紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き10日目の1(島田宿)

2度目の東海道10日目の1

4月27日(土)の1

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東海道五十三次歩き10日目
六合駅~島田~大井川越え~金谷~金谷石畳~諏訪原城跡~金谷


世間では史上最高、10連休が始まりました。

その初日は、私は昨日の続きで東海道を歩きます。

今日はコースの都合で、少ししか歩きませんでした。

東海道の中でも難所のひとつ、小夜の中山で日が暮れると厳しいので(東海道中膝栗毛弥次喜多も、小夜の中山で行き暮れて、狐に化かされます)、その手前までしか歩きません。

その代わり、大井川の川越遺跡や、金谷の石畳、諏訪原城跡をゆっくり見学します。


【島田帯祭りの大奴】

昨日の続きで、まずは六合駅へ。

7:53 六合駅着。
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高校生がたくさん降りて、暫く私と同じ方向に歩いていましたが、みんな、島田工業高校に向かって右折しました。

この後暫く歩いたら、島田商業高校が、さらに歩いたら、島田高校がありました。

島田の高校巡りみたい。

8:13 監物川と監物橋
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案内板
「 監物川(けんもつがわ)と監物橋(けんもつばし)
 寛永十二(一六三五)年、島田宿は田中藩の預所(あずかりしょ)となり、田中城主であった水野監物忠善(みずのけんもつただよし)の支配下に入りました。志太郡一帯を支配することになった監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れました。感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を『監物川』と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を『監物橋』と呼んだものと思われます。

島田宿史跡保存会 」

8:26 升形跡(宿東入口)
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案内板
「 升形跡(宿東入口)

 宿場の出入口には『見付』とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。
 島田宿 の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは五間四方(約八十㎡)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。

島 田市教育委員会
島田宿 金谷宿史跡保存会 」

島田宿に入ると、島田の帯まつりの大奴があちこちに描かれています。

お店のシャッターに描かれたもの。
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8:30 島田宿一里塚
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案内板
「 島田宿一里塚

慶長九年(一六〇八年)徳川家康は、東海道の一里(三六町)ごとに塚を築かせました。塚は五間四方(直系約九米)、上に榎を目印として植え、登場は街道の両脇に対で築かれました。
島田宿一里塚は天和年間(一六八一〜一六八四年)に描かれた最古の『東海道絵図』の中で、江戸から五十里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献『島田宿並并両裏通家別取調帳』では幅二間五尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。

島田宿史跡保存会 」

8:38 からくり時計(おび通り)
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本来は時間が来ると大奴が出てくるものなのですが、現在不具合があって大奴が出てこないようです。

原因を探している途中らしいです。

からくり時計の近くに、大奴の幟と、
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女の子のキャラクター、「おしまちゃん」の幟もありました。
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マンホールの蓋にも大奴が描かれていました。
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8:44 明治の道標
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【大井神社・帯祭り】

先日 たまたまニュースを見ていたら、3年に一度の島田帯まつりが今年開催、と言っていました。

私は昔、静岡に2年間住んでいましたが、引っ越したその年がちょうど帯まつりの年で、小さかった(2歳)長男を連れて見に行きました。
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こちらは、今日撮った大井神社の鳥居。
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今日は境内には入りませんでしたが、2008年11月に東海道を歩いていた時に撮った、大井神社境内の大奴像がこちらです。
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島田市観光協会HPより

「 三年に一度の元禄大絵巻。日本三奇祭 島田大祭帯まつり (次回は2019年開催)

第109回開催日(2019年1月21日更新)
2019年10月12日(土曜日)、13日(日曜日)、14日(月曜日・祝日)
寅・巳・申・亥年の10月中旬の3日間
スケジュール等については調整中となりますので、決定次第お知らせいたします。

その昔、島田に嫁いできた花嫁は、晴れ着姿で大井神社へお参りし、その姿で町を歩き披露するのが習わしとされていました。
それは気の毒ではないかと花嫁を気遣う心から、女の命「帯」を大奴が木太刀に飾り、安産祈願とあわせて、人々への披露を行うことになりました。
そうなると親たちは嫁入り道具の中でも特に帯に気を配るようになり、娘を気づかい、はるばる親が来る。
逸品を見ようと商人が来る。
さながら帯のファッションショーとなったのが帯まつりの始まりです。

繁栄と豊穣の願いをこめた帯まつりは300年余の間、島田の街に華を添え続けています。 」


8:46 升形跡(宿西入口)
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案内板
「 升形跡(宿西入口)
 宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。
 島田宿 の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていました。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。
島田市教育委員会
島田宿 金谷宿 史跡保存会 」

2度目の東海道10日目の2(大井川川越遺跡)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/11/212802