紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き12日目の2(見付宿への道)

2度目の東海道12日目の2

5月3日(金)の2


法多山 従是二十町】

9:18 御幸橋(ごこうばし)
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この橋を渡ると、旧川井村。

9:20 法多山(はったさん)道 従是二十町の道標
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町(長さの単位) wikipediaより

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丁とも書く。条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200メートルを11町と定めた。したがって1町は109.09091メートル、1キロメートルは9.16667町となる。

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ということは、二十町は、2,181.8182kmです。約2キロですね。

法多山尊永寺 wikipediaより

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法多山尊永寺(はったさん そんえいじ)は、静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。遠州三山の1つ。本尊は聖観音正観世音菩薩、厄除観世音)。

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厄除け団子(くし団子)が名物だそうです。


9:25 どまん中西小学校
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【澤野医院記念館】

9:26 澤野医院記念館
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じゃらん観光ガイドより

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澤野医院記念館について

澤野医院記念館は、江戸時代後期から昭和初期までに建てられてきた病院建築群で、古い医療具や家具など、古き時代を体験できます。近年大規模な修繕を行い、昭和初期の私設病院の雰囲気をそのままに一部を展示室として公開。東海道を訪れる人々の滞留施設、地元との交流施設としても利用されています。2007年6月、オダギリジョー主演映画「たみおのしあわせ」の撮影が行われました 。

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土日祝日公開(年末年始休み)

4月〜10月 9:00〜17:00
11月〜3月 10:00〜16:00

入金無料

今日は平日なので、開いていませんでした。

オダギリジョー主演の「たみおのしあわせ」は、10年前も気になったのですが、まだ観ていません。


【寺澤家長屋門津島神社

9:29 寺澤家長屋門
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明治元年(1868)に建てられたそうです。

コトバンクより

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長屋門
ながやもん
江戸時代,武家屋敷で敷地の周囲に家臣を住まわせる長屋を建て,その建物の一部に扉をつけて門としたもの。門の屋根は左右の長屋と棟続きで一連のものとなる。石高 (こくだか) によってその形式が定められていた。また地方の名士や旧家などにも長屋門をもつことが認められた。

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9:30 津島神社
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案内板

津島神社のいわれ

幕末の混乱期、東海道の松並木で津島牛頭(ごず)天王社のOFFだが見つかりました。むらびとがこのお札を津島神社(愛知県津島市)に納め、ご祭神をお迎えしたのがこの八代の始まりです。お札降りの詳しい日時はわかりません。聴秋・薩摩の武士達がもたらしたとも伝えています。現在の建物は、大正期に建てられたものです。
袋井市内でのお札降りは、慶応元年(一八六七)八月十三日に山梨村(上山梨地区)で豊川稲荷のお札が降り、八月中旬に袋井宿、九月一日には久津部村(国本地区)で秋葉神社と大頭龍(とうりゅう)神社のお札が降ったと伝えられています。

平成二八年三月三〇日
袋井市教育委員会

「ご祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
天照大御神の弟神
本社由来 本社のある愛知県津島市は、 江戸時代には『津島牛頭天王社』、今では『つしまの天王さま』と呼ばれ、全国約3,000社の天王信仰の総本山です。
ご神徳 蘇民将来の逸話から『疫病、厄難災除け』の神として古くから信仰されています。 」


蘇民将来(そみんしょうらい) wikipediaより

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蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 – 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。

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お札降りは、幕末に反幕府勢力が天皇の力を民衆に知らしめ、幕府をおとしめるために、伊勢神宮のお札や、近隣の神社のお札を降らせたと考えられ、人々は仕事をせずに躍り狂う、ええじゃないかに発展していった、と言われているそうです。


【木原一里塚跡】

9:40 木原松橋 道標
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県道413号線から右斜めの旧道に入った辺りに、この、夢舞台東海道の道標があります。

9:44 木原一里塚跡
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ふじのくに文化資源データベースより

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木原一里塚
東海道61番目の一里塚
一里塚とは、街道の側に1里(約4キロメートル)ごとに旅人の目印として土を盛り上げてつくった江戸時代の塚。木原一里塚は、江戸から61里にあたります。
この一里塚は復元されたもので、本来の一里塚は現存してはいません。場所も異なり、この場所から約60メートル東にありました。
復元された一里塚のそばには復元整備の記録が記されており、地域のシンボルとして大切にされている様子がうかがえます。

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【木原畷古戦場とクスノキ


9:46 許禰(こね)神社
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許禰神社境内に、木原畷古戦場の碑と、
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巨木のクスノキがあります。
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巨樹と花のページサイトより

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袋井市教育委員会設置の説明板によれば、袋井市木原の許禰(こね)神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
 またこの地は木原畷(きはらなわて)と呼ばれる戦国時代の古戦場でもあります。1572年、武田軍と徳川方の久野氏とが一戦を交えており、徳川家康が信玄に敗北した三方ヶ原の戦いの前哨戦であったとされます。神社は旧東海道に面しており、近くには「須賀神社の大クス」もあります。
 クスノキは本殿に向かう参道の左手にあり、幹の下部が膨らんだ形状をしています。愛知県豊田市八柱神社のクスや、名古屋市の村上社のクスノキほどは極端に膨らんではいないのですが、そのために見た目以上に幹周が大きくなっています。

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木原畷 古戦場

案内板

「 古戦場 木原畷

 元亀三(1572)年秋、武田信玄 は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。
 信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道 を西進してここ木原付近に布陣しました。これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成 は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが「木原畷の戦い」です。その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりをつとめた本多忠勝 の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています。
平成ニ七年十月
袋井市教育委員会


【木原大念仏と須賀神社の大クスノキ


9:51 木原大念仏
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袋井市公認ブログ「HamaZo」より

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「木原大念仏」~400年以上つづくお盆の風物詩です~

袋井市シティプロモーション

2017年08月01日 17:51

まもなくお盆がやって来ます
お盆の伝統行事として、袋井市木原に伝わる「木原大念仏」をご紹介します

「木原大念仏」は、お盆の期間に初盆のお宅に参り、
亡くなった方を供養するために庭先などで念仏踊りを納めます。

遠州地方各地に残る「遠州大念仏」のひとつで、400年以上の歴史があります


先導役の「引手(ひきて)」を先頭に行列を組んで初盆のお宅へ向かいます。
「幟(のぼり)」や、「双盤」と呼ばれる2つの鐘、「笛」、「太鼓」などが後に続いて念仏囃子を奏で、総勢約40人の行列です

到着すると、先祖をご供養する「念仏踊り」、「おかめ・ひょっとこ」も加わり舞を踊る
「畷(なわて)踊り」の二部構成で、「遠州大念仏」の中でも特有の
勇壮な跳ね踊りを行う「跳び念仏」を披露します。

※「木原大念仏」の起こり
 1578年=天正6年の夏、現在の掛川市にある高天神城から
徳川家康軍の様子を探りに来た、武田勝頼の家臣笹田源吾が木原村で討ち取られました
その後、村に疫病がはやり、源吾のたたりではないかといわれたことから、
村人は笹田源吾の墓をたて、その前で行った供養祭が始まりと伝えられています。

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9:56 磐田市に入りました。

10:02 須賀神社の大クスノキ
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東海道からはほんのちょっとですが外れていますが、見に行きました。

市指定天然記念物 樹齢600年。

昔、枝があった跡が瘤になり、どうどうとした姿、幹の太さも圧巻です。

10:05 菅谷陣屋牢屋跡
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県道から須賀神社への道の途中にある、西島老人憩いの家の玄関脇に、「菅谷陣屋牢屋跡」の立て札。

アサヒネットより

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西島陣屋は、西島地区にある須賀神社の境内を中心とした住宅地一帯に築かれてた。 現在、陣屋の遺構などは何も残っていないが、神社北側にある西島老人憩い家に「菅谷陣屋牢屋敷跡」の標柱が立てられていた。

歴     史

 西島陣屋は、元禄11年に菅谷範平によって築かれた。 文禄元年、元土浦城主菅谷範政は徳川家康に4,500石召でし出され常陸手子生城を与えられた。 5代範平が元禄の地方直しにより遠江へと所領を移され、以後11代政信までこの地を領して明治に至った。

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【三ヶ野松並木】


10:11 太田川を三ヶ野橋で渡る。
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ガイド本「ちゃんと歩ける東海道は五十三次 西」(袋井宿がどまん中なので、袋井宿を挟んで西の本に入りました)に従って、土手の階段を下り、九州石油と松の間の舗装道路を進むと、三ヶ野(みかの)の道標(夢舞台東海道)。
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松並木の辺りで休憩。座って昨日どまん中茶屋で買った茶飴を食べました。
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【明治の道、大正の道】


鎌倉古道の看板。行ってみたくなる矢印です。
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大正の道の石標。
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明治の道の緑のトンネルを上っていきます。
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【江戸の道、三ヶ野七つ道】


途中まで明治の道を上っていたら、左に江戸の道、と書いた石があったので、
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そこから写真のような道を上っていきました。息が切れました。
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案内板

「 歴史がうつる三ケ野七つ道

◎三ケ野坂の七つ道

磐田市三ケ野

 南北朝時代宗良親王 がその心境を三ケ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ケ谷沼・鶴ケ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。
 東から三ケ野橋を西進すると、標高38㍍ある大日山の急斜面を、這うように江戸期以前の細道が蛇行している。坂上で江戸時代の旧東海道と交差する。そこを2百㍍西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道一号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ケ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つ道が、1カ所にまとまって見られるのは珍しい。 」

この案内板の説明では、七つの道が今一つわかりにくいので、磐田市観光協会のHPより

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鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道(質道)の七つの道が集まっている。

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この、質屋通いの間道とは、この案内板のある大日堂付近から見付けに抜ける間道が、俗に質屋通いの隠れ道と呼ばれていたそうです。


【江戸の道と明治の道の合流地点】

10:36 従是蒲田山薬師道
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この道標のある、三ヶ野公会堂(老人憩いの家)の角で、江戸の道と明治の道が合流します。

実は私は10年前、明治の道を上ってきたため、従是蒲田山薬師道の道標より先に、こちらの「車井戸之跡」を先に見つけました。
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10:37 立場跡
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「旅人の休憩所
(峠の茶屋)
田原歴史愛好会」


2度目の東海道12日目の3(見付宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/074952