紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き12日目の4(磐田市 天竜川まで)

2度目の東海道12日目の4

5月3日(金)の4


【 旧見付学校風トイレと、府八幡宮

その先、旧東海道は、左斜めへ。
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また再び県道に戻り、少し行くと、あれ?旧見付学校の少し小さい版がある!

トイレでした。
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すっかり忘れていましたが、10年前はここで用を足しました。

12:06 府八幡宮
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八幡宮HPより

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八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。

 遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。

 寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。

<国 府>こくふ 
 国府は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指す。国衙ともいいます。

<国 司>こくし
 国司は、古代から中世の日本で地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で四等官である、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にありました。国司国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。

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遠江国国分寺

12:06 遠江国国分寺
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今回は県道の左側を歩いていますが、10年前は、県道の右側を歩いていたので、遠江国国分寺跡にも立ち寄りました。

10年前のブログ

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国分寺自体は、もう跡地や礎石しか残っていませんが、焔魔堂がありました。その横の浄水石は、当時のままのものが残っているそうです。
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国分寺跡はだだっ広い起伏のある、きれいに刈られた草地で、礎石や階段が残っています。

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東京の国分寺市にある国分寺を見に行ったことがありますが、雰囲気的には似ていますね。

磐田市HPより

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天平の甍 遠江国分寺跡とその周辺

磐田市内には、古代の寺院や役所の遺跡が分布しています。
特に奈良時代には大之浦に臨む台地上に、遠江国府や遠江国分寺、遠江国分尼寺、大宝院廃寺などが建てられました。国分寺国府の北方に建立され、その東側には府八幡宮、さらにその東には天御子神社が、国分寺の北方には国分尼寺が造られました。

天平13年(741年)、諸国に国分寺国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建立が始まりました。

国分寺は金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊などの伽藍が配置されていました。伽藍は築地塀などによって区画されていたようです。遠江国分寺は昭和26年に発掘調査がされ、七重塔跡をはじめ主要な伽藍が発見されました。昭和27年に国の特別史跡に指定されています。

遠江国分寺は金堂を中心に、北側に講堂が、南側に中門が配置され、金堂と中門には回廊が巡っていました。伽藍の範囲は東西180m、南北250mにも及び、その周囲にも関連した施設が点在していたものと考えられます。

七重塔の跡には礎石が残っています。国分寺の建立や維持には、莫大な労力と経費を必要としました。中世になると国分寺は衰退し廃寺となりますが、国分寺の一隅に堂が建てられました。

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【お惣菜屋さんでランチ】

八幡宮の少しずつ先で、道を渡って右側へ。

どうせその先で右折しなければならないし、右側の方がお昼にありつける予感がしたのです。

その予感的中。

12:20頃、知久屋というお惣菜屋さんを見つけました。イートインスペースも広々とありました。
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みそ汁90円 海老芋饅頭180円 鶏唐揚げ159円 おにぎり120円 黒胡麻プリン120円 → 合計 税込みで733円

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お茶は無料でいただけます。

座れたし、ゆっくりできました。トイレも含め、20分ほど滞在しました。

知久屋の同じ敷地内だと思うのですが、写真の石碑がありました。
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旧救院跡

中泉救院があったそうです。

いわた文化財たより 第73号(平成23年4月1日発行)

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明治2年(1869)、静岡藩中泉奉行の前島来助(らいすけ)(のちの逓信大臣・前島密)の呼びかけによって、災害などで困窮している人々を救済するための施設として、救院(中泉救院)がつくられ、明治21年まで運営されました。

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ジュビロ磐田の町】

東海道磐田駅までは行かず、磐田駅の三本ぐらい北側の道を西に曲がるのですが、曲がる角を見落として駅まで来てしまいました。

ジュビィちゃん
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JR磐田駅(12:51)
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ジュビロくん(道の対角線側からなので遠いですが)
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10年前のブログ

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駅 までの歩道には、ジュビロ磐田のマスコットキャラクター(写真1)が立っていたり、ジュビロ磐田の選手の足形のタイルがいくつも貼ってありました。手形の人もいました。

ちなみにジュビロ磐田のマスコットは男の子がジュビロくん、女の子がジュビィちゃん。静岡県の県鳥、サンコウチョウだそうです。

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駅から北に少し戻って、東海道に戻りました。


【中泉】

13:04 中泉道標
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江戸時代の中泉の地図
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大正期の中泉の地図
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このような地図を見ても、なかなかピンときませんね。

大正期の地図は鉄道が書いてあるので、おぼろげながら今と比較しやすいかな。


【恐竜と一言坂の戦い】

13:12 大乗院坂界隈の看板
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案内板

「 大乗院坂界隈  

 旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。
 大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。
 この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。
昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。
 現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。

 大松の会 」

13:13 くろん坊様
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この名前を書くのは抵抗があるのですが、固有名詞なので仕方ありません。

案内板

「 くろん坊様

 黒坊大権現は、旧東海道で、現在地の西約百米(現 磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。
 
 磐田化学工業(株) 大松の会 」

そして、こちらの写真は、10年前に県道261号線で出会った恐竜。
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今回は出会えませんでした。

一言橋と万能橋の間、多分、万能橋の近くのパチンコ店の屋根の上に棲息していると思われます。

10年前のブログ

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広い国道の立派な歩道をずんずん歩いていたら、恐竜に出くわしました!もうびっくりです。

私の調査によると、この恐竜はジュラ紀ブラキオサウルスだと思うのですが、恐竜に詳しい方、ご意見を。

(アパートやバス停の名前から)この辺りは一言という地名らしい。

一言主神と関係あるのかな、と思っていたら、一言坂古戦場が近くにありました。

一言坂の戦いは、徳川家康武田信玄三方ヶ原の戦いの前哨戦で、袋井の三箇野川の戦いで破れた家康軍は、浜松に向けて敗走していましたが、磐田郡にある一言坂で追い付かれ、再び戦いとなったのが、一言坂の戦いです。

この時、徳川軍を救ったのが、家康の重臣本多平八郎忠勝。本多は徳川軍を逃がすため、とんぼぎりと呼ばれる槍を振り回して孤軍奮闘し、枯れ草に火をつけて敵軍を蹴散らしました。

しかし、本多が無事に逃げおおせたのは、敵ながらアッパレ、と感じ入った、武田側の小杉左近のはからいだったとも伝えられているそうです。

本多が逃げた後、こんな落書きが散らばっていた、或いは立て札が立てられた、と言われています。

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(兜)に本多平八

一言坂の戦いにはこんな逸話もあるそうです。

命からがら逃げてきた家康が、この地にあった、一生に一度だけ願いを叶えてくれると言う一言観音に願ったことで、家康軍は無事に逃げおおせた、と。

一言観音は、奈良県興福寺や、千葉県にもあるそうです。

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【名残松】

13:21 名残松
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これは、10年前に撮った写真。
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こちらは、今回撮ったもの。
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【宮野一色】

今回、宮之一色一里塚を見つけられなかったので、この写真は10年前に撮った写真です。
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ふじのくに文化資源データベースより

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宮之一色一里塚

東海道63番目の一里塚

一里塚は、江戸時代の初期(1604年以降)に徳川幕府により築かれたといわれています。旅人に距離を知らせるために江戸日本橋から1里(約4キロメートル)ごとに塚が設けられました。塚の上にはエノキやマツが植えられ、その木陰は旅人の休息する場所となっていたようです。
宮之一色(みやのいっしき)一里塚は、江戸から数えて63里にあたります。現在の一里塚は昭和46年(1971年)に復元されたもので、塚の西には松並木が点在し、かつて街道を行き交った旅人の姿をしのばせる場所となっています。

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13:26 宮之一色秋葉山常夜燈
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案内板
「 宮之一色秋葉山常夜燈

 この常夜燈(灯篭)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政11年【1828年】に建てられたものと分かりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯篭の中でも大変貴重なものです。風よけに灯篭の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。
 毎年自治体の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」お札をこの灯篭に奉納しています。
地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇拝されています。
 旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯篭のある宮之一色へようこそ。よい日、よい旅を・・・。

 平成15年10月 宮之一色自治会 」


【長森立場】

13:52 長森立場 長森こうやく
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案内板

「 長森立場(たてば)

江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村―あいのむら―)には、立場(たてば)という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。
 明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。

長森かうやく

『長森かうやく』は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる『あかぎれ』や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。
 山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ3.5センチメートルという立派なもので、これには『御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門』と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。

こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
 昔の歌に
『諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく』
                   と詠まれています。
 平成18年3月 磐田市教育委員会


天竜川への道】

いよいよあばれ天竜と言われた、昔はここを渡るのは難所だった天竜川へが近づいてきました。

写真の奥まで進み、
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写真の階段を上ると、
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堤防の道に出ます。
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歩道もなく、車が結構通って怖いです。


2度目の東海道12日目の5(浜松宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/24/175545