牛串ぶんぞう先斗町店で、生ビール、ぶんぞうサラダ(湯葉と京野菜のサラダ)、牛串塩味、牛タン串を食べました。
牛串、美味しすぎる!
【時空を超えて「ありがとう!」】
10年前に思ったこと。
10年前の「時空を超えて、たくさんの人に、ありがとう」
10年前のブログ
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2009.03.26.
東海道五十三次 二十八日目 大津~京都三条大橋 の4
ついに正午少し前に、長かった東海道五十三次ウォークのゴール、京都三条大橋にたどり着きました。
三条大橋に着いた時、もっと泣いてしまうんじゃないかと思っていたのですが、案外爽やかであっけらかんとして、笑ってしまいそうな気持ちでした。
橋を渡り始めて3分の1ぐらい渡った時、涙がにじんできました。
「 ありがとう、ありがとう」
誰に言っているお礼なのか、ずっと「ありがとう」と心の中で呟きながら、渡りました。
橋のたもとの弥次喜多像を見て、隣のなで石をなでて、鴨川に下りて、友人や子どもたちに、「無事に三条大橋に着きました」とメールしました。
この旅に出て、たくさんの歴史や、人々の暮らしに触れました。
道の草取りをしている人もいました。案内板に助かったり、案内板が未整備で迷ったり。
東海道を作った人がいた。東海道を歩いた人々がいた。
今の東海道を保存したり整備したり、案内を作ってくれる人がいる。
本陣や関所や旅籠などを、保存したり復元したり、案内してくれる人がいる。
ボランティアで旅人にお茶を入れてくれたり、お守りの草鞋を作って配っているお年寄りにも出会った。
ただ、挨拶を交わしただけの人もいた。リュックを背負って、一人で歩いている私を励ましてくれたんだと思う。
地図を見ながらうろうろしていると、声をかけて教えてくれた人もいた。
女性一人旅の注意事項をアドバイスしてくれた旅の先輩がいた。
エールを送ってくれた人もいた。
そして、何より、協力してくれた家族たち。峠越えは一人では怖いから、と頼んだら同行してくれた娘たち。何日か留守しても、快く送り出してくれた家族たち。
そんなたくさんの人たちに、時空を越えて、「ありがとう」
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今回も、やはり、時空を超えて、たくさんの人にありがとう、という思いは同じです。
10年ぶりに歩いてみて、変わらないもの、変わってしまったもの、見つけられなかったもの、10年前には気づかなかったけれど、今回気づいたこと、もありました。
変わるのは寂しいけれど、こうやって変わっていくんだ、と目の当たりにすることは、歴史の一端を垣間見たようで面白くもあります。
寒い日、暑い日、雨の日、風の日、霰も降った。膝が痛かったり、足の裏に豆ができたり。
いろいろありました。
本日の歩数 61,037歩 37.23km。
二度目の東海道五十三次、21日で歩きました。10年前は28日でした。
また歩きたいから、ゴールではない気がする。
2度目の東海道五十三次歩き これにて終了
2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
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東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457
東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405