紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩きの12日目の5(浜松宿への道)

2度目の東海道12日目の5

5月3日(金)の5


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天竜橋跡、渡し場跡、池田橋跡】

今回は渡し場跡や、昔の橋の跡は訪ねませんでしたが、10年前は訪ねていきました。

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天龍川は昔は船で渡し、明治時代には木の橋が作られましたが、天龍川橋が出来てから、天龍橋と池田橋は廃止されました。

天龍橋跡、
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天龍川渡船場跡、
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池田橋跡、
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と訪ねて行きました。

池田橋跡近くには資料館もありましたが、月曜で休館でした。

天龍川橋付近から池田橋跡方面に川沿いに北上する道は、堤防の車道と平行していたり、堤防から離れたりもします。新天龍川橋へ上っていく車道の下を潜っていくのですが、地図では直進なのに直進の道がなく、簡単なようでわかりづらいので、ちょっと迷いましたが、常に堤防を視野に入れていたおかげでなんとか着けました。

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【有料だった池田橋と、行興寺の長藤】

池田橋跡近くの案内板の大正期の池田橋の写真。
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案内板

「写真 池田橋(大正時代) 大庭孝氏(池田中町)所有

有料だった池田橋

時代が江戸から明治へと変わり、世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。
豊田町でも、天竜橋、池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの付近にかけられました。
この橋は木橋で、『橋銭』をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。
昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました。
平成十年三月 豊田町作成 」

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池田橋跡の近くの資料館の前の道を川とは反対に歩いていくと、行興寺があります。能の「熊野」(ゆや)ゆかりの寺で、この辺りを走るバス「ゆや号」には、お姫さまと藤の花が描かれています。行興寺は房が長い藤で有名だそうで、花が咲いていない今頃行ってもつまらないだろう、と思ったのですが、周りが紅葉していたり、赤い橋があってきれいでした。

藤の木
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2008年12月1日でした。紅葉がきれいだったんですね。

藤がきれいに咲いている写真を、静岡新聞SBSよりお借りしました。
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【新天竜川橋】

14:11 新天竜川橋を渡り始め、11分間で渡りきりました。

向かって左が天竜川橋、右が新天竜川橋。
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天竜川橋には歩道がなく、神天竜川橋には広い歩道(歩行者と自転車用)があります。

11年前に長男が東海道を歩いた時は、新天竜川橋は存在したのですが、工事中で閉鎖されていて、歩道がない天竜川橋を命からがら渡らねばならず、とても怖かった、と言っていました。

天竜川橋は歩道が整備されて、 2008年(平成20年)3月24日に人や自転車が安心して渡れるようになりました。

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私は新天龍川橋は歩行者は渡れないものと思い込んでいたので、古い方の天龍川橋を渡るのだと思っていました。しかし、天龍川橋には歩道がなく、危険。

行ってみたら、新天龍川橋には立派な歩道がありました。
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橋を渡るのに、15分かかりました。

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【寄ってきっせぇ中野町】

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ガイド本には、橋を渡ったらすぐに左に行くように書いてありましたが、堤防は危険だし、橋の下の住宅地に降りていく付近が工事中で迂回を強いられ、矢印に振り回されているうちに、土地勘のない者は方向を見失いそうですが、日没の残照と、天龍川方向は分かるので、とりあえず川に戻りました。

六所神社の前で行く道を考えていたら、車を運転しているおばさんが最徐行しながら「どこから来たの?」と声をかけてくれて、浜松へは目の前に見えている道を(西へ)まっすぐ、と教えてくれました。

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10年前よりも改善されて、東海道ウォーカーに分かりやすい道になっています。

14:26 「寄ってきっせぇ中野町」
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寄っていらしてください、という意味のミニ公園です。

写真のように、木にも矢印をつけて、分かりやすくなっています。
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10年前に途方にくれていたら道を教えられた六所神社がこちら
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ところで、浜松市の中野町は、袋井宿とは、別の観点で、東海道のど真ん中を売り出しています。袋井宿は、ちょうど真ん中の宿場町でしたが、中野町は距離のことを言っています。

HaMaZoより

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中野町の町名の由来は、“東海道のど真ん中” にあるからだとか。

弥次さんと喜多さんの、東海道中膝栗毛に登場したり、
江戸時代の 「東海道名所図会」 には、 
ズバリ 『遠州中野町、京と江戸へ同里なり。町屋村という、また中之町とも名づく。』 
と記されています。

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【舟橋の気功碑と東橋跡】

14:32 中野町銀行跡
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14:33 天竜川橋紀功碑
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明治11年(1878)、北陸東海御巡幸の際、浅野茂平が舟橋を架け、その功績を讃えたものだそうです。

14:36 東橋跡
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案内板
「 かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。
 明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。
 この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです。

 中野町を考える会 」


【ワンダーランドであ〜る!】

14:38 石垣清一郎生家
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「 石垣清一郎生家

 明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社「明星」に参加した浪漫派歌人で、『秋の風 都へ帰る学友の待合室のトランクに吹く』の叙情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。清廉にして豪快、篤実な村長として人々に親しまれた。
 嵐山光三郎昭和17年、中野町の石垣家に生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けて少年時代を過ごした。嵐山の作品には天龍川や清一郎がしばしば登場する。中野町は嵐山のワンダーランドなのである。
 
 嵐山光三郎 記 」


ここは、嵐山光三郎さんの生まれた家。家の前に、お父様で浪漫派歌人
「石垣清一郎生家」として看板が設置されていました。
現在も嵐山さんの従兄弟が開業されている「石垣内科医院」が建っています。

看板の文章の最後に
「中野町は、嵐山のワンダーランドなのである。」と締めくくられているのが印象的です。

昔、日曜日の「笑っていいとも」増刊号編集長が嵐山光三郎さんだった時、こんな語り口調だったなあ。「である」は、「でR」みたいな言い方だったな、と思い出しました。

14:41 軽便鉄道軌道跡
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案内板

軽便鉄道軌道跡
 軽便鉄道は明治四十二年から、浜松~中野町の十一駅間を走っていました。 馬込川沿いの木戸から東海道の南側を走り、この地点で道を北側へ横切り、道沿いの家屋の裏側を通って終点(今の中ノ町自治会館)へ着きました。
 「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車一輌を引いて、家並みの軒先すれすれを、のんびり走っていました。 昭和三年以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和十二年に廃線となるまで、沿線住民の足として親しまれました。
中野町を考える会 」

14:47 松林禅寺
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素敵なお寺です。ここで少し休憩させていただきましたが、トイレはありませんでした。

この向かい側にかやんば高札場があるはずでしたが、見逃しました。10年前はもう暗くなっていたけれど、このかやんば高札場跡は見つけたのに。暗くて写真は撮れませんでしたが。


金原明善生家】

14:47 松並木跡
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14:50 金原明善生家
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10年前のブログ

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暫く行くと、右側に立派な家があり、すごい、と思っていたら、本にも乗っていた金原明善の生家でした。

金原明善は、明治大正の植林と治水に功績のあった人だそうです。

先日、川崎の池上新田開拓のお芝居を見ましたが、村の名主が人々を説得し、私財をなげうち、お上の許可を取り付け、やっと工事に漕ぎ着けるのです。つまり、名主であり、資産家でなければ、名を残す大事業はできなかったのです。だから、金原明善の生家が立派なわけです。

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【本坂通起点と立場跡と橋羽】

15:02 本坂通(姫街道)安間起点
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案内板

「 この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと『□□(従是)鳳来寺』と記された道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、現在は百五十メートル西にある天竜公民館の敷地に移されている。
この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道安間一里塚が東海道の両脇にあった。この一里塚は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。
東海道宿村大概帳』には『安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎』と榎が植えられていたことが記されている。

浜松市東区役所 」


15:17 立場跡
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案内板

「宿場と宿場の間に設置された休憩所。旅人や駕籠かき、馬子(まご)が一休みした。多くの場合茶屋があって、土地の名物を販売していた。
ここは見付宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって、旅人を楽しませたと伝わる。
浜松市東区役所 」

15:23 六所神社
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橋羽(はしわ)の六所神社と呼ばれています。神社前には「お宮の松」と呼ばれる巨大な松がありましたが、昭和54年の大望で被害を受け、伐採されたそうです。


永ちゃんも来る】

15:36 浜松アリーナ
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浜松アリーナは、過去に嵐のライヴもあったし、今年11月には矢沢永吉のライヴもやるそうです。

15:52 蒲神社鳥居
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浜松市HPより

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東海道に面して大鳥居があり、ここから少し北に行った小川の両脇に松が植えられており、ここから北が神明領でした。この松は戦後切り倒され現存はしません。蒲神明宮は、伊勢神宮の御厨(みくりや)として古くから知られており、地元からは、「ごしん様」と呼ばれ親しまれています。

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15: 58 龍梅寺
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「ちゃんと歩ける東海道」より

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享保十五年(1730)、東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘・光の墓がある。

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浜松まつり

5月3日から5日は浜松祭り。

赤ちゃんの誕生を祝って名前入りの凧を揚げるのですが、地区ごとに競い合う喧嘩凧です。

昼間は中田島砂丘で勇壮な凧揚げ合戦。
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盛り上げるラッパ隊もいます。さすが楽器の街浜松。進軍ラッパみたいなシンプルなラッパを手に手に持った市民たちの数にびっくり。

夜は市内で絢爛豪華な御殿屋台の引き回しがあります。
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馬込橋よりも手前に、馬込一里塚跡があるはずでしたが、前回も今回も見つけられませんでした。


【ここより浜松宿】

16:11 外木戸跡
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浜松宿東番所があったそうです。ここから浜松宿に入ります。

16:11 馬込橋
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はまぞうニュースより

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今の風景に馴染む築75年の橋、浜松「馬込橋」

はまぞう編集部

2013年07月22日 19:03


区画整理などが行われ、身の回りから、古い風景が徐々に姿を消しつつあります。

そんな中でも、何気なく街になじむ古いものが見つかると、ちょっと感慨深いものがありますよね。

浜松の街中、松江町には、戦前にかけられた橋が、今も現役で活躍中だそうですよ!

1938(昭和13)年竣工の橋。

 当時の架け替えと、旧東海道(=旧国道1号線=現152号線)の拡幅が同時であったといい、今でも馬込橋~天神町までは同じ幅となっている。


 区画整理後の松江町内に残る最も古い建造物ということになります。

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16:33 万年橋
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見るからに歴史がありそうだし、ここに川が流れているわけでもないので、橋の石柱を残しているからには何か謂われがあるのだろうと調べてみましたが、わかりませんでした。


【本陣跡】


杉浦本陣跡
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川口本陣跡
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梅屋本陣跡
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祭りの人出で街中を歩くのが大変です。祭り半纏も地区ごとに違うので、行き交う人々の波がなかなかきれいです。


【夢舞台東海道の道標の悲しい末路】

16:39 連尺交差点
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間もなく17:00から祭りのため、自動車通行止めになるそうで、警察官が大勢待機していました。

16:54 壊れた夢舞台東海道浜松宿の道標
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夢舞台東海道の道標を心の拠り所にあるいているので、壊れた道標は胸が潰れる思いです。

17:20 JR浜松駅。
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普通電車を乗り継いで帰宅。

本日の歩数 42,598歩 25.9km


2度目の東海道13日目の1(浜松宿から舞坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/194742



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026


東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457

東海道五十三次の絵手紙後半へ
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