紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き10日目の2(大井川川越遺跡)

2度目の東海道10日目の2

4月27日(土)の2

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8:51 大善寺の梵鐘
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案内板
大善寺の梵鐘

 当山の鐘は、天命四(一七八四)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。
 しかし、この鐘は、昭和十九(一九四四)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和四十八(一九七三)年に新しく造られたもので、毎月一日・十五日と大晦日に撞かれています。

島田宿 金谷宿 史跡保存会
島田市教育委員会
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9:03 謎の大提灯
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島田市公式ホームページ「島田博物館」より

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田町の祭典用品(若者の幕・大提灯・屏風)
郷土の画家、永村茜山が描いたといわれる田町若者の幕と180cmもの高さの大提灯、地区の人が描いた屏風を巌室神社祭典時に田町会所に飾ります。

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画像がなかったので、これがそうなのか、これはまた別物なのか、わかりません。

この先、左の方に行かねばならなかったのに、真っ直ぐ行ってしまい、川越遺跡の前に大井川に着いてしまい、川岸の道を川越移籍に向かって南下しました。

ですので、川越遺跡に関しては、東海道を江戸方面から歩いてきたときに見る景色とは反対の順で見たり、また戻ったりしていますが、東海道ブログ的には、一般的な順番に書いていこうと思います。

その前に、寄り道情報。


蓬莱橋
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島田には、木造の橋としては世界最長のギネスに載った蓬莱橋があります。

東海道を歩いていると、蓬莱橋に寄るのはかなり遠回りなので別の時に二度行きましたが、「人生観が変わる橋」です。
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添付の写真と絵手紙は、2014年9月に娘と来た時のものです。
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【軌道修正の途中で】

旧東海道の正規の道から外れて右に行き過ぎてしまい、川越遺跡に戻る途中で見た景色を載せます。
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【上段の間が現存する塚本家】

私は今回、大井川の河川敷に近い朝顔の松から見始めて、一旦川越遺跡を島田駅に近い側まで戻ってから見学してきました。

朝顔の松については後で紹介します。

まずは上段の間が現存する塚本家
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案内板
「 上段の間が現存する塚本家
 『上段の間』とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約二十cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことです。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていました。
 塚本家に伝わる文書によると、九州肥前長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代 や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。なお宿泊は、定められた宿場の宿泊施設以外では、原則禁じられていましたので、大名は島田宿内の本陣に泊まりました。建物はその後、修理や改築の手が加わっていますが、基礎や上段の間には当時の様子が残されています。
 塚本家歴代の主人の多くは『三太郎』を名乗り、家系の記録では、元禄までさかのぼりますが、川越し場が開設された当時からの旧家と思われます。

島田宿 金谷宿 史跡保存会
島田市教育委員会


その近くには、島田市博物館の分館である古民家がありました。
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「㈱まちづくり島田」HPより

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島田市博物館分館は、江戸時代の川越しの面影を残す国指定史跡「大井川川越遺跡」に隣接し、「海野光弘版画記念館」と「島田市民俗資料館」からなります。特に「海野光弘版画記念館」は、明治時代の古建築を生かして展示室としたもので、旧家の趣が溢れる博物館です。

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開館時間…9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日…月曜日、祝日の翌日、年末年始、臨時休館日

入館料は、個人一般(高校生以上)は300円。団体は240円。小中学生以下は無料です。

そのほぼ向かい側辺りに秋葉神社がありました。
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【川越遺跡の六さん】

昔は 東海道の最大の難所が箱根越えと大井川越えでした。

しかし、

「箱根八里は馬でも越すが
越すに越されぬ大井川」

と歌われたように、箱根よりも難所と言われていました。

橋も渡し船もなく、川越人足の肩車か、梯のような蓮台で渡るのですが、

サイト(edojidai.info)から拾った情報より

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大井川を渡るときの料金は川の水深によって細かく分けられていたのです。

大井川を渡るには、川渡し場の両岸に設置された川会所に行って「川札」を購入する必要がありました。

この川札は、川越人足の肩車で渡る場合には1枚、大きな荷物などがあってもうひとり人足が必要な場合には2枚買う必要がありました。

また、4人で担ぐ蓮台渡しの場合には4枚必要でした。

要するに、川越人足の人数分だけ「川札」が必要になったわけです。

この「川札」1枚を購入するための料金は、川越人足の体のどの部分まで水深があるかで決まります。

水深が川越人足の股の下までだと「股通」となり48文(960円)、褌(ふんどし)の帯の下までだと「帯下通」で52文(1040円)、帯の上だと「帯上通」で68文(1360円)、乳首より下の位置だと「乳通」で78文(1560円)、脇の下までだと「脇通」で94文(1880円)となっていました。

そして脇よりも水深が深くなると、川止めということになりました。

水深が脇の下までの「脇通」のときに蓮台を使って大井川を渡ると、94文の川札が4枚必要になりますので、合計7520円ということになります。

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しかし、勝手な行動での事故を防ぐため、また、 当時、川越人足は巨大産業で、人足の生活を守るため(こちらが幕府の本音らしいです) 、人足を使わずに渡ると、厳しい罰則があったそうです。

川越人足の宿舎が立ち並ぶ町を再現した川越遺跡。

現在どなたかがお住まいになっている家は非公開ですが、ほとんどの番所が「ご自由にお入りください。」でした。

ちょうど一軒分空き地になっていて、「○○跡」と札が立っているところもありました。

番所の前には、防火用水の大桶と手桶がピラミッドみたいに積まれていました。

ここで、島田市公式ホームページの説明を引用します。


島田市観光協会HPより

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箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川

[大井川 川越遺跡(おおいがわ かわごしいせき)]

江戸時代、旅人が大井川を渡るためには、人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)というみこしのような乗り物に乗り、担いでもらっていました。

その「川越し」の料金所(川会所)や、人足の待合所(番宿)などの風景を再現したのが、この遺跡です。

昭和41年8月1日に国指定史跡に指定されました。


(※川越遺跡の中で、見学できる建物と、居住しているため見学できない建物があります。)

[川越制度と川会所

江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われました。しかし、大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかありませんでした。特に大井川は渡船も禁止され、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れました。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄9年(1696)に川越制度ができました。その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれました。最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人でありました。

川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われました。文献には見当たりませんが、川会所は川庄屋がおかれた元禄9年に建てられたと推定されています。

川越しは明治維新まで続けられていましたが、明治3年(1870)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止されました。

現在の川会所の建物は安政3年(1856)に建てられたもので、川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用されその位置も転々としていました。そして昭和41年(1966)8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたのに伴い、昭和45年(1970)8月、現在地に移築されました。

[川越賃銭と越し方]

大井川を渡るには、川札(川越札・油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗り川を越しました。

この川札の値段は、毎朝、待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を計って定めました。水深は股通とか乳通と呼び、股通の場合は川札一枚が四十八文でありました。


また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76センチ)で脇通四尺五寸(約136センチ)をこすと川留めになりました。川越しに必要な川札の枚数は次のとおりです。

1.肩車(かたくま)

川越人足の肩にまたがり越しました。川札は1枚。常水以上は手張(補助者)がつくので川札が二枚必要。

2.連台越し

(1)平連台(並連台)1人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計6枚。

(2)平連台(並連台)2人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計8枚。

(3)半高欄連台(半手すり二本棒)担ぎ手は、並台と同じ4人で川札4枚と台札(川札の4枚分)の計8枚。

(4)中高欄連台(四方手すり二本棒)担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚。

(5)大高欄連台(四方手すり四本棒)担ぎ手16人、手張4人、台札(川札の32枚分)の計52枚。

[番宿(ばんやど)と川越人足(かわごしにんそく)]

川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田、金谷にそれぞれ360人と定められていましたが、幕末には、約650人に増えていました。人足たちは、はだかで、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥又は雲に竜の模様)をしめ、お互いに川越取と呼びあい、天下の関取に一脈通じると自負していました。

人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番屋であり、年輩者になって川越業務を直接やらなくなった人たちが集まった立会宿や仲間の宿、川札をお金に変えた札場などが近くにありました。

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さて、この先、番宿が並んでいます。

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〔三番宿〕

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説明(紙に印刷したもの)
「 三番宿(さんばんやど)

川越人足がふだん詰めていた待機所(たいぎじょ)です。
川越人足は、10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めました。各番宿には連台5丁が備えてあったと考えられています。

川越は、各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で50人ほど待機していました。

三番宿(現在)の規模
間口 10.4m 奥行15.1m

輪番制
1つの仕事を大勢の人がかわるがわる順番にすることの意味で、まわり番のことです。

島田市教育委員会


〔十番宿〕

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説明
「 十番宿(じゅうばんやど)

川越人足がふだん詰めていた待機所です。

(以下、三番宿と同じ文面)

十番宿(現在)の規模
間口 8.5m 奥行 9.4m

島田市教育委員会


中に入ったらびっくり!

写真の六さんがいました。
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他の番宿にいた、こちらの写真の人足は、名前がわかりませんでした。八っつぁんかな?
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江戸時代の技術では、川幅の広い大井川に橋を架けられませんでした。

渡し船を設置することは可能なはずですが、これも川越人足の生活を守るために設けられなかったのでしょう。

(と、この時は思ったのですが、川関所である大井川は、江戸の守りのために敢えて架橋も渡船も禁止していたそうです。)


【権三わらじ】

各番宿には、昔使われていたいろいろな道具(大盥や臼と杵など)が展示されていました。
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簑と笠。
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こちらの写真は、2008年間11月に来た時に撮った権三わらじです。
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静岡新聞SBS↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

島田市の大井川輦台越(れんだいごし)保存会が、川越人足がはいていた「権三わらじ」の復活に取り組み始めた。文化継承と、国指定史跡「島田宿大井川川越遺跡」を盛り上げることが狙い。15日、同遺跡の「仲間の宿」で研修会を行い、会員らがわらじづくりの基礎となる「縄ない」に取り組んだ。
 会員数減少と高齢化で活動が縮小する中、事務局の松村竜次郎さん(54)が保存会を次世代につなぐ手段として「権三わらじ」に目を付けた。権三わらじは足とわらじの間に余裕を持たせ、水中を進む時に入る小石が取り出しやすいようにしてあることが特徴。現在制作している人がいないため、残っている作品の見よう見まねで復活に取り組む。今後は同遺跡で会員がわらじを制作する様子を公開し、観光客や市民との交流を通して観光地としての魅力向上や会員増加を目指すという。

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〔仲間の宿〕

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案内板
「 仲間の宿

主に竿をとった川越し人足たちの集まった宿です。
ここは、人足たちの仕事上の意見交換や各組どうしの親睦の場として使用されたといわれています。 」

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説明
「 仲間の宿(なかまのやど)

主に年をとった川 まとめる 越人足たちの集まった宿です。また、人足の代表である小頭(こがしら=各番宿の川越人足をリーダー)や陸取り(おかとり)が集まって会合を開いた場所でもあります。
ここは人足たちの仕事上の意見交換の場として使用されたといわれています。

仲間の宿(現在)の規模
間口 10.4m 奥行 10.7m

注1)川越人足....旅人が大井川をわたる際、肩車越しや連台越しといった方法で川越しに従事した人足たち。江戸時代の終わりには、島田側だけで650人程働いていたといわれています。

注2)宿....ここで言う宿は、 宿場の宿ではありません。一般的には番人の詰所を意味する番宿(ばんや)に近く、いわば川越人足の休息所となったところです。

注3)陸取り(おかとり)....45歳以上の川越人足の経験者で、立会人(陸取り同様の川越人足の経験者)が川会所から番宿まで案内した旅人を川越人足に引きわたすことが役目でした。

島田市教育委員会


こちらの写真のような五月人形があちこちに飾られていました。
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ご近所の方々が持ち寄ったのでしょうか?


【関川庵】

関川庵 八百屋お七の恋人吉三郎の墓
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「写真紀行・旅おりおり」より

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火と燃ゆる恋に心も身も焼きて あわれお七が灼熱の恋
 お七(於七)は、本郷八百屋八兵衛の一人娘であったが、火事避難先で寺小姓の吉三郎と知り合い恋仲になった。帰宅後、逢いたい一心でつけ火をする。しかし、放火犯で捕らえられ、引き廻しのうえ、天和3年(1683)品川鈴が森で火あぶりの刑にされた。16歳だったという。
 島田の大井川川越遺跡町並の街道から少し離れたところに、小さな「関川庵」があり、その境内に吉三郎の墓石がある。お七の恋人だった吉三郎は、火あぶりになったお七を弔う旅を続けていたが、この島田宿で病死したというのだ。なお、吉三郎の墓はここ以外にもあるので、そことの関係はどうなっているのか?

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お七の物語は、モデルもいるけれどフィクション部分が多いらしく、恋人の名も諸説あり、吉三郎の墓も他の地域など、いくつもあるそうです。

立会宿跡
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【札場と裂織

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案内板
「 札場(ふだば)

川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。
一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。 」

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説明(紙の印刷物)
「 札場(ふだば)

一日の川越しが終了した後、それぞれの番宿で「陸取り」が、川越人足から札を集めて札場で現金に換えました。
なお換金する際、当日の川越賃金から二割が差し引かれ、川庄屋、年行事などの給金や川会所、その他の番宿の修繕費等に充てたり、島田宿運営の財源の一つとしても使われました。

札場(現在)の規模
間口 9.3m 奥行 13.8m


注)陸取り(おかとり)
川越人足の中でも、実際の川越しには従事しない世話人的な立場の人です。「陸取り」は各番宿に数人いて、立会人から旅人を引き継いで越場まで案内し、旅人から川札を受け取って川越人足に渡しました。川札を現金に換え、人足たちに分配するのも陸取りの仕事でした。

島田市教育委員会


札場で機織り体験教室をやっています。
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島田市博物館HPより

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機織り体験(所要時間 約1時間30分)

かつては島田の農家でも自家用に織られていた「裂織り(さきおり)」。
布は古くなっても捨てずに、細かく裂き、横糸として織り込み、野良着、帯、コタツ掛けなどとして再利用されていました。裂き織りの魅力は温かい風合いです。ぜひあなたも伝統的な手法を体験してみませんか。

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参加料は500円です。

興味のある方は毎日開催されている訳ではないので、島田市博物館のHPをご確認ください。ハサミ持参のようです。
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【江戸風味珈琲】

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芭蕉庵という茶店(土日祝日営業)に、江戸風珈琲300円、と貼り紙があったので、どう違うのか聞いてみたら、隣(裏側) の陶器の工房で焼いている小ぶりの抹茶茶碗に珈琲を入れるのだそうです。

ホットの江戸風珈琲を注文して、赤い毛氈の長ベンチに座って待ちました。

ご近所のおじいちゃんおばあちゃんが入れ替わり立ち替わり現れます。

珈琲には、小さなお菓子(リッツを小さくしたような)が2個付いていてこれが甘じょっぱくてカリッとしていて美味しい。
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茹で玉子もいただきました。
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珈琲自体は普通の珈琲で薄目でしたが、抹茶茶碗効果で美味しかった。

この通り自体は、写真のような感じです。
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今日から連休で、観光客も結構来ているように思いましたが、やはり閑散としてますね。

往時は川を渡る人々で熱気に満ちていたことでしょう。

こちらが芭蕉庵の裏の陶器工房です。
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川会所

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案内板
「 大井川の川越

江戸時代の初期、慶長六年(一六〇一)幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するかぬいっぽう、大井川や安倍川、酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず、川越人足に旅人を担がせて川を渡らせた。
大井川の渡渉制度は江戸時代初期には比較的自由なものであったが 、貞享・元禄期(一六八七〜一七〇四)ころから旅人の安全確保のため制度を厳しくし、元禄九年(一六八九)には川越し業務を統括する二人の川庄屋を置くとともに、その役所として川会所を設置した。
旅人は川会所で渡し賃金を支払って、
川札を買い、河原で待機する川越人足に川札を渡して肩車や連台と呼ばれる木製の台に乗り、人足に担がれて向こう岸へと渡った。
川越制度では、川庄屋のもとに年行事(川庄屋の補佐役)、小頭(川越人足の各組の統括役)、立合人(川役人と川越人足、各組同士の調整役)、口取(旅人の案内人)、待川越(人足業務に特に秀でた者)などを置いて、川の深浅による渡渉賃金の取り決めや通行人の順番の割振り、川札の販売などの業務を行い、円滑な運営を図るとともに規定の渡渉地点以外から越える廻り越しも取り締まった。
川越人足は、当初は島田・金谷両宿とも各三六〇人と定められていたが、交通量の増大にともなってその数も増え、幕末には六五〇人ほどがいたと言われている。彼らは一番から十番までの組に分けられ、交通量に合わせて各組の出番を調整し、川越し業務に従事した。
川越し業務は明治維新まで続けられたが、明治三年(一八七〇)、政府からの通達により、架橋・渡船の禁が解かれ、この業務は廃止された。
島田宿大井川川越遺跡は、江戸時代、東海道最大の難所として知られた大井川の川会所や川腰人足の溜り場として使われた番宿など川越し関連の建物や遺構が残る貴重な場所として昭和四一年(一九六六)、国の史跡に指定された。また、平成八年(一九九六)には文化庁の『歴史の道百選』にも選定されている。

島田市教育委員会

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島田市博物館HPより

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川会所の敷地内にある、「馬方はしらし時雨の大井川」(うまかたは しらじ しぐれのおおいがわ)の句碑です。元禄4(1691)年、まだ川越制度が確立していない頃に、松尾芭蕉が大井川を渡った時の心境を詠んだといわれています。

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句碑の右側には「輦臺越遺跡」と書いてあります。

「馬方は知らじ時雨の大井川」

芭蕉は金谷側から川を渡ってきて、島田宿側に居る。ここで詠まれている馬方は金谷側にいる馬方。芭蕉を金谷で降ろして馬方は戻っていったから、「川のこっちである島田の時雨は分かるまい」というの句です。

【島田大堤とせぎ跡】

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案内板
「 島田大堤(しまだおおつつみ)

 天正の瀬替え以降、島田宿 の大井川 沿いに築かれていた川除堤(かわよけづつみ)が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押しながされました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝 の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。恐らくこの頃(正保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三・六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五、七三三m)と記録されています。
 今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。

島田宿史跡保存会 」

番宿が立ち並ぶ街と大井川の間に、「せぎ跡」という、溝が掘られた石垣が道の左右に一対あります。

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その年が溝に板をはめ込んで、川の増水時に町を水から守る役割だったようです。「せぎ」とういのは「堰」かな?

島田市公式ホームページより

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博物館より少し東に行くと、街道の左右に「せぎ跡」があります。河原の石が積まれ、溝に板を挟んで堤防の役目をしました。この「せぎ跡」より西側は河原でした。

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八重枠稲荷神社

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案内板
「 八重枠稲荷神社
 昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守りました。八重枠稲荷の名前はここからきています。
 宝暦十(一七六〇)年に川越衆の安全と故事の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。
 社殿は文化九(一八一ニ)年と明治三十四(一九〇一)年に修繕されました。石積みは当時のままで、大井川の石を拾って亀甲型にして、積み上げたものです。
 川石は堅くて、手間がかかり、今では市内数ヶ所しかない職人の技法です。 」

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朝顔の松】

せぎ跡のすぐ近くに、「朝顔の松」があります。
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shizutabi.comより

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朝顔の松(島田市

概要: 広島藩の家老の娘「深雪」は京都で宮使いをしていた際、「宮城阿曽次郎」を名乗る好青年と恋仲に落ちます。しかし、急な知らせで国元に戻ると「駒沢次郎左衛門」という男性と婚約した事を告げられた事で途方に暮れ、遂に名前を「朝顔」に変えり阿曽次郎を探す為に旅立ちます。実は宮城阿曽次郎と駒沢次郎左衛門は同一人物でしたが、その事実を知らない「朝顔」は全国を探し回り遂に視力を失い、三味線の弾き語りをしながら僅かな日銭を稼ぎ暮していました。ある日、座敷から声がかかり、何時ものように歌いましたが、その客は阿曽次郎本人でした。しかし、「朝顔」は目が見えない為、阿曽次郎とは気付かず、阿曽次郎も長旅で容姿が変わった「朝顔(深雪)」を気付きませんでした。後日、先日の客が阿曽次郎と分かり急いで追い掛けますが大井川は川止めで遂に会うことができませんでした。朝顔は悲観するあまり自殺を試みますが宿の主人に助けられ一命を取り留めました。すると不思議なことに目が見えるようになり、目を開けて初めて見たのがこの松だったと云われています。何時しかこの松は「朝顔の松」と呼ばれるようになり初代が枯れた際、哀れんだ住民が朝顔堂が建立し枯れた松を木碑として安置しました。現在の松は5代目ですが長く住民達に守られ続けられています。

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朝顔の松のすぐ横にトイレがあります。


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案内板
朝顔の松の由来

 昔、ここに一本の大きな松がありました。
 江戸時代、大井川 には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
 ここには次のような物語があります。安芸国広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎 という青年と恋仲になります。
 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きまわりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
 その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松 でした。
 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り一メートル五十六センチ・高さ二十メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。
 書かれている題辞は『風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂』で島田市名誉市民の清水慎一によるものです。
 この意味は、『松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている』と解釈されます。
 この物語「朝顔日記」は、江戸後期(一八一一年)に作られたものですが、浄瑠璃 として上演されて大評判となりました。『生写朝顔話』は、いまでも上演されています。

島田市

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田中波月句碑
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島田市公式ホームページより

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田中波月句碑
波月【明治37(1904)年~昭和41(1966)年】は、藤枝市に生まれ、島田市に在住し活躍した俳人。地方新聞記者の傍ら、短詩に興味を持ち、郷土文芸誌「印象」を創刊。戦後は、俳句誌「主流」を主宰、創刊し、県文化協会理事を務めた。

「稗しごことこぼれ太陽のふところに」

句意 穂を重く垂らした稗を手ににぎりしめて強くしごくと、ぼろぼろと完熟の実が太陽の光に輝き乍らこぼれることだ。

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川越遺跡には、9:30頃から45分間ぐらい滞在していました。その間に、芭蕉庵で江戸風珈琲を飲んだりもしました。

川越遺跡から大井川橋までの景色。
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【大井川越え】

現代の渡しは大井川橋を徒歩で渡ります。

10年前は10分で渡りましたが、今回は12分かかりました。

10:25 大井川橋、島田側入口
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大井川橋銘板(島田側)
「大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されています。当時の技術力を結集させて建設さられた最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残しているところから、土木学会選奨土木遺産として認定されました。

平成15年11月


大井川橋概要

道路の名称 一般県道島田金谷線(旧国道1号)
所在地 静岡県島田市稲荷〜金屋町金谷河原
橋 長 1026.4m
橋の形式 17径間下路式プラットトラス橋
下部工 橋台2基 橋脚16基
建設期間 大正13年昭和3年

静岡県
橋からの川の景色
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大井川橋の歩道
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広重の島田宿
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絵手紙は、金谷側の公園にあった浮世絵の看板を私に置き換えて描きました。
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私の絵の元の絵看板
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この絵看板については、また本日の3で書きたいと思います。


2度目の東海道10日目の3(金谷宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/18/070520