紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き12日目の1(袋井宿の2)

2度目の東海道12日目の1

5月3日(金)の1


【どまん中茶屋四度目来訪と、東本陣跡】

8:46 袋井駅

8:58 どまん中茶屋
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どまん中茶屋では、今朝もまた、お茶をいただきました。

今日のお当番の方は、ここの店番、初めてなんだそうです。今日も記帳をして、さあ出発。

9:09 袋井宿東本陣跡
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こちらの写真は10年前の写真。塗り直したのか、作り直したのか。
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案内板

「 どまん中ふくろい 袋井宿東本陣跡

 袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
 一、宿内惣家数百九拾五軒
  内
本陣 凡建坪弐百九拾坪半 門構・玄関附  字新町 壱軒   
同  凡建坪弐百拾九坪 門構・玄関附  字本町 壱軒
同  凡建坪百六拾六坪半 門構・玄関附  同 壱軒
 三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。
 本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数一〇六八坪、塀を除いた建坪ニ八八坪、間口十三軒半、奥行三一間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。
平成十二年七月二十八日
袋井市教育委員会


問屋場跡と袋井丸凧】

9:12 問屋場
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脇に書いてある説明
「袋井宿で継立業務を行っていたところ。文化年間(一八〇六〜一七)には、街道の北、中本陣の西側にあったといわれています。」

9:14 袋井丸凧
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袋井市観光協会HPより

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袋井丸凧の再現

袋井丸凧は歌川広重の「東海道五十三次袋井」や二代目
広重の「諸国名所百景袋井」などに多く描かれています。
その後、一旦は丸凧の伝承は消えて、凧上げの風習も
なくなっていましたが、昭和六十二年、市内の、有志の
尽力により郷土に伝わる丸凧の文化が再現されました。
再び蘇った丸凧は、袋井の空高く舞い上がったのです。

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道を歩いていたら、ご年配の男性が、

東海道を歩いているなら、これを差し上げます。」

と、今歩いている通りの、昔の家並みの地図をくださいました。

昔の屋号が書いてあります。

これは貴重なものですが、今の家並みと全く違うため、なかなか心の目で見ることは難しい。


【西木戸跡】

9:15 高札場跡
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常夜燈
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是より西 袋井宿
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この一角が公園になっています。ここにはトイレ(雪隠)もあり、10年前も今日も借りました。

ここで袋井宿は終わりです。

2度目の東海道12日目の2(見付宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/231512