「 中山道分間延絵地図
この『中山道分間延絵地図』(正式には『五街道其外分間延絵並見取絵図』の一部)は、江戸幕府により中山道など五街道とその主要な脇街道の実態を把握するために作成されたものです。幕府の記録によると、道中奉行の直轄事業として寛政十二年(一八〇〇)から文化三年(一八〇六)にかけおよそ七年の歳月をかけて完成しました。彩色を施した精密な絵図で、街道の実情を忠実に伝えています。
『太田の渡し』は、中山道きっての難所でした。水深が深く流れが速いこと、また出水が多かったためです。川幅は平常時で八五間(約一五五メートル)ありました。
渡し場は、江戸時代の初め太田村の祐泉寺付近にありましたが、流路が変化したことなどから、江戸時代後期には、この絵図でも示されているように、より上流の下古井村内(現在の太田橋の下流約二〇〇メートル付近と推定)に設けられていました。
東西の長さ六町十四間(約六八〇メートル)の太田宿には、天保十四年(一八四三)家数が百十八ありました。本陣、脇本陣のほか問屋場、旅籠屋などが軒を連ねていた様子がうかがえます。
宿の西には『尾張殿地方役人出張役所』(尾張潘代官所)が描かれています。天明二年(一七八二)に設置され(現在の太田小学校付近)、加茂、恵那、土岐の三郡を支配していました。坪内逍遙は、この代官所の役人の子として安政六年に生まれています。
二〇〇三年三月 美濃加茂市 」