紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

松尾芭蕉と余瀬地区

 

案内板
「 松尾芭蕉と余瀬地区

 元禄二年(1689)に江戸を発った俳聖松尾芭蕉は、弟子の曽良とともに『おくのほそ道』の旅の途中、黒羽の地を訪れた。ここ旅程最も長い14日間滞在し、知人や多くの史跡を訪ね、次に向かう「みちのく」の地への準備期間として過ごした。宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老浄法寺高勝(じょうほうじたかかつ)(号・桃雪)宅と、その弟鹿子畑豊明(かのこはたとよあき)(号・翠桃)宅であった。
 翠桃宅のあった余瀬地区は、古代、全国に設置された七道(しちどう)のひとつ『東山道』(後に関街道、秀衡街道とも呼ばれた)が通り、その宿駅『粟野宿』として栄えた。室町から戦国時代にかけては、大関氏(後の黒羽藩主)の居城『白幡城』があり、交通・軍事の要衝の地でもあった。
 芭蕉は翠桃宅に5泊滞在する中で、歌仙の興業を行ったり、ここを起点に犬追物の跡や、篠原にある玉藻の前の古墳、金丸(かなまる)の八幡宮(現在の那須神社)などを訪れたりして、多くの句を残している。
 現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が尋ねた同時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、往時俳聖がたどった跡を訪ねることのできる地である。」