紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

住蓮房母公墓の由来

住蓮房母公墓の由来

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案内板
「 住蓮房母公墓の由来

今より八百年前、鎌倉時代当時の仏教は『貴族仏教』ともいわれており、権力者や貴族たちのものでありました。 ところが法然上人は未法の時代にあって、すべての人は平等であり、『南無阿弥陀仏』に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象からもれていた女性たちに広く受け入れられ、『念仏仏教』が大変な勢いで広まっていきました。 法然上人(後に土佐の国に流罪)の説く専修念仏がひろまるにつれ、古くからある仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱す者と決めつけ、元久元年(一二○四)『専修念仏停止』を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。 このような事態の中でも、住連坊・安楽坊は別時念仏会を開きました。 両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。 そんな中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫・鈴虫姫がおられました。 両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛をうけた。 おりもおり、紀州熊野へ参詣の間に、両姫の決死の出家の願いにより住蓮坊は松虫姫(十九歳)を、安楽坊は鈴虫姫(十七歳)をそれぞれ剃髪、出家得度させた。 このことを知った上皇は激怒し、この出来事を一つの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。 建永二年(一二○七)住蓮坊は近江の国馬淵(現在の 滋賀県近江八幡市)、安楽坊は京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処された。 住蓮坊に朝子という母公がおられ、我が子が捕らえられた悲しみで盲目となられ、いよいよ死罪に処される前に、一目逢いたいものと馬淵をめざして、中山道を急がれましたが、途中で住蓮坊上人がすでに首を打たれたと聞き、 最早この世に生きながらえる望みなしと思い、当地焔魔堂町の池(尼ヶ池)に身を投げてお亡くなりになりました。 母公の法名を『住然』と言い、当家の屋敷内に母公の墓があり、又住蓮坊の首を打った刀を所蔵しておりましたが、延寶五年(一六七七)大宝神社(栗東市綣)に奉納してあります。 縁あって、代々墳墓を守りしております。 お墓はこの奥にあります。ご自由におまいりください。 」