岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の東海道五十三次歩き12日目の3(見付宿)

2度目の東海道12日目の3

5月3日(金)の3

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【従是西見付宿】

松並木
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「見付の名木 松並木」の標柱。
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10:53 従是西見付宿
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ということは、ここが見付宿の江戸方見付ですね。

10:54 行人坂
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かつて、この坂の下にたくさんの行人(ぎょうにん 山伏、修験者)が住んでいたため、坂の地名由来となっているそうです。

富士見歩道橋を渡ります。

今日は見えなかったけれど、ここから富士山が見えるのかな?

京都側から旅してくると、この辺りで初めて富士山を見つけることから、見付宿の名がついたとも言われています。


【ここは刑場跡ではない】

富士見歩道橋から見下ろすと、緑がこんもりした場所が見えました。
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あそこが遠州鈴ヶ森に違いない。

ところが、行ってみたら、何の看板も案内もない。

変だなあ、と、上るのも降りるのも怖い急階段を上ってみると、
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何やら看板。何々。

「 記

此処は刑場跡ではない。
見付刑場跡は、昭和三十一年(一九五六) 国道一号線の改良工事により道路傍下に埋蔵された。
此処は、見付宿内に刑場が在った事を記すため、史跡碑建立の場として、所有者玄妙寺が管理しているものである。

見付 本立山玄妙寺 」


【10年前は遠州鈴ヶ森】

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国道を歩道橋で渡って、右側を少し行くと、小高いところに「遠州鈴ヶ森」の看板。
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本に「急な階段を上る」とあったけれど、実際その急傾斜、半端じゃない。段の幅が狭くて足が乗りにくい上、手摺に掴まらないと危険。

急な階段を上ると、歌舞伎でお馴染みの大盗賊、日本駄右衛門の墓がありました。
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10年前にはその他にも、無縁仏やら、手水鉢やら、なんだかおどろおどろしい雰囲気の場所だったのですが、石、岩の類いは取りはらわれ、写真のようにすっきり。
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なんだか寂しい。

急な階段を降りるのも寂しい。


【東木戸跡】


11:07 三本松の常夜燈
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11:10 東木戸跡
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11:11 愛宕神社
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愛宕神社

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愛宕神社の入り口の案内板
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東海道愛宕山

慶長6年(1601)徳川家康によって近世東海道の宿駅制度が定められました。道中には松並木が植えられ、約4km毎に一里塚が置かれました。
見付は東海道の宿場町として繁栄し、問屋場や本陣・脇本陣が置かれ、旅籠や商家が軒を連ねていました。
見付宿を一望できる愛宕山には愛宕神社が鎮座し、火坊の神として人々の信仰を集めました。

(左手の坂道が旧東海道にあたります。坂下には、宿場の東の出入口にあたる木戸が置かれました。) 」


10年前のブログ

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三本松の常夜灯
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の写真を撮っていたら、近所の人に「頑張るねえ」と声をかけられました。

「坂を下ると階段を上った上に一里塚と常夜灯がある」と教えてくれました。

坂を下ると、右に遠州見付木戸跡の看板。
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左側には急な階段(写真1)があり、最初のひとかたまりの段を上ると右に常夜灯。
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さらに次のひとかたまりの段を上ると、愛宕神社の本殿の改築工事をしていて、その工事のせいか、一里塚はどれか分かりませんでした。

境内から見付宿の町並みがよく見えました。
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結局今回も一里塚は見つかりませんでした。前回は裏の方まで探しにいったんですけどね。

10年前、本堂の工事をしていた、とあるとおり、今の本堂は白くて真新しい建物でした。

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【冷酒清兵衛】

11:23 東坂梅塚
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JA遠州中央の門前にあります。

梅塚は西坂と東坂にあり、梅塚の説明は後々、西坂の梅塚の時に書きます。

11:26 問屋場
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静岡銀行前にあります。今日は祝日なので銀行はお休みです。

御朱印屋敷・冷酒清兵衛邸
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中遠広域事務組合HPより

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中遠の昔話 第62話 冷酒清兵衛

磐田市見付宿は、磐田原のきれいな水が湧き出ていて、どぶろくや、清酒を作るのに適していました。
 その昔、馬場町に住む上村清兵衛は酒を作り、いつも冷酒を飲んでは、自慢していました。ある日、領主の徳川家康が見付を訪れた時、清兵衛が、自慢の冷酒を勧めたところ、家康は、たいそう気に入り、清兵衛を『冷酒清兵衛』と呼ぶようになりました。  しばらくして、家康が、見付の東側に来た時のことでした。家康をねらっていた武田方の武士に追われて、命からがら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を何とか追っ手から守らなければと、見付宿のあちこちに火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました。
 武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。南を回れば水田で遠く、北は山道で追うこともできず、立ち往生していました。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、翌日、無事、浜松城へ帰ることができました。
 清兵衛は家康から、手柄として一本の名刀をもらいました。それから家康は、見付を通るたびに、清兵衛のところに立ち寄りました。その都度、清兵衛から勧められた冷酒を、家康が飲み干していったので、ますますその名が広がったといいます。

(磐田むかしばなしより)

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御朱印屋敷というのは、多分、家康が清兵衛に御朱印を給ったことから、そうよばれているようです。

同じく家康を助けた、安間平治弥邸跡(御証文屋敷)も近くにあるそうですが、見つけられませんでした。

ここは、通りが広いため、反対側だと多分見過ごしてしまいます。

わざわざ渡って往復するのも時間がもったいないので。(東海道を歩いていて、車がほとんど来ない狭い道だと両脇を見て歩けるのですが、車通りの多い広い道だと、どちらか一方しか大抵見られません)


【旧見付学校】


11:28 北本陣跡
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旧見付学校跡
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ハロナビ静岡より

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明治8年(1875)見付学校校舎として建てたものです。塔をのせた木造洋風建築は現存する日本で最も古い木造小学校校舎となっています。館内には明治から大正の頃の教科書やオルガン、授業風景復元模型などを展示しています。国史跡。

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入場無料で見られます。10年前に来た時は閉館日でした。

今日は開いていたのですが、お腹がすいていたのと、先を急ぎたい気持ちで、見学しませんでした。

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脇本陣三河屋】

脇本陣三河屋門
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shizutabh.comより

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見付宿脇本陣

三河屋新左衛門家は見附宿の旅籠を営んでいましたが旧脇本陣江戸時代後期の文化2年(1805)から脇本陣に指定されました。文化2年3月15日(1805年4月14日)の伊能忠敬による第5次測量の際には宿舎として利用されています。脇本陣は本陣を補う宿泊施設で、本陣が大名などで使用されていた場合は脇本陣がその役割を勤めました。その為、建物の格式が高く、街道から直接座敷に上がれるように御成門が設けられました。大三河屋の門は小規模ながら薬医門形式の格式の高いもので切妻、一間一戸、桟瓦葺、棟瓦の両端には小さいながら鯱が設えられています。平成19年(2007)に現在地に移築復元され貴重な事から磐田市指定文化財に指定されています。

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西坂の梅塚
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西坂の梅塚  

「現地説明板」

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 見付東坂町・西坂町にそれぞれ一本の梅の木があり、通称「東坂の梅の木」「西坂の梅の木」と呼ばれている。
 この梅塚は、昔陰暦八月始めに、一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し、娘を怪物の犠牲に備えた家の前に、そのしるしとして植えたものだと言い伝えている。そして「西坂の梅塚」はその最後のものであったという。矢奈比売(やなひめ)神社例大祭神事「御斯葉下し」(みしばおろし)には、町内十三箇所に榊立を行い、洗米を献じ神官が祝詞を奏上するが、東坂・西坂両方の梅塚もこの十三箇所にあり、同じように神事を行っている。

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11:53 姫街道分岐
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姫街道 wikipediaより

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姫街道(ひめかいどう)は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていた。中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を移動する利用者は減り、地震などで浜名湖南岸が通行不能になった後に迂回路としてよく利用された。本坂峠を経由したことから本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれた。戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となっている。

概要

江戸時代後期になり、幕藩体制が衰えてお蔭参りなどの機会に女性が比較的監視の緩い脇道を通り抜ける機会が増えた頃から、本坂道は姫街道と呼ばれるようになった。呼称の由来は、東海道の本道である新居(今切)の、関所での取り調べ、舟での渡海、もしくは「今切」の語の縁起が悪いことを嫌って利用した女性が多かった、古くからある道という意味の「ひね」街道が転訛した、本道を男、脇道を女と見なした、など諸説ある。

(後略)

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この時はぼんやりと眺めていた姫街道分岐ですが、三河の国御油まで繋がっているとなると、遥かな旅路ですね。

新居関所の厳しい女改めを回避するとか、今切りの渡しを、嫌ったなどの説を10年前にも聞いたのを思い出しました。

浜名湖付近は昔の道が失われていたり、渡場がなかったりで、今は国道を歩いていますが、代わりに見付から御油まで繋がっているとなると姫街道を歩いてみるのも面白いかもしれません。


【西光寺と木戸風モニュメント】


11:55 東福山西光寺・日限地蔵
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時宗 東福山西光寺HPより

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徳川家康公ゆかりの中泉御殿大手門など文化財の宝庫・東福山西光寺は、参拝者が絶えないパワースポット。
テレビやラジオで紹介された境内を覆う大クスとナギの木は、恋愛成就と縁結びのパワーを持つと、良縁に恵まれた人の喜びの声が続いています。
また、本堂にお祀りされている日限(ひぎり)地蔵尊は、二代将軍徳川秀忠公と正室江の五女、中宮東福門院源和子から寄付されたもので、願掛けに訪れる参拝者が途絶えない尊像。

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また、西光寺の門は、家康の中泉御殿の門を移築したものだそうです。

産経ニュースより

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中泉御殿(磐田市中泉)

静岡古城をゆく 2015.3.22 07:00

 ■狩りの休憩・宿所に使用

 徳川家康の鷹(たか)狩り好きは良く知られているが、JR磐田駅南側に「御殿遺跡公園」がある。天正15(1587)年ごろ、家康は中泉府八幡宮神主の秋鹿(あいか)氏から献上されたこの地に鷹狩りの際に使う中泉御殿を築いた。

 天正18年になると、家康は豊臣秀吉の命で関東への国替えとなるが、中泉の1千石は、その後も「在京賄料地」として安堵(あんど)され同御殿も廃止をまぬがれた。本拠の江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを、中泉御殿を経由するように変更。鷹狩りの休憩・宿所としての使用だけではなく、秀吉死後の関ケ原の戦いでは同御殿から出陣、大坂冬の陣でも軍議が開かれるなど、軍事的に活用されたことが指摘されている。

 当該地は平成4、5年に発掘調査を実施し、大規模な堀と土塁が発見された。古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。

 「御殿」は家康没後に廃止され、建物は近隣の寺院などに払い下げられた。その表門が同市見付の西光寺に移築され、主殿と裏門は同市中泉の西願寺などに移築されたという。

 遠江国は幕府幕府直轄領となった。家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地には、「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所が造営されている。(静岡古城研究会会長 水野茂)

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11:56 西木戸風モニュメント
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木戸風モニュメント

案内板の

「 木戸風モニュメント
 木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門のことです。
 二本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由でありましたが、非常の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を停止していました。
 見付宿では、東と西の入り口に木戸が設けられておりました。 」


2度目の東海道12日目の4(磐田市 天竜川まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/090319