紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

住蓮房首洗い池

住蓮房首洗い池

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案内板
「 住蓮房首洗い池

住蓮坊は、鎌倉時代前期の僧侶。 法然源空の弟子で美声であったという。 専修念仏の弘通につとめ、安楽房とともに所々で別時念仏会に六時礼賛を行い、僧俗の帰依を受け、貴賎を問わず教えを広めた。 当時、都では法然上人の念仏教団が既成の教団からうとまれつつも力を得つつあった。 しかし、南部北領の念仏者弾圧は執拗で、建永元年(一二○六年)二月には、興福寺によって法然上人、安楽らとともに、罪科に処せられるよう訴えられている。 同年十二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、安楽と東山鹿ケ谷で六時礼讃を唱えた。 これに帰依渇仰する人多く、それがきっかけで後鳥羽上皇の二女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依した。 これを知った後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は翌、承元元年(一二○七年)近江馬渕の荘の池のほとりで処刑された。 その首を洗ったといわれる池が、この『首洗い池』である。
『身になれし 錦の小袖 やきすてて 弥陀のみ国に 墨(住)染の袖』
(上句・松虫姫 下句・鈴虫姫)

二○○六年六月十一日 
千僧供町まちづくり委員会 」